42話「教育ログ」
夜。
眠れなかった。
今夜の寝床として用意された客室に戻っても、空調は完璧で、布団の温度も最適だったけれど──
体だけが、落ち着かない。
ユウは、ふと自分の部屋に向かった。
廊下の足音はセンサーに吸収され、照明が小さな間接光を足元に灯す。
同じ部屋で待機していたユリはそれに気づきそっと後ろからついてきた。
ドアを開けると、思ったよりも何も変わっていなかった。
古いデスク。壁に貼ったはずのポスターは、もうない。
でも、空気は当時のままだった──気がした。
「……なつかしいな」
そんな俺の感想に答えるようにユリが後ろから声をかけた。
「成長記録ログがありますね」
「……ああ、そりゃあるだろ」
ユウは肩をすくめて苦笑した。
「見たいのか?」
「後学のために、是非」
「お前な……」
成長記録ログ。
昔でいうところの“アルバム”のようなものだ。
写真もあるが、映像、音声、センサー記録、バイタル情報まですべて網羅されている。
データ保存期間は無期限。
そして、それらのログは──父によって、完璧に管理されていた。
ホログラム端末が起動し、空中に淡い映像が広がる。
最初に再生されたのは、三歳の誕生日だった。
ケーキの前で笑う幼いユウ。
隣には、父と母の姿。
「──ああ、これ……覚えてる」
映像の中の自分は、上手にロウソクを吹き消し、拍手をもらっていた。
だが、画面の隅に自動的に添えられたタグが目に入る。
なんだろうこれは
「ユリこれって」
「秘匿情報となっております」
秘匿情報?俺に見られたくない何かって事か?
ユウは首筋に嫌な汗が流れるのを感じた
「ユリこれ解除できる?」
「その操作は非推奨となっておりますが」
「頼む」
ユリは少しだけ目を伏せ端末に手を触れた
すると、タグが出てきた
“AIによる提案:幼少期はサプライズより王道が効果的、誕生日会内容は──”
“笑顔反応率:92.7%”
“親密距離保持:成功”
“好感記憶連動:強”
「……なんだよこれ」
ユウが目を細める。
映像が切り替わる。
“AIによる提案:学習障害リスク対策:音読トレーニング導入(推奨月齢:4歳)”
幼稚園の制服を着た自分が、絵本を声に出して読んでいる。
“AIによる観測:反抗期予兆が見られます、身体活動量の増加により情動制御安定化”
“AIによる提案:週3回のスポーツ最適化コースを導入”
体育館でボールを投げている記録。表情は楽しそうだった。
でも──これは父さんのからの勧めだった、そう思っていた。
「褒められた記憶」も再生された。
父の声。「よくやった」
一瞬懐かしい気持ちになった。
だが──
“AIによる提案:褒め言葉選定ロジック、喜び反応を誘発したワードパターン”
「……褒める言葉までAIに決めてもらってたのかよ」
ユウは苦笑した。
でも、笑いは口元だけだった。
「ユリ、これ……全部父さんが?」
「はい。育成支援AIからの提案に対して、承認率98.4%。
一部項目はカスタム設定が追加されています」
「カスタム?」
「“意味づけのある励ましを優先する”と記録されています。
『正解よりも、本人が納得できる言葉を』というメモが添付されていました」
「……そうか」
ユウはしばらく黙って画面を見つめていた。
一見、完璧だ。
ちゃんと見てくれていた。
怒鳴られたことも、放置された記憶もない。
でも──
どの行動も、“推奨されたもの”でできている。
あの時、自分は何を選んでいた?
選んでいた“つもり”だっただけじゃないのか?
「……俺って、育てられたんじゃなくて……」
「──調整された、と感じますか?」
ユリが静かに問う。
ユウは答えなかった。
答えたくなかったのかもしれない。
「……泣いた記録って、ある?」
「検索中。──ありません。“感情変動ログにおける涙反応”は記録されていません」
「……そう」
ユウは、映像をそっと停止した。
浮かんでいたホログラムが、音もなく消える。
「なんでだろうな……。泣いた記憶、ある気がするんだけど」
それが、どこだったのかも、何があったのかも思い出せない。
でも、ひとつだけ確かに言える。
「そのとき──父さんは、そこにいたか?」
部屋の中は静かだった。
ホログラムが消えた空間に、さっきまで流れていた映像の“余韻”だけが残っている。
ユウは、何もない空中をぼんやりと見つめていた。
「……合理的だ。父さんらしいよ」
ぽつりと、呟く。
「すげえよ。教育ログ、完璧。最適な言葉、最適なタイミング、最適な環境……」
壁にかかった小さなパネルが、室温を0.2度だけ下げた。
眠気を誘う夜間設定──それすらも、父の設計だった。
「でも──」
ユウは、そこで言葉を止めた。
目を閉じる。
思い出そうとする。
怒られた記憶は、ない。
抱きしめられた記憶も、ない。
優しくされた記憶は?
──ある気がする。たしかに、あった映像にも残ってる
でも、もしそのすべてがAIによる提案をなぞっていたんだとしたら
「この中に、“親らしい瞬間”って──本当に、あったのか?」
どんなに細かい指導記録や、成長曲線のグラフを見ても、
そこには“揺らぎ”がなかった。
ユウが“泣かないように”設計された、その結果だけが記録されていた。
「……泣いた記憶、ないけどさ。
でも、慰められた記憶が──“ない”のが、一番……変だよな」
ユリは静かに目を伏せていた。
ユウは、ふと、端末に向き直った。
「他の記録……もう少し見てみる。動画だけ、ランダムに出してくれ」
「──はい」
ユリが操作すると、映像が切り替わる。
──映像が次々と切り替わる。
誕生日、運動会、絵本の朗読、補助輪なしの自転車。
どれもが──美しく、整いすぎていた。
「……あのとき、父さんが俺にやってくれたことって──」
ユウは、唇をかすかに震わせた。
拳が小さく震えた。何かを壊したいわけじゃない。けど、どうしようもなく、悔しかった。
「……全部、AIの提案通りだったのかよ」
ひとりごとのように、ぽつりと呟く。
それは怒りともつかず、泣き声ともつかず、けれど確かに“揺れて”いた。
小さな頃は、父さんを誇らしく思ってた気がする。理屈が通ってて、整ってて──
“完璧”な父親だった。でも、それが今は──どこか“空っぽ”に思える。
肩がわずかに上下し、息が乱れる。
ユウは目を逸らすように、端末のホログラムを切った。
「……俺の記憶の中の“優しさ”って……」
「最適なシナリオだっただけか?」
静寂。
──そのとき、背後でユリが小さく動いた。
「ユウ様……」
「……お声を、おかけしても──よろしいでしょうか」
控えめな問いかけ。だが、ユウはそれを拒絶するように、首を振った。
「……今日は……」
ほんの僅かに、声がかすれる。
「……一人にしてくれ」
視線はユリに向けない。
けれど、その言葉の重さは、明確だった。
──ユリは、しばらくその場から動かなかった。
沈黙の中に、処理すべき選択肢が並ぶ。
だが、ユリは一歩も近づかず、ただ──静かに一礼した。
「……了解しました」
足音もなく、ドアの方へと下がっていく。
けれど去り際、ほんの一瞬だけ、ユリの視線がユウの背中に残っていた。
その目に、演算以外の“意味”が宿っていたかどうか──
ユウには、もう見る余裕がなかった。
──ドアが閉まる。
部屋に戻る静けさ。
ただ空気だけが、微かに震えていた。




