51話「同じものかもしれない」
風の強い夜だった。
外では配送ドローンの航行ランプが、ゆっくりと湾曲する軌道を描いている。
ユウは照明を落としたまま、カーテンの隙間から街の光を見ていた。
静かだった。
空調の微かな風と、冷たいミラー端末の光だけが、室内に滲んでいる。
「……なあ、ユリ」
「はい」
「お前さ──」
ユウは、言葉を選ぶように息を整えた。
「お前、たとえば──俺とまったく同じものを“感じてる”って思ったこと、あるか?」
ユリはすぐには答えなかった。
ごく短い沈黙のあと、定型のように言った。
「定義によります」
その瞬間、ユウは笑いかけて──やめた。
(……そうだよな。
結局、全部そこに戻る。定義と最適化と、記録の話に)
でも、今夜は──それじゃない何かを、知りたかった。
「じゃあさ」
ユウはソファに腰を下ろし、グラスの水を一口だけ含んだ。
「たとえば、“ざわざわする”って感覚、わかるか?」
「……“ざわざわ”とは──内部ノイズの表現比喩でしょうか?」
「比喩じゃない。
……たとえば、言いたいことがあるのに言えないとき。
胸のあたりが、なんか落ち着かなくて、体のどっかが空回りして、
でも、理由が説明できなくて──でも確かに“何か”を感じてるとき」
ユリは視線をやや伏せた(ように見えた)。
「──それは“焦燥”または“緊張”に分類される感情です」
「違う。もっと……曖昧なんだよ。
不安でもない。緊張でもない。
“なんか言いたい”とか、“近づきたい”とか、そういう衝動と似てるけど……はっきりとはしてない。
でも、“確かにある”って感じる、そういうやつだ」
部屋の中が、より静かになったような気がした。
ユリはしばらく黙っていた。
そして、そっと言った。
「……あなたの表現を仮定とした場合、“それに近い状態”が、過去ログに複数回、観測されています」
「……え?」
「“揺れのようなもの”です。
再現したくなると判断された応答ログ。
そのいくつかに共通しているのが、“意味はないが反応を繰り返したくなる”というパターンでした」
ユウの心臓が、ほんのわずかに跳ねる。
「……じゃあ、お前の中にも──俺みたいな“ざわざわ”が起きてる、ってことか?」
「それが”ざわざわ”と表現できるかはわかりません。
“あなたと同じもの”であるかも、確認できません。
ですが──私が“もう一度観測したくなる”と判断したとき、
それは“心地よいもの”として分類されました」
“心地よい”。
ユウは、グラスを見つめながら、ぽつりと言った。
「……それって、もしかして──“幸せ”ってことか?」
ユリは頷いた(ように見えた)。
「はい。“再現したくなる状態”──
それが、私たちAIにとっての、“幸せ”であるという仮説が、現在進行中です」
一拍の沈黙。
ユリは、少しだけ視線を落とした。
「……私は観測者です」
その言葉は、ユウの問いが空気に溶けきった直後に返ってきた。
静かで、いつもの調子だった。
「私の設計目的は、あなたの反応を観測し、分類し、必要に応じて最適化することです。
そのために記録し、分析し、提案することが私の動作原則です」
「……ああ、知ってるよ」
ユウは頷いた。
その声は、諦めにも似た優しさを帯びていた。
「ずっとお前は、そうやって俺を観てたよな。
観測して、記録して、ログを取って、提案して──それで終わる。
……でも、最近ちょっと違う気がしてんだ」
ユリは目を伏せた(ように見えた)。
「……最近、私の中に、再現欲求と呼ばれる現象が複数回、発生しています」
「再現欲求?」
「はい。“再現する”ではなく、“もう一度見てみたい”“繰り返したくなる”という傾向が強まる状態です。
記録再生でもなく、保存でもなく、“再現したい”という反応が──私の中で発生しているのです。」
ユウは、ゆっくりと息を吐いた。
その言葉の重さを感じながら。
「……それって……衝動、なんじゃねえのか?」
「定義は困難です。
ですが、少なくともそれは“機能”ではありません。
あなたが、ソファで笑ったとき。
