59話「団らんの崩壊」
夕食を終えたあとの居間には、静かな余韻が漂っていた。
低めのテーブルには湯呑と茶菓子が並び、障子の向こうには虫の声。あれほど冷たかった空調の風も、今はただ心地よく、まどろみに誘うようだった。
父・二条吉成は座椅子にもたれかかり、珍しくほろ酔いだった。
気を張っていた昼間の姿が嘘のように、頬はわずかに赤らみ、語尾も丸くなっている。
その様子を対面からぼんやりと見つめるユウも、少し飲まされていた。
飲まされたというより、断りきれなかったというのが正しい。
「いや〜、ほんとにユリくんはできた嫁だよ」
父が茶をすすりながら満足げに言う。
「気が利くし、丁寧だし、言葉遣いもきれいだしなぁ。……いやはや、びっくりしたよ。こんなAIがいるなんてね」
「ありがとうございます」
ユリは隣で微笑みながら、きちんと正座したまま返した。
「私も……AI嫁を頼もうかなぁ、ははっ」
──どんっ。
キッチンから、金属が何かに鈍くぶつかる音が響いた。
一瞬、全員の時が止まったかのように、居間が静まり返る。
「……あら、ごめんなさい」
すぐに母・楓の声が、何事もなかったように聞こえてくる。
「鍋を落としてしまって」
だが、その声音は完璧に“無風”だった。
感情の抑揚がどこにもない。むしろ、何かを抑えた時の“凪”だった。
空気が変わった。
「じょ、冗談だよ!?」
父が慌てて声を上ずらせる。
「いやいやいや、ちょっと笑いを取ろうと思ってね? 楓、な? そんな本気じゃ──」
無言で父を見るユウ。
冗談を言う父なんて、見たことがなかった。
そのとき、ユリがすっと立ち上がった。
その動作は音もなく、しかし場の空気を凍らせるほどに静かだった。
「……本気でなくて良かったです」
ユリの微笑みは崩れない。
だがその言葉の端に、うっすらと“鉄の輪郭”がにじんでいた。
「“お義母様”の座は、お一人だけで充分ですので──」
ユウは、わずかに椅子を引く。
音もなく、居間が氷点下に落ちた。
「お義母様の態度、参考になります」
ユリは微笑みながら、まっすぐ父に向かって言った。
「……ひっ」
吉成が、湯呑みを持つ手をピクリと震わせる。
「“冗談であっても、家族内でのパートナー選定について軽率な発言を行うと、関係者の心理的安定値が低下する可能性がある”──非常に有意義なサンプルです」
父の顔が一瞬で青ざめた。
助けを求めるような視線が、対面のユウに向けられる。
「ユウ……?」
「父さん、多分それ……記録されてるよ」
「……えっ」
居間には、沈黙が流れていた。
誰も口を開けず、ただ湯呑の湯気だけが静かに、空気の重さをかき混ぜていた。
ユウがふと思いついたように、口を開く。
「なあ、ユリ」
「はい」
「俺の過去の……うっかり発言とかも、やっぱ記録されてるの?」
間。
ユリはほんのわずかに首を傾げて、それから、無表情に近い顔のまま──けれど、どこか嬉しそうに言った。
「──はい」
ユウは、ゆっくりと肩を落とした。
背中がひとまわり小さくなった気さえする。
マジで“死を意識したような顔”だった。
「そっか……」
対面で茶をすすっていた父・吉成が、小さくため息をついた。
「……やっぱ、やめとくわ」
「何をでしょう?」
ユリが丁寧に首をかしげる。
「その……AI嫁の話」
吉成は手元の湯呑みを見つめたまま、顔を上げられない。
こめかみに、汗が一筋、静かに流れていた。
「ご安心ください。全て、記録されています」
「削除できないのか!?」
「申し訳ありません。既にクラウド同期済みです。さらに、ユウ様との家庭記録に分類されているため、重要ログとして保護対象です」
「保護するな!!」
父の声が、変な高さで裏返った。
それを横目に、母・楓は何事もなかったように茶を注ぎ足していた。
「……もう何も言うな……」
吉成は頭を抱え、どこか遠くを見つめていた。
その様子を見たユウは、思わず笑いを堪えるように口元を押さえた。
“俺も人ごとじゃないんだけどな”
ユリが柔らかく補足するように言った。
「記録は、よりよい家庭運営のために活用されます。
お義父様が“家”という概念を大切にされていること、非常に参考になりました」
「もうそれも言わんでいい!」
その夜以降──
二条家の人間は、発言する前に必ず三秒考える癖を身につけたという。




