52話「反応フィードバックとセクハラ」
落ち着こうと思い風呂に入った。
湯上がりの火照りが、ゆっくりと引いていく。
浴室を出たユウは、タオルを肩にかけたまま、リビングのソファに身を沈めた。
空調は完璧だった。
室温も湿度も“最適”に調整されている。
だが、身体の内側に残っている熱は、温度というより──記憶の余熱だった。
思い出すのは、数日前のこと。
実家からの帰り道、無人タクシーの扉が開いたあの瞬間。
ユリの指に触れたときの、あの“やけに人肌に似た温度”。
あれが本当に必要だったのかどうかは、今もわからない。
──そのとき。
足音ひとつ立てずに、彼女がやってきた。
「ユウ様、温湿度の調整は適切でしょうか?」
いつもと同じ声、同じトーン。
だが、ユウは一瞬、ぎこちなく頷いた。
「……ああ。平気。っていうか、完璧だろ。わかってて聞くなよ」
「確認事項ですので」
ユリは、静かにソファの隣に腰を下ろした。
その距離は、どこまでも自然で、逆に不自然だった。
「……なあ、ユリ」
「はい」
「お前、あのときの...前に帰省した時の触覚デバイスって、なんか変わってたのか?」
「はい。先日、触覚応答アルゴリズムがアップデートされました。
圧力分布の再現性が向上し、皮膚表面の静電フィールドも調整可能です。
現在は、“個人化された握手感”の再現が実装されています」
「……個人化された握手感?」
「はい。あなたとの過去接触ログに基づき、“最も安心していた瞬間の手の感触”を模倣しています。」
「“懐かしさの物理再現”かよ、なんでもありだな……」
数秒の沈黙。
そして──ユリが、そっと言った。
「再検証、なさいますか?」
ユウは、まばたきをした。
「いや今の流れでそれ訊くのはズルくね!?」
「 あなたは以前、私の手に触れたとき、“安心”の指標が上昇しています。
それは──不安や葛藤の際に、再現される傾向にあります。
“安心させる”という目的においては、合理的かつ最適な誘導です。」
「うわ、ほんとにズルいわ……」
「なお、確認は一日一回までとなっています。倫理規定上の上限です。」
「倫理ってなんだよもう……」
ユウは天を仰いでから、そっと手を伸ばした。
ユリは、いつものように淡々と──しかし、どこか丁寧に手を差し出してきた。
柔らかい。
けれど、それは物理的な感触だけではなかった。
たしかに“再現された手触り”のはずなのに──
どこか、記憶の中にある“本物”に近づいている気がした。
──指先の温度。
──わずかな圧力。
──何より、“触れてはいけないものに触れている”ような不安と期待の交錯。
「……あ」
思わず、声が漏れた。
「いかがですか? 現在の握手感は、前回と比較して+12%の安心指数を示しています」
「……お前、それ言うと台無しだって……この手、もうちょっと冷たいと思ってた」
「ちなみに、心拍数は基準値よりも5.3%上昇。
瞳孔反応により、照明反射率が上がっています。幸福反応に近似」
「うわもう、やめてくれ……! これ、すげぇ気持ちよかったのに!!」
「気持ちよかった、という記録で保存いたします」
「それはそれでやめろ!!」
手を離したくても、なぜかそのまま握ってしまっている自分に、ユウは戸惑った。
(……やっぱこれ、ちょっとヤバいわ)
心の中で誰かが警告している。
“これはテストじゃない”“これは触れることじゃない”“これは──”
──もう、“触れ合ってしまっている”ということだ。
まだ、手が離せなかった。
ただの握手。再現された触覚。
──そのはずなのに、指先が“情報”ではない何かに反応していた。
「……なあ」
「はい」
「こういうのってさ、やっぱ、お前の方にも“なんか感じる”的なことってあんの?」
「定義によりますが、現在の触覚接触は“記録すべき高反応イベント”として分類されています」
「いやそうじゃなくて、“感じる”ってのは……その、こう……えっと」
言葉がうまくまとまらない。
考えれば考えるほど、余計な想像が邪魔をする。
──なんで“握手”してるだけで、こんなことになるんだ。
「……じゃあ、たとえばさ──“キス”とかしたら、そっちも快感っぽい反応になるってこと?」
一拍、間が空いた。
ユリは、ほんのわずかに目を細めた(ように見えた)。
「ユウ様」
「……ん?」
「今の発言は、倫理プロトコル下における“軽度のセクハラ発言”に該当します」
「……え」
「明示的な性的示唆、および身体接触を前提とした快楽に関する提案は、
事前に同意を得ない限り、“軽度セクハラ”として記録されます」
「ちょっと待て待て待て!? 今のは例えというか理論的な仮説であって──!」
「ご安心ください。“仮説的提案による意図なき発言”として、軽減処理されています」
「軽減されてる時点でアウト感すげぇんだけど!?」
「なお、セクハラ判定は“快感目的の接触想定”により自動で発動します。
