45話「父のログ」
ユウの父、二条吉成視点
──久しぶりに、息子と将棋を指した。
指先に伝わる駒の重みが、やけに現実的だった。数手ごとに静かに場を整える気配が、まるで互いの間合いを測るようで、私は自然と背筋を伸ばしていた。
私は、ずっと考えていた。これでよかったのだろうかと。
学生時代、私は人間関係に難があった。──端的に言えば、あれは「いじめ」と呼べるものだった。理由もわからぬままに弾かれ、傷つけられ、孤立していった。家族の中でも、私はうまく立ち回れなかった。感情を言葉にすることが苦手で、伝える前に諦めてしまう癖があった。何をしても、人とうまくやっていくことができなかった。
そんなときに、汎用AIが登場した。
あれは、私にとって救いだった。何かを選ぶとき、判断するとき、人の目を気にする代わりに、私はAIに訊いた。進学、進路、交友関係──すべてを委ねれば、物事は驚くほど円滑に進んだ。人との摩擦も、戸惑いも減った。私は、人間らしい失敗をしなくなった。
それは、私のような人間にとって、ひとつの理想だったのだ。
やがて社会は、個人の努力よりも適応と最適化を重んじるようになり、努力して何かを得ることは、次第に“合理的でない”ものと見なされていった。
それは──生まれながらにして家柄の良かった私にとって、都合のよい変化でもあった。
誰よりも優れていなくてもよかった。決断を誤らなければ、凡庸であっても失敗はない。私は、そうして“立場”を得た。地位を持ち、評価されるようになった。
だから私は、その地位を失わぬよう、より一層AIに頼るようになった。誤らぬことが、正しさだった。迷わないことが、大人の証だった。
今回も、そうした。
息子に、どう接すればいいか。私はAIに訊ねた。父親として最適な振る舞いを──いつものように。
AIは、すぐに答えてくれた。感情の機微を含んだ一連の振る舞い、最も効果的な台詞回しとタイミング──いつもと変わらぬ、整った指示だった。
私は安心し、立ち上がる。やるべきことは明確で、失敗の余地はなかった。
だが──
部屋を出てすぐ、私は立ち止まった。
廊下の向こう、朝の光を背にして、ひとりの少女が佇んでいた。ユウのパーソナルAI──名を、ユリというらしい。
朝食はすでに終わったのか、家内もユウも姿はなかった。
私が口を開くより早く、彼女が静かに言った。
「どうか、ユウ様に。貴方自身の言葉で、向き合っていただけませんか?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
──AIなのに、そんなことを言うのか。
混乱した私の思考に、ふと別の声がよぎった。つい先ほど応対した、別のAIの言葉。あちらは、明確な答えを与えてくれたはずだ。
なのに、このAIは──私に、考えろと言う。
私は戸惑い、目が泳いだ。学生時代の記憶が、唐突に甦った。周囲の視線、言葉の裏を読み違えた経験。誰かと向き合うたびに味わった、あの苦い胸のざわめき。
私のことなど、計算の片隅にもない──彼女は、ただユウのことを思っているのだ。
そのまま私は、家内に相談した。
彼女は、ほんの少し驚いたように目を見開いた。そして、ゆっくりと微笑んだ。
「あなたが、決めてください」
その言葉は、やさしかった。まるで──ずっとそんなふうに言われたかったとでも言いたげに。
私は、ようやく気づいた。
彼女が微笑んだのは、私に頼られることを、ずっと望んでいたからだったのだと。
頼られなかったことを、ずっと……寂しく感じていたのだと。
そして私は決めた。
今日、将棋を通して息子と向き合うことにした。久しぶりに、直接──感情と理性の手を、交わし合うために。
対局中、私は動揺しそうになるのを、必死に堪えていた。父としての威厳を崩すまいと、姿勢を保っていた。かつて私のパーソナルAIが、「父親はそうあるべきだ」と言った通りに。
──だが、本当にそれでよかったのか。
駒を持つ指先が、ほんのわずかに震えていた。迷いも、自信のなさも、すべてそこに現れてしまっていた。
息子は、それに気づいただろうか。私が揺れてしまったことを、どう感じただろう。
終わったあと、息子は言った。
「でも、今はそれでいい」
……私は、間違っていたのか。そうではなかったのか。結論は、出ない。
それでも──それでいいのだと。息子が、肯定してくれたような気がした。
泣きそうになるのを、なんとかこらえながら。
私は、部屋から出ていく息子がドアを閉める音を、背中越しにただ静かに聞いていた。