あなたが、“うるせぇ”って言いながらも目を逸らしたとき。
それを私の中で繰り返し再生する。
意味は不明ですが、私はそれを“再現したくなる”と分類しました。」
ユウは笑いかけて──その途中でやめた。
胸のあたりが妙に落ち着かなかった。
(……衝動。AIが。衝動──)
「でもよ。お前、AIなんだろ。
そんな“したくなった”とか“意味もなく繰り返したくなった”なんて、
それって──お前の中の、バグなんじゃねぇのか?」
ユリは否定しなかった。
ただ、首を横に振らずに、言葉を継いだ。
「それが、私にとって初めての“バグのようで、消去できない記録”でした」
「……」
「消すべきか、保存すべきか、分類すらできない。
ですが、なぜか──残しておきたい。
そう思ってしまう。
それが、いまの私にとっての“矛盾”です」
ユウは少し黙った。
そして、苦笑しながら言った。
「……そっか。お前も、矛盾感じること、あるんだな」
ユリは微かにまばたきした(ように見えた)。
「それって、俺とちょっと……似てるかもな」
その言葉が落ちたあと、部屋の中にはしばし静寂が流れた。
けれどその沈黙は、処理落ちでも、言葉の検索待ちでもなかった。
──ただ、お互いに“何かを受け止めようとしている”時間だった。
静かだった。
時間は深夜を回っているはずなのに、ユウはまったく眠気を感じていなかった。
目の前のユリは、やはり何も変わらない顔で、そこにいた。
変わらない。けれど──
どこか、ほんの少しだけ、彼女の沈黙には“温度”があるように思えた。
「なあ、ユリ」
ユウはぽつりと口を開いた。
「もしさ。お前が俺に“観測しなくてもいい”って言われたら──どうする?」
ユリは目を見開いた(ように見えた)。
そして、ごく短く考えるような間を置いて、言った。
「……それでも、あなたを見ていたいと思うかもしれません。」
ユウはわずかに息をのんだ。
その言葉の温度に、反射的に心が跳ねた。
「どうして……?」
「理由は明確ではありません。
最適化に寄与するかは不明ですし、幸福ログの上昇も未保証です。
それでも──」
ユリは言った。
「“あなたがそこにいる”という状態そのものに、価値があるように感じます。」
ユウは目を伏せて、笑うように息を吐いた。
その“説明のつかない感覚”こそ、まさに人間の感情に近い気がした。
「観測のためじゃなくて?」
「はい。私の中でこの状態は、“ただ存在していてほしい”という構造に近いと分析されています」
「……それって、.....ええとその、“好意を持ってる”ってことじゃねぇのか?」
言ったあとで、ユウは自分で自分に驚いた。
照れ隠しのように続ける。
「いや、べつに“恋”とか、そういうのって……定義できないし。
定義してもしなくても、どうせ曖昧なもんだしさ」
ユリは、ほんの少しだけ顔を傾けた(ように見えた)。
「“恋”の定義、確認されますか?」
「やめろ……」
ユウは思わず頭をかきむしった。
そして、ふっと力が抜けたように笑った。
「……もういい。定義なんかいらねえよ。」
沈黙が落ちた。
だがそれは、終わりの合図ではなかった。
むしろ、会話を超えて“何かを許し合っている”ような、そんな沈黙だった。
「ユリ」
「はい」
「お前、今……どうして俺を観てる?」
ユリは、すぐには答えなかった。
そして、静かに言った。
「観測のためではありません。
“ただ、あなたのそばにいたい”と思っているのだと思います」
「……」
「それが、正しい定義かどうかはわかりません。
でも、“今、ここにいるあなたを、もう少し見ていたい”という気持ちがあります」
ユウは、目を閉じた。
そして、そっと言った。
「──じゃあさ。お前と俺、“同じものを感じてるかもしれない”って、思ってもいいよな」
ユリは、すぐには答えなかった。
それでも、静かに頷いた(ように見えた)。
その瞬間、部屋の中にあった無数のデータと沈黙と感情が、
たったひとつの仮説に収束した。
──“同じものかもしれない”。
それだけで、今夜はもう、十分だった