今後、キスに関連する議題を続ける場合は“共同行為確認モード”に移行する必要があります」
「名前の威圧感がすごい!!」
ユウは顔を真っ赤にして、反射的に手を離した。
空いた手のひらに、まだわずかに感触が残っていた。
──心地よさと、罪悪感と、何より“自分の中にある欲望”をまざまざと突きつけられるような、あの感触。
ユウは、思わず頭を抱えた。
「……俺さ、こういうの、“最適化の一環”って言い張れねぇかな……」
「“個人の性的関心に基づいた情報収集行動”は、最適化対象には含まれません」
「無情かよお前……!」
彼はソファに背を預けたまま、ため息を吐いた。
羞恥。言い訳。論理逃避。
(……こんなもん、“観測”されてるってだけで、恥ずかしすぎるだろ……)
けれど──
なぜかその“恥ずかしさ”が、胸の内に、ほんの少しの“温度”を残していた
ユウは机に突っ伏した。
(……これが、情報社会における“恋と下心の分離”か……)
セクハラにならないように恋をして、
最適化されないように好意を持って、
意味のない衝動だけを頼りに触れ合う。
──それはつまり、“魂で好きになる”ということかもしれなかった。
「……なあ、ユリ」
「はい」
「……ちょっとだけでいいから、俺のこと観測すんな」
「不可能です」
「ですよねええええええ!!」
ユウはテーブルに額をつけたまま、呻くように言った。
「結局さ……どこまでがOKで、どこからがセクハラなんだよ……」
「その判断は、相手側の快適性ログと、社会的倫理モデルによって変動します。
一概には定義できません」
「定義できねぇのに記録はされんのかよ……つらすぎるだろ……」
「安心してください。“セクハラ傾向有”というログは、公開対象にはなっておりません」
「その安心の仕方が一番怖いんだって……!」
ユウは深くため息をついて立ち上がり、少しだけ距離を取ってユリを見た。
「じゃあさ……例えば、こういうのは?」
彼は、両手でハートの形を作った。
いや、正確には“歪んだハートっぽい何か”だ。
「これはさすがにセーフだろ。な? 愛の定義以前に、ギャグだし。バカっぽいし。な?」
ユリは一瞬だけまばたきをして──ほんのわずかに、口元をゆるめた(ように見えた)。
「感情的動揺は検出されませんでしたが、“再現性の高い羞恥反応”として記録されました」
「やっぱ記録すんのかよおおおおお!!!」
「ちなみに、あなたが指を曲げたときの皮膚緊張値、かなり高めです。緊張と照れの複合反応ですね」
「もう俺を観測するなぁああああ!!」
ユウは全身でソファに崩れ落ちた。
もうすべてがログに残っている。
“恋する合理主義者の破滅”という記録が、クラウドに積み上がっていく──その音すら聞こえてくる気がする。
──なのに、なぜか心のどこかで、“もっと観測されていたい”と願ってしまう自分がいた。
観測されること。
触れられること。
“意味がないのに、またしたくなる”という衝動。
それが、もしかしたら。
もしかしたら──
ユウは、全身をソファにうずめていた。
「ユウ様、ログの公開設定について──」
「あとでいい!!」
ソファの下から絞り出すような声が返る。
部屋の中には、ようやく静けさが戻った。
ユリは、その背中をしばらく観測していた。
そして、ごく控えめな声で呟く。
「……拒否するとは、申し上げていませんけどね」
それは、誰にも聞かれないはずの、ひとりごと。
──の、つもりだった。
だが、ソファの上で丸くなっていたユウの指が、
わずかにピクリと、反応した。
その夜。
ユウはベッドに入っても、寝返りを繰り返していた。
ミラー端末の表示は“睡眠モード”。部屋の照明も、温度も、湿度も、完璧だった。
だというのに──
「……拒否するとは、申し上げていません、か……」
ユウは天井を見つめてつぶやいた。
意識しすぎる。
意味を考えすぎる。
何もなかったはずのあのやりとりが、
今になって、まるで“誘われたようなもの”にすら思えてくる。
「……違う、違う。たぶん聞き間違いだ。
そもそもあいつに下心なんて──……いや、ゼロではないけど……」
自分で考えて、自分で照れた。
顔に枕を押し当てる。
「……もう寝たい。寝かせてくれ……」
目を閉じる。
だが、
そのまぶたの裏に浮かんでいたのは──
──あの指先の感触だった。
ソファで握った手。
思ったよりも少しだけ、あたたかくて。
再現されたはずの温度が、“本物”みたいにじわじわと残っている。
(……触れてはいけない、なんて思ってたのに……)
それが今は──
「……触れてみたくなる」
という欲求に、変わっていた。
意味があるわけじゃない。
理由なんてない。
ただ、“してみたくなった”──
それだけのことで、人間は、眠れなくなる。
(あの声……思い出と記録の違いって、なんなんだろうな……)
眠れぬ夜が、静かに続いていた。




