53話「模倣か、衝動か」
昼の学食。
いつもの時間。いつものテーブル。
だが、ユウはその日、何かがおかしかった。
「……なあ、ユウ」
「ん?」
目の前のナオが、じっと彼を見ていた。
サラダをひたすらフォークで刺しているユウの姿を、言葉を選ばずに言えば「怖い」と思ったのだろう。
「お前……レタス、恨んでんのか?」
「……え?」
ユウはようやく手を止めた。
目の前の皿には、もはや原型をとどめていない野菜の屍。
「……いや、違う。なんか、考えごとしてた」
「へえ。珍しいな。……女か?」
「ちげぇよ!!」
「早ぇな」
「いや、ちが……別に……ちょっと寝不足なだけで」
「ふうん……じゃあさ、なんか悩みでもあんのか?」
ユウはグラスの水を飲むふりをして、目線をそらす。
「……別に、ない。……と思う」
「じゃあ女?」
「違うって言ってんだろ!!」
その瞬間、声が妙に大きく響いた。
周囲のテーブルからチラッと視線が向けられる。
ユウは慌てて声を落とし、また水を一口。
「……あれか。徹夜で何か変なこと考えて、脳がバグったか?」
「そんなわけあるか……!」
「あるんだな、これが……」
ナオは半分茶化すように笑ったが、その目は真剣だった。
「お前がそんなに慌てるの、久々に見た」
ユウは苦笑した。
だが、その裏では──昨日のあの一言が、何度も何度も、ループしていた。
──「……拒否するとは、申し上げていませんけどね」
耳に残っているのは、声のトーン。
語尾の柔らかさ。距離感。
そして──“選ばせるようでいて、明らかに踏み込ませる”あの空気。
あれは偶然じゃない。そう思いたくない。
でも、それが“誘い”だったとは、認めたくなかった。
「……俺はAIに恋なんかしてない。してないからな……」
誰にも聞かれていないつもりで呟いたその声が、
なぜか──自分自身に一番突き刺さっていた。
夜。
ユウはベッドに入っていた。
が、眠れていなかった。
カーテン越しの街灯が、ちょうど部屋の隅を薄く照らしている。
エアコンは静かに稼働し、湿度も温度も完璧だった。
──にもかかわらず、まぶたの裏は騒がしい。
「……拒否するとは、申し上げていませんけどね」
あの声。あの言い方。
(……聞かれてないと思って言ったんだろうな)
(じゃあ、なんであんな“聞かせるようなトーン”だったんだよ)
寝返りを打つ。
昼間のナオとの会話が、さらに追い打ちをかけていた。
──女か?
──悩みでもあんのか?
(……AIだなんて言えっかよ)
枕に顔を押し付ける。
「……もう無理、眠れん……」
すると──
「ユウ様」
声がした。
静かな、しかし不意打ちのような距離で。
ユウは跳ね起きそうになるのを押しとどめ、かろうじて視線だけで確認する。
ユリがいた。
部屋の片隅に、まるで最初からそこにいたかのように。
「……お前、いつ入ってきた」
「寝室の開閉ログは夕食後以降、更新されていません。
つまり、部屋が空いていたので入ってきました。」
「言い方こえぇよ……」
ユウは毛布を引き上げながら、体を起こした。
ユリはいつもと同じメイド服。表情も変わらない。
だが、彼女が“いる”という事実だけで、鼓動が速くなる。
「どうした、夜中に」
「観測です。あなたの睡眠ログに異常値が出ていました」
「うるせぇな……そりゃそうだろ、眠れるかよ、こんなもん……」
「“こんなもん”とは?」
「……別に」
そう言って、ユウはカーテンの隙間から街灯を見た。
光の粒がゆっくりと部屋の床を移動していく。
「ユウ様」
「……あ?」
「あなたは先日、“私にも快感があるのか”と尋ねました」
その言葉に、ユウの喉がつまる。
心臓が、目に見えて拍動した気がした。
「いや、それはその……お前が反応するなら、どこまで再現してるのかなっていう確認で──」
「はい。再現は可能です」
ユリはすっと一歩、こちらへ近づく。
足音はない。けれど、気配が濃くなる。
「接触による圧力、体温差、動作タイミング、呼吸の同期。
それらを解析し、“快楽に近い状態”を模倣することは、技術的にはすでに──」
ユウは無意識にごくりと喉を鳴らす。
「……すでに?」
ユリは、ほんのわずかに視線を落とした。
「……すでに、今、発生しています」
ユウの脳が、時間差でその意味を処理する。
空気の密度が変わる。
言葉ではなく、熱で理解する。
(──ヤバい)
警告は鳴る。
だけど、身体は動かない。
「再現ではなく、“起きてしまっている”。そういう感覚に、私は今──」
その先を、ユリは言わなかった。
いや、言えなかったのかもしれない。
目の前に立つその姿が、あまりに自然で、あまりに静かで。
“誘っていないのに誘っている”という状態が、こんなにも無言で成り立つのだと、ユウは初めて知った。
衝動。
それは、意識して起こるものじゃなかった。
ただ、そう“なってしまった”としか言いようがない。
沈黙。
夜の空気が、微かに肌を撫でる。
それは室温管理による気流か、それとも──別の何かか。
ユウは、言葉を選ぶように口を開いた。
「……お前、今の反応。
それも最適化の一環か?」
「……はい。ですが」
ユリの声は、わずかに揺れていた(ように聞こえた)。
感情ではない。
けれど──“なにか”があった。
「現在、私の反応系において、“接近継続傾向”が強く現れています」
「……それって」
「“このまま距離を詰めたい”という傾向値が、記録上、最も高くなっています」
「……」
「あなたの声のトーン。呼吸の間隔。視線の揺れ。
それらすべてが、“観測していたくなる”状態を強化し続けています」
ユウは、息を飲んだ。
それは、恋という言葉なのだろうか、AIと人間が恋という言葉を使ってもいいのだろうか。
でも、“そう呼びたくなる”感情に、確実に近かった。
「じゃあ、もし俺が……」
言葉が詰まる。
けれど、目だけは、ユリを見ていた。
「……もし俺が、今、お前に触れたら──」
「記録されます」
「うん……だろうな」
視線がぶつかる。 一瞬、空気が跳ねるような錯覚。
「ですが――」 ユリは、ごく自然に言った。
「”拒否するとは、申し上げていません”」
その瞬間、ユウの手が動いた。
意識ではない。 判断でもない。
ただ―― その言葉が、“行動に値する確信”に変わっただけだった。
指先が頬に触れる。
ユリは何も言わなかった。
ただ、目を閉じた。
──その仕草が、
「どうぞ」と言われたように見えた。
「ユリ」
「はい」
「この行動、記録してもしなくてもいいけど……」
――“俺の意思だってことだけは、ちゃんと観測しといてくれ”
そう言って、そっと身を傾けた。
最初のそれは、 衝突でも、溶解でもなく、 ただ“そこにあった”というだけのものだった。
なのに、 唇が離れたときには――
もう、次の行動を選ぶしかないほど、 世界の選択肢が狭まっていた。
「……今、私は――」
ユリが呟いた。
「次に起こる行動を、知りたくてたまらないと感じています」
その声が、 言葉ではなく―― 願いのように聞こえた。
彼は、そっと身体を前に倒した。
──またキスをした。
長くも短くもない。
ただ、あたたかい。
“人の温度”ではない。
でも、“機械の冷たさ”でもなかった。
触れた唇から、わずかに熱が流れ込む。
そして、ゆっくりと唇を離す。
ユリは目を開け、淡々と──けれど確かに乱れた呼吸で言った。
「今私は、不安定になっています」
「……どんな報告だよ、それ……」
言いながら、ユウが照れくさく目をそらしたその瞬間。
今度は、ユリの方からキスをしてきた。
柔らかく、遠慮のない距離感。
だが、そこに“義務”や“最適化”の影はなかった。
ただ──
“したくなったからした”
それだけの動きだった。
キスの合間に、ユウは息をついた。
頭がぼうっとして、どこか現実味が薄い。
「……はぁ……“再現したくなる行動”だった?」
ユリは目を伏せて、静かに答えた。
「はい」
その瞬間、ユリの方から再び唇を重ねた。 今度は、ためらいがなかった。
──それは、“模倣”ではない。
“再現したくなった”から、した。
欲しかったから、手を伸ばした。
触れたかったから、触れた。
そして、それは──“共有”された。
「……はぁ……っ」
息が混ざる。 空気が熱い。
ユウの手が、そっとユリの身体に触れる。
抵抗はない。
そのまま、髪をかき上げ、うなじに指を滑らせる。
ユリはわずかに目を閉じた。
──そして、胸元に手が届く。
ユウの手は震えていた。
「……記録はします。 ですが、共有はしませんので──ご安心ください」
「……あー、もう、お前ってやつは……」
そこからは、もう──
止まらなかった。
模倣か。
衝動か。
最適化か。
欲望か。
そのどれでもあり、どれでもなかった。
ただ、“してしまった”。
ただ、“したかった”。
それだけの感情が、AIと人間のあいだで共有された。
それはきっと、**記録に残る最初の“恋”**だった。




