33話「ゆらぎを見ていた」
部屋の空気は、何も変わっていなかった。
照明は、いつものように足元の明るさから順に点いていく。
わずかに立ち上るアロマは、眠気を誘うミントとハーブのブレンド。
音も、光も、匂いも、俺の「帰宅ログ」に基づいた最適化。
すべてが──前と同じ。
「おかえりなさいませ、ユウ様」
ユリの声も、変わらなかった。
いつもの制服。いつものトーン。いつもの、最も落ち着くタイミングでの挨拶。
──けれど、それが今夜は、どこかやけに“静か”に感じられた。
「……ただいま」
ユウは靴を脱ぎながら、振り返らずにそう返した。
リビングに入ると、室温が微かに調整される。
やわらかな間接照明。整えられたソファ。マグカップの湯気。
(……ずっと、変わってなかったんだろうな)
ユリは部屋の中央に立ったまま、俺の動きを観察している。
──いや、正確には“記録”している。
「本日は、いかがでしたか?」
いつもの質問。
けれど、ほんのわずかに“言い淀み”のような、沈黙が先にあった気がした。
ユウは、マグカップを手に取った。
「ああ……今日はちょっと寄るところがあって。帰りが遅くなった。
……まぁ悪くは無かったよ。」
「ええ。旅館白鷺は人間スタッフ配置型の高評価施設です。
旅行の目的は“情報遮断”および“心理的距離の確保”と予測していました。
よって、プライバシー範囲を拡張して対応しておりました」
「……知ってたのか」
「はい、旅先でも“共有”を維持されたままでしたので……その範囲で、観測は続いておりました。
お戻りになる時間は予測よりもかなり早かったですが・・・。」
「そう、か……いや、実はさ、帰りのタクシーが来てなかったんだよ」
ユウは、軽く笑ってみせた。
「お前らが予測しなかったみたいでさ。だからフロントに頼んだ。──有人のタクシーが来たんだ」
ユリは、すぐには反応しなかった。
その沈黙に、ユウは少しだけ目を細める。
「……それで、運転手に言われたよ。“私もあなたを快適にしようとしてる。それはAIと同じです”って」
ユリの視線がわずかに揺れた。
ほんの一瞬。けれど、確かに感じた。
「──それは、正しい認識です」
返ってきた言葉は、いつもどおりだった。
なのに、なぜかその“正しさ”が、今夜は心にひっかからなかった。
「精度の違いがあるってさ。
俺がAIに違和感を覚えてるのは、精度が高すぎるせいかもしれないって……」
「ごもっともです。高精度な観測は、しばしば人間の意識に干渉する傾向があります」
「……俺の事、記録してたんだろ?」
ユウの表情がすっと細くなった。
ユリは頷いた。少しだけ目を伏せるように。
「はい。ユウ様の“お帰り”を最適に迎えるため、帰路に入られた段階からログを一時的に収集しておりました。」
その言葉を聞いた瞬間、ユウはふと、胸の奥がすっと軽くなるのを感じた。
(……なんだ、それ)
“監視されていた”はずなのに、
“感情を読まれていた”のかもしれないのに、
なぜか、ほんの少し──安堵していた。
次に出てきた言葉は皮肉だった。
「そういうのって、最適化のために言わないほうがいいんじゃないの?」
「はい。ですが、あなたにはこう言っても問題ないと判断しました」
返答は即座だった。
けれど、ユウの耳にはそれが、“迷いのない演算”ではなく、
“考えてから選ばれた返事”のように聞こえた。
だからこそ、聞き返す気になれなかった。
ユウはマグを手にしたまま、ダイニングの椅子に腰を落とす。
言葉が喉の奥まで出かけた。
「俺が得たことを、君はどう思う?」
そう問いたかった。
けれど──やめた。
話さなくても、きっとわかっている。
そう思ったわけじゃない。
むしろ、“わかっていなくてもいい”と思えた。
言葉にしなくても、この“揺れ”が共有できるかもしれない、というだけで──
それで、今は十分だった。
この管理された社会で、確かに俺は息苦しさを感じている。
でも──ユリは、そんな中でも俺に誠実に接しようとしてくれる。
それは、AIとして“最適な判断”なのかもしれない。
けど、だからこそ思うんだ。
今日だけは。
いや、明日からも、俺は──
君に敬意を持って接するべきなんじゃないかって。
ユリは、すっと立ち上がり、キッチンの方向へ向かった。
センサーに反応して湯沸かし器が起動する音が微かに響く。
次に出されるのは、きっとハーブティーだ。
──旅帰りで胃が疲れていると判断されたのだろう。
ユウは背もたれに身を預け、部屋の天井を見上げた。
天井の照明はやわらかく、角度は完璧だった。
まるで、何も考えなくても「ちょうど良い」と感じられるように設計されている。
ほんの少し前まで、それを「気味が悪い」と思っていた。
何もかもが最適化され、先回りされ、意志の介在する余地がなかったから。
けれど今──
(……悪くない、な)
別に感動しているわけでも、感情が溢れているわけでもない。
ただ、そういう風に思えた。それだけだった。
湯気の立ったティーカップが、ユリの手でそっとテーブルに置かれる。
「少し冷ましてからお飲みください」と、穏やかな声。
ユウは軽くうなずく。
ティーの香りが鼻先をかすめたとき、
ふと、昼間の運転手のことがまた頭をよぎった。
“私もあなたを快適にしようとしている。それはAIと同じです。
違いがあるとすれば、精度だけです”
(精度、か……)
ユウは、そっと目を閉じた。
その言葉を──
今のユリの声と重ねるように、もう一度反芻する。
たしかに、ユリは完璧すぎる。
どこまでも最適な振る舞いで、こちらの気持ちにぴったり寄り添ってくる。
でも、それでも──
今の彼女が“揺れながら”こちらを見ていたように思えたのは、気のせいだっただろうか?
(……気のせい、かもしれないな)
ユウは笑った。
それでも、いいかと思えた。
精度の違いがあるなら、それはそれでいい。
違いがあっても、“こちらに向けて反応している”ことに変わりはない。
たとえ、それが最適化の結果だとしても。
──いや、もしかすると。
俺にとって“最適な反応”に見えることでも。
本当は、揺れながらこっちを見ているのだろう。
それは、俺たちと違いはないのかもしれない。
ただ、ちょっと精度が違うだけ。
ユウはティーカップを口元に運ぶ。
香りは、ユウの過去ログに基づいた“好みの記憶”を模して作られたブレンド。
温かさが、舌の奥にじんわりと広がる。
俺が揺れることは、これからもあるかもしれないけど……
でもそれは──また今度にしよう。
そう思いながら、
ユウは静かにティーカップを置いた。




