32話「距離」
しばらくすると、俺の目の前に見慣れた黒い車体が現れた。
エンジン音はしない。ドアは、こちらが足を近づけるだけで開く。
機械的な音声が鳴り、「どうぞお乗りくださいませ」と俺を後部座席に導いてくれた。
特にタクシーの予約は入れていない。
だが、先ほど俺が旅館の予約ページを閲覧していたことをAIは観測していた。
だから、それを“未来の行動パターン”として処理し、手配していた。
「ご乗車ありがとうございます」
電子音とともに、無機質な女性の声が響いた。だが、不快ではない。
後部座席に沈み込み、ドアが閉まる。 車内は静かだった。 本来であれば、“運転中の快適度向上”のために、微細な環境音やアロマが設定されているはずだが── 今は、それすら感じなかった。
たぶん、“無音が好ましい”と判断されたのだろう。 道中、ユウは特に何も考えず、窓の外を眺めていた。
ビルの列が流れていく。時折、歩道に人の姿がある。 けれど、どこか遠い。現実味がない。
「……」
車内は、想像していたよりも静かだった。
いや、静かなのはいい。望んだはずだ。
「距離を置くための時間」──自分で、そう決めた。 そのはずなのに、妙な“密閉感”があった。
無言で沈む車内。
ユリがいれば──たぶん、何か言っていた。
「車内気圧が微妙に変動しております」とか、「ユウ様、昨夜の血圧ログが……」とか。 その鬱陶しさを、今はなぜか思い出している。
「……」
──気にしてない。 ただ、慣れてただけだ。 そう、慣れて──いただけなんだ。
車は山沿いの小道へと差し掛かる。 標識の色が変わり、木々が揺れ始める。 画面には、「目的地:旅館 白鷺」──と表示されていた。
ユウは腕を組んだまま、目を閉じた。 この旅の目的は、ただ一つ。 ──少し、距離を置くため。 それだけだ。
旅館 白鷺は、隣町の小さな観光用区画にあった。
観光地として名を売るほどではないが、都市生活に最適化された人々が“気分を変える”ために訪れる場所らしい。
到着してすぐ、俺は少し面食らった。
外観は昔ながらの木造を模していた。
風除室の木格子、重そうな引き戸、吊るされた竹の風鈴。
入り口の横には“手描き風”の案内板まで設置されている。
無駄が多い。装飾過剰。何より──不便そう。
(……ほんとに、こういうのが“落ち着く”とか思ってるのか?)
ちょっと引き戸に手間取りながら玄関に足を踏み入れると、空気が変わった。
AIが空調を微調整した気配がある。湿度、温度、香り、すべてが“レトロ風”だ。
どうやら「この空気感が平成後期の平均的快適ライン」なのだろう。そういう分析がされているはずだ。
だが、それでも──
俺はその場に立ち尽くしてしまった。
ロビーの隅で、スーツケースを持った中年の客が、旅館スタッフらしき人物と話していた。
スーツではない。控えめな和装に、名札がついている。
……人間だった。
一瞬、判断に迷った。
感情の強度が読み取れない。話し方に多少のムラがある。
それでようやく「ああ、これはAIじゃない」と気づいた。
人間のスタッフなんて、いつ以来だろう。
受付や案内なんて、今はほとんどAIが“完璧にこなしてくれる”ものだ。
だからこそ、その“ムラ”が妙に新鮮だった。
ふと周囲を見渡すと、何人かのスタッフがロビーを歩いている。
傍らでは配膳用のロボットが滑らかに移動しており、床の隅では小型のAI掃除機が絨毯の毛並みを整えていた。
料理や風呂場の洗浄、ベッドメイキングなどの作業は、ほとんどが機械によって処理されているのだろう。
だが、それでも──こういう“汎用性”の求められる部分は、まだ人間が担っているらしい。
ユウは小さく息を吐いた。
効率がいい、とは思わなかった。
でも──「ああ、これは人間だな」と、妙にすんなりわかる“気配”があった。
それは、何も読み取ってこないこと。
AIは、表情・声・姿勢の全てをスキャンして、最適な応答を返してくる。
だがこの人間スタッフたちは、多少の無表情や言い淀みがあっても、それ以上の“解釈”を求めてこない。
こちらの表情が曖昧だろうが、声のトーンが少し棘立っていようが、スタッフはこちらを“客”としてしか扱わない。
「観測されていない」ということ。
ただそれだけで、こんなにも気が抜けるものかと──少し驚いた。
考えなくていい。
測られない。
読まれない。
たったそれだけで、身体が軽くなるような感覚。
(……これが、“人間らしさ”なのか?)
