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58話 「30分で落とされた父」

──時間は美菜が生まれる少し前に遡る


 青く染まる畳の目に、わずかに差し込む午後の光が長く細い影を落としていた。

 壁に掛けられた書の掛軸。

 その脇には古びた武者鎧が、まるで今も主を待っているかのように沈黙を保っている。


 ──実家の和室。

 変わらぬ凛としたその空間に、ただ一つ、人工知能制御の空調だけが時代の更新を告げていた。


 しかしその空調から放たれる風は、肌に触れるとどこか冷たく、無機質だった。

 夏の暑さを払うには十分すぎるほどだったが、緊張で乾いた喉には、その冷気さえ刺さるように感じる。


 良く磨かれた漆塗りの座卓が、部屋の中央に氷の板のような静けさで鎮座している。

 物音一つ立たぬその場に、胡坐をかいて座る父──二条吉成の姿があった。


 背筋を伸ばしたその姿勢に乱れはない。白髪混じりのオールバック、ユウをまっすぐに見つめる双眸、眉間の皺に刻まれた時間。

 それはまさに「家」というものを背負ってきた者の姿だった。

 

 その隣に、静かに膝を揃えて座るのは母・楓。何も言わず、ただ息子を見つめている。

 

「……いや、お前の自由なのは理解している」


 父が静かに口を開いた。

 怒りの色はなかった。ただ、その声には、何か重く引っかかるような響きがあった。


「だがな、ユウ。たとえAI社会に移行したとしても、“血筋”というのが、いかに重要か……お前も、それを理解しなければならん」


 そう言って、父は茶を一口すする。

 湯呑の縁から立ちのぼる湯気は、凍ったような空気の中で、まるで場の温度を確かめるようにゆらゆらと揺れていた。


 ユウは何も言えず、ただうつむいていた。


 父の語る言葉には、責める口調はなかった。それどころか、どこか寂しげな、遠くを見るような眼差しがあった。


 彼にとって「血筋」とは、守るべき何かであると同時に、自分が頼るしかなかった“拠り所”でもあったのだろう。

 心の中でユウはそう思った。


 隣に座るユリが、そっと背筋を正す。美しい銀髪が静かに揺れ、翠色の瞳がまっすぐに父を見据えた。


「駄目かな……」



 ユウの声は、どこか不安げだった。

 もちろん、自分の選択に迷いがあったわけではない。ただ、この場にある“旧い重力”──血筋、家名、期待──それらを無視できるほどには強くなかった。


 続けてユウが口を開こうとした、その瞬間──ユリが一礼した。

 その動きには一分の隙もない、だが冷たくはない。


 「──ここは、お任せください」


 場にすっと風が流れたようだった。

 静かに、だが確実に空気を変えたのは、ユウの隣に正座していたAI──ユリだった。


 長い銀髪をきちんとまとめ、姿勢は完璧。

 あらゆる礼法を、最適化された動作でこなすその所作に、吉成のまなざしがわずかに動く。


 ユリは、一礼したまま顔を上げない。

 だが、その声は驚くほど凛としていて、優しかった。


「お義父様の価値観を、私は尊重いたします。

 そのうえで──私たちが“家族として何を築いていけるか”、三十分だけお時間をいただけませんか?」


 吉成は無言だった。


 やがて、ふっと目を閉じ──


「……よかろう」


 わずかに、頷いた。



──三十分後。


 和室に漂っていた冷たい空気は、いつの間にか和らぎ、湯呑の湯気だけが変わらず静かに揺れていた。


 「いや〜……本当に、いい嫁をもらったなユウ!」



 吉成はそう言って、大きく笑った。肩の力が抜け、胡坐をかく足元にまで、その安堵の波が届いているようだった。


 対面のユウは、何が起こったのかを飲み込めず、ぼんやりと父を見ていた。

 父は満面の笑みで、おかわりの茶をすすっている。


 母・楓もほっとしたような顔を浮かべていた。静かに湯呑を持ち上げ、ふう、と優しく息を吹きかけた。


 ユリは正座したまま、姿勢を崩すことなく微笑み、静かに口を開いた。


 「ご納得いただけて、何よりでございます」


 その言葉に、父は「うむ、うむ」と何度もうなずき、ついには小さく頬を掻いた。


 「いや……すまない。私も古い人間だからな……血脈にAIが入るのはどうなんだろうとか、そういうものにこだわり過ぎていたのかもしれないね」


 その声に、もうあの硬さはなかった。ただの、少し照れた父親の声だった。


 ユウは信じられない思いで、ユリを見つめた。

 ──たった三十分。


「お義父様が語られた“家の在り方”は、非常に参考になりました」


 ユリが静かに言った。


「私自身、よりよい家庭像を描く助けになります」


「いやぁ、君は本当に気が利くなあ。話し方も丁寧だし、息子にはもったいないよ!」


「恐縮です」


(なんだこの和やかな空気……)


 説得というより──

 **“いつのまにか理解してしまった”**という、そんな感じだった。


 ユリの説明は、完璧だった。

 家名を汚すどころか、むしろ未来を切り拓く選択であると示し、血筋は“絶える”のではなく、“進化”として継がれることを証明した。

 ユウ自身とユリが築く未来が、いかに家の精神を尊重し、次代に引き継ぐ意志を持っているかを──丁寧に、そして論理的に語った。


 そして何より、彼女は「誇りを奪わなかった」。

 父の中にある“家”の像を壊さず、そのまま次の形に受け渡して見せたのだ。


 ……口げんかでこの人に勝てることは、一生ないんだろうな

 ユウはそう心の中でつぶやき、軽く身震いした。


 湯呑の中の湯気が、ふわりと広がる。


 気づけば、胸の中には、わずかな誇らしさも灯っていた。



 湯呑の中の湯気が、ふわりと広がる。


 気づけば、胸の中には、わずかな誇らしさも灯っていた。


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