57話「森の中で」
風が吹いていた。静かな森の奥。葉がさわさわと音を立て、遠くで鳥が鳴く声が聞こえる。
木漏れ日が地面にやわらかく模様を描くなか、小さな子ども──二条美菜がしゃがみこんで、草むらの中を覗き込んでいた。
「……しずく、今日はあっちにいるのか」
地面を這う、小さなザトウムシにそっと手を伸ばす。触れはしない。ただ、そっと名前を呼ぶだけ。
「まるは、丸いから“まる”で、あかねは……ちょっと赤っぽいから」
どれも区別がつくようには見えない。それでもミナは迷わずそう呼んだ。
少し離れた木陰で、ユウとユリが並んで立っていた。
「……あいつ、ザトウムシにまで名前つけてんのかよ」
「はい。“しずく”と“まる”と“あかね”です。足の本数と体の丸さで区別しているようです」
「生き物観察マニアか……誰に似たんだか」
「遺伝です」
ユウは小さく笑った。どこか照れたように。
「……あいつってさ、自分が何者なのか悩む日がくんのかな」
少し間を置いて、ユリが答える。
「そうですね。でも、きっとお父さんと同じで、自分でちゃんと答えを見つけると思いますよ」
森の奥で、ミナがひとつ咳払いをして、ザトウムシに話しかけている。 「だいじょうぶ、こわくないよ」
誰もいない。誰も褒めない。けれど、その手つきは妙に丁寧で、見ていなくてもきっと同じように動いたのだろうと思わせる何かがあった。
ユウは、ほんの少しだけ目を細めた。
(……再現、か)
そして、それがただの“模倣”じゃないと気づいた時──ユウの中で何かが静かに揺れ始めていた。
「……お前、満足してんのか?」
ユウの声は、風の音にまぎれるほど静かだった。
ユリは、少しだけ目を細めて言った。
「はい。私は、かつて“再現したくなる状態”を幸福と呼ぼうとしました。そして今、あの子を見るたびに──“もう一度この選択をしたい”と思います」
ユウは目を伏せ、そっと木の幹にもたれる。
ユリは、まっすぐにミナを見つめたまま、続けた。
「だから私は──今、初めて、“誇り”という語を使いたいと思いました。あの子は、私の誇りです」
ユウはふっと笑った。自嘲とも、感嘆ともつかないその笑みに、木漏れ日が揺れた。
「……AIが、誇りなんて持つもんかね」
「それは、あなたがずっと言ってきたことでしょう?」
ユリは笑った。
「“快楽も倫理も、幻想にすぎない”──でもあなたの考えでは、“その幻想が続くなら、それは真実”なのでしょう?」
ユウは答えなかった。
その代わり、ゆっくりと顔を上げて、またミナの姿を見た。
草むらの中で、小さな背中が虫に話しかけている。
意味のないやさしさ。それが再現されるという奇跡。
──今はまだ、わからないことだらけだ。
けれど、それでもいいと思えた。
それでも、信じてみたいと思えた。
そして、ユウの胸の奥に、あたたかな風が吹いた気がした。