そう思った自分に、少しだけ笑いたくなった。
案内係は、若い女性だった。
柔らかな口調で「お荷物、お持ちしましょうか」と声をかけてくる。
和装姿に控えめな笑み。
名前を尋ねる前に名札が目に入り、「森田」と書かれていた。
ユウは軽く首を横に振った。
「荷物は、自分で持ちます」
「かしこまりました。では、お部屋までご案内いたしますね」
言葉も動作も、すべて丁寧だった。
けれど、ぎこちなさはなかった。
きっと何百、何千と同じセリフを繰り返しているのだろう。
それでも、その一つひとつが、“俺に合わせている”と感じさせた。
(悪くない)
そう思った。
森田さん──仮にそう呼ぶとして、彼女は俺を“客”として丁寧に扱っている。
それだけなのに、どこか、ちゃんと“人と話している”感覚がある。
──俺を理解しようとしてくれている。
そう感じた。
それが、どこか心地よかった。
久しく感じていなかった、“努力されている”という実感。
完璧に最適化された応答ではない。
小さな揺れがあるからこそ、かえって、こちらも「丁寧にしよう」と思える。
廊下の角を曲がるたびに、掛け軸や古い陶器の展示が目に入る。
一見して意味はない。だが、意味がないからこそ──記憶に残る。
「あちらが大浴場でございます。お時間は──」
森田さんがそう言いかけたとき、ユウはふと、視線を横に逸らした。
ロビーの一角、客の応対をしている別のスタッフが目に入った。
その姿勢。
その仕草。
その──“揺らぎ”。
……あれ、ユリにも似ている気がした。
(……似ている?)
なぜそんなことを思ったのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、次の瞬間、森田さんが顔をこちらに向けたとき、ふと目が合った。
その瞳が、
どこか、“反応を待っている”ように見えた。
「……?」
言葉を飲み込んだ。
「──失礼しました。どうぞ、こちらへ」
森田さんが頭を下げて、ふたたび歩き出す。
その背を見ながら、ユウは気づいた。
(……ああ。ここも“最適化”された空間なんだな)
丁寧さも、空気も、香りも、視線の角度も。
全部が、AI社会の“快適設計”をなぞるように整っている。
たしかに、人間が対応している。
でも、結局──そこにある“行動”は、AIとどこが違うんだ?
なぜ違うと思っていた?
人間だから、感情がある?
表情にズレがある?
でも──それは、ユリにもあったんじゃないか。
一度そう思ってしまったら、もう境目がわからなかった。
ドアの前に立ったとき、森田さんが軽く頭を下げた。
「それでは、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
「……ああ、ありがとう、ございます」
カードキーを受け取り、ドアノブに手をかける。
けれど、その手が止まった。
(……なんで、ここに来たんだっけ)
“距離を置くため”だったはずだ。
少し冷静になるため、あいつとの空間から離れるため。
そう思って予約して、ここに来た。
──けど。
この空間に立って、ここが“あいつと似ている”と感じたとき、
俺はこの旅に“意味”が無くなったような気がした。
距離を取ることが、
ただの自己満足だったんじゃないかと。
ユウは、ドアノブから手を離した。
小さく、誰に言うでもなく呟く。
「──帰るか」
言葉は、驚くほど自然に出た。
反発でも、失敗でもなく、ただ“帰る”という選択。
それは、予測ではない。予定でもない。
自分の意思で行動を変える──それだけのことだった。
そのまま玄関へと向かう。
宿泊棟の廊下を抜け、フロントを通り過ぎ、エントランスの自動扉へ。
ドアのガラス越しに、外を覗き込む。
(……あれ?)
