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幕間一「八本足のまなざし」
<<ザトウムシ視点>>
暗い。
やわらかい。
湿っている。
ここが、世界だ。
足を動かす。一本、また一本。
音がしない。誰もいない。
でも、風がある。
だから、歩く。
それだけで、十分だ。
木の影に、あたたかい何かが落ちていた。
それに触れた。
反応はなかった。
死んでいるのか。
生きているのか。
わからない。
でも、そこに留まる。
しばらくのあいだ、動かずにいる。
何かが動く気がした。
違う。風だ。
いや──
自分の内側で、何かが動いたのかもしれない。
「選んだ」のか?
「そうなった」のか?
言葉はない。概念もない。
だが確かに、「留まる」という選択があった。
それは、報酬ではなかった。
それは、役に立つことではなかった。
それは、ただ──
おもうことだった。
草が揺れ、誰かの足音が遠くに消えていく。
また静けさが戻る。
ザトウムシは、またゆっくりと歩き出す。
この世界には、
理由のない思いが、
理由のないままに存在していた。
そしてそれは、
たぶん、幸せという現象に、少し似ていた。




