44話「揺れる駒」
夜。
縁側に座っていたユウの後ろからユリが話しかけた。
「お父様がお待ちになっています。」
廊下の照明が、一歩ごとに静かに点いたり消えたりする。
ユウは居間の奥──かつて“和室”と呼ばれていた部屋に入った。
障子の奥には、低い卓と、将棋盤。
駒は既に並べられていた。
父は卓の向こうに座っていた。
黙って、姿勢よく。
昔からそうだった。
「座ってくれるか?」
父の声は今まで聞いたことがない迷いを孕んだものだった。
ユウはその言葉に”安心し”席についた
「俺、もう詰まされる未来見えてんだけど」
「初手次第だ」
木の駒を指先でつまみ、5六歩。
盤上の音が、小さく響いた。
父はすぐに応じる。
間のない、最適な一手。
指し方に迷いがない。
次の数手も同じだった。
組み上がる定石。無駄のない構え。
だが──どこかで、違和感があった。
(……反応が速すぎる)
楽しんでいる様子はない。
試す気配もない。
ただ、最も勝率が高い“形”を、忠実に繰り出しているようだった。
ユウは、ひとつ駒を手にし、そして置いた。
指した手は、明らかに変則だった。父の構えを乱す一手。
──その瞬間、違和感があった。
父の手が、止まっていた。
浮かんだ駒が、盤の上に影を落としたまま、数秒間。
ユウの知るかぎり、初めてのことだった。
「……父さん」
思わず口をついて出た、その呼びかけ。
次の瞬間、かすかに木が鳴る音がした。
──弱い。
音が、いつもと違っていた。
強く指すときの、確信に満ちた音ではなかった。
父が選んだのは、“受ける”手だった。
まるで、そこにある感情を受け止めるかのように。
ユウはふっと顔を上げた
盤上を眺める父の目、それはいつもと違う揺れを感じる目だった。
「……お前が泣かないように、って思ってた。昔から」
その声は、小さく、掠れていた。
ユウは一瞬、指先を止めた。
「……泣いた覚え、ないけど」
父は、わずかに視線を落とす。
「私も……ない」
ユウは口の中で何かを転がすように、息を吐いた。
「それ、どういう意味で言ったんだよ」
「意味……?」
「だって、“泣かせなかった”っていうなら、たしかにそうかもしれないけど──
じゃあ、“慰めた記憶”は?」
父は答えない。
ユウも、それ以上は責めるような言葉を選ばなかった。
将棋盤の上で、指が止まったまま。
二人の間に、駒を挟んだ静けさだけが広がっていた。
ユウは、ふと視線を落とす。
揺れている──
父の指先が、ごくわずかに震えていた。
「……最適解ばっかり、選んでたんだな」
ユウの声は、どこか遠くに向けられていた。
「俺が泣かないように、叱られないように、困らないように──
そうやって……“ちゃんとした子”に育てたつもりなんだろ」
父の目は、伏せられたままだった。
「それ、間違いじゃないよ。たぶん、感謝もしてる」
ユウは、ひとつだけ駒を打った。
盤の上に、静かな音が響いた。
盤面は崩れていた。
ユウが打った一手は、もはや定石でも何でもなかった。
けれど、父はそれを咎めなかった。
駒を見つめる父の目は、わずかに揺れていた。
「……父さん」
ユウが、低く呼びかける。
「お前が泣かないようにって、ずっと思ってたってさ。
それ、誰に教わった?」
父はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「誰にも。……でも、AIの推奨項目には“情動安定”が最優先にあった」
「それって、“泣かせないことが最適”って意味だろ?」
「……ああ」
「でもそれ、違うかもしれないよ」
ユウは、そう言って盤の外にある駒に手を伸ばした。
何も考えず、ただ拾い上げる。
「俺さ。──泣いた記憶がないの、別に平気だったんだよ。
でも“慰められた記憶がない”って気づいたら、──それがちょっと、きつくてさ」
父はまた、黙っていた。
将棋盤の上で、彼の手がゆっくりと駒を置いた。
少しずつ、少しずつ、手が進んでいく
ユウは小気味良く駒を盤上に打っている
対して父の打つ駒の音は弱々しい、不安を感じていることが盤の上に現れているような打ち回しだった。
そして
「負けた」
ユウが投了を宣言した
「やっぱり強いや父さんは」
「ユウ、私は」
父が顔を上げた。けれど、言葉は続かなかった。
ユウが、それを引き取るように口を開いた。
「確かに、俺は──慰めて貰ったことはないけど」
少しだけ笑って、続ける。
「でも、今はそれでいい」
その言葉が何を意味するのか、父が理解したかはわからない。
けれどそのとき、ユウは確かに思った。
(──この人は、ずっと“最適な父”であろうとしてくれてた)
それが、“思われていた”ってことじゃないのか。
明確な証拠はない。記録もない。ログにも残っていない。
けれど──
父がそこにいて、ただ黙って、揺れてくれた。
それが、今の自分には十分だった。




