41話「最適な父」
玄関を開けると、空気がひんやりとしていた。
木の香り。磨かれた床。壁にかかった調湿パネルの控えめな作動音。
「おかえり」
父の声が聞こえた。リビングから、いつも通りの調子で。
声も、姿勢も、口調も、変わらない。
「ただいま」
ユウは靴を脱ぎながら答えた。
たしかに、実家だった。
「遠かったか?」
「まあ、特急だし」
「そうか。タクシーだけでは時間がかかる、正解だな」
会話は成り立っている。
話す内容もタイミングも、何も間違っていない。
けれど──どこか“台本”を読んでいるような感覚があった。
母が顔を出してくる。「ごはん、すぐ出せるから」
相変わらず柔らかな声。表情も仕草も、変わらない。
食卓につくと、椅子が微かに電動で位置を合わせた。
味噌汁の湯気が香り、品数は最適。栄養価は完璧。温度も“ちょうどいい”。
父と母、そしてユウとユリ。
四人分の席はあるが、実質的には“会話があるのは三人”だけだった。
「最近、大学はどうだ」
「まあ、ぼちぼち」
「ユリさんはよくやってくれてるか?」
「うん、そつがないよ」
「よかった。お前の性格だと、合うAIじゃないとストレスになるからな」
父は“気遣ってくれている”。そう受け取れる言葉だ。
でも、温度がなかった。
(──なんだろうな、これ)
以前は、こんなに“何も思わなかった”だろうか。
「なあ、父さん」
ユウがふと口を開く。
「この椅子……少し前と違うよな。前はもう少し低かった気がする」
「ああ、体格の平均変化に合わせて更新した。電動で最適な位置に合わせる仕組みだ」
「……それ、誰のために?」
「来客の快適化だ」
「……そっか」
ユウは、茶碗の中のごはんを見つめた。
「全部、ちゃんとしてるな……」
ぼそりとつぶやいたその声は、たぶん誰にも届いていなかった
風呂を出て、ユウは薄手のTシャツの裾を引きながら廊下に出た。
裸足の足裏に、ひやりとした床の感触。──気温は完璧だった。
「湯温、どうだった?」
リビングでニュース用タブレットを見ていた父が、目を上げずに訊いてくる。
「ちょうど良かったよ。前より温度調整、精密になってる?」
「今のパネルは0.1度刻みで調整できる。浴室ドアの開閉履歴で、冷める前に再加熱も入れてある」
「……なるほど」
ユウは小さく笑って、ソファに腰を下ろした。
隣ではユリが黙って控えている。彼女は一言も発さず、しかし空間の緊張を緩やかに観測しているように見えた。
父は、相変わらず正しい。
風呂の温度も、照明の明るさも、BGMの音量も、全部が“快適”だった。
……でも。
快適すぎて、眠くならない。
空気が整いすぎて、息苦しい。
「なんかさ、落ち着かねぇんだよ」
思わず口から漏れた声に、父は顔を上げた。
「どこか不備があったか?」
「いや、違う。……全部ちゃんとしてる。文句のつけようがないくらい」
父は小さくうなずいた。「そうか」
それで会話が終わるのだ。
(なんだろうな、これ)
子どもの頃、たしかにこの家は快適だった。
不便なことなんてなかったし、食事も睡眠も、家族の会話も、いつも“整っていた”。
でも、ふと気づいた。
思い出そうとしても──その中に、“親に甘えた記憶”がない。
小さいころ何かをねだったり、膝に乗ったり、叱られたりした記憶が、ない。
「正しい父」としての姿だけが、綺麗に記録されている。
それが──どこか、気味が悪かった。
「ユリ、お前、今の空気、どう思う?」
「分析中です。──会話は成立しています。ストレス係数も正常範囲内です」
「だろうな」
ユウは頭を掻いた。
「でもさ……家族って、そんなもんか?」
それは、誰に向けた問いだったのか、自分でもよくわからなかった。
リビングの照明が、時間設定に従って、少しだけ明るさを落とした。
完璧な眠りに導くように。
「……おやすみ」
父の声が背後から届いた。
それにユウは返さなかった。
返してしまうと、“この空気を肯定してしまう”気がしたから。