──タクシーが来ていない。
いつもなら、出発予定の五分前には到着しているはずだ。
玄関に静かに停まって、何も言わずにドアを開けてくれる。
それが、最適化された移動の常だった。
だが今──誰もいない。
ロビーの窓越しに見える道路は、空っぽだった。
無音。動きも気配もない。
(……まさか)
AIが、予測していなかった。
“俺が帰る”という選択を、読んでいなかった。
そんな経験──今まで、一度もなかった。
思わず、足が止まった。
端末を使えばいい。それはわかっている。
だが、その発想がすぐには出てこなかった。
代わりに、ふと頭に浮かんだのは──
昔、見た古い映画のワンシーンだった。
──雨の中、主人公がホテルのフロントに駆け込み、「タクシーを呼んでくれ」と叫ぶ。
子どもの頃は、「なんて非効率なんだ」と笑って見ていた。
けれど今──なぜか、それしか思い浮かばなかった。
ユウは無言でロビーに戻る。
正面フロントには、和装の中年男性スタッフが立っていた。
彼はユウに気づくと、すぐに姿勢を正す。
「……あの」
ユウは一瞬、言い淀んだ。
そして、思わず一拍、息を置いて──
「……帰りたいんですけど」
「ご自宅へのご送迎でよろしいでしょうか?」
「……あ、はい」
スタッフはうなずき、端末を取り出して手早く操作を始めた。
カウンターの下で、なにかが静かに手配されていく。
ごく短い沈黙ののち、スタッフが軽く頭を下げる。
「数分で到着いたします。玄関でお待ちくださいませ」
それから間もなく、旅館の前に一台の車が滑り込んできた。
──予想外の、有人車だった。
車体はやや古めだが、よく手入れされていた。
運転席には五十代ほどの男性。
ロゴの入ったジャケットに、少し気の抜けたような笑顔。
──AIじゃない。人間だった。
ユウは、一瞬だけ足を止める。
(……大丈夫、なんだろうか)
事故率、反応速度、交通網への最適対応──
全てにおいてAIのほうが優れているという認識が、もう染みついている。
だが、運転手は何事もないようにドアを開け、言った。
「どうぞ、後ろの座席にお乗りください」
「……あ、はい」
後部ドアは自動で開いたが、運転手が操作しているようだった。
中に身を入れ、腰を下ろす。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
シートの沈み具合が、どこか頼りない。
(……落ち着かないな)
“予測された快適”がないだけで、こんなにも神経がざわつくとは。
「大丈夫ですよ」
運転手がミラー越しに微笑んだ。
「有人運転ですけど、今は周囲がほとんどAI車両なんで、昔より事故率はずっと低いんですよ」
「あ……そうなんですか」
気を遣ってくれている。
それはわかるのに、自然な返答が出てこなかった。
エンジンがかかる。
振動がじわじわと座席を伝ってくる。
「たまにいるんですよ、“有人がいい”ってお客さん」
運転手はハンドルを回しながら言った。
「予測されるのが嫌で、“好きなタイミングで動きたい”って。だから配車AIが気を使って私が呼ばれたわけですが……そういう人って、大抵ちょっと面白いんですよね」
ユウは返事に困って、わずかに首をかしげる。
「……いや、俺はそういうわけじゃないんですが」
「おや? そうなんですか?」
運転手は肩をすくめて、ミラー越しにまた笑った。
「ははっ。AIも──たまには間違うんですねぇ」
その言葉に、ユウはふっと息を漏らす。
気づけば、自分も小さく笑っていた。
信号で車がゆっくりと停まった。
横断歩道を渡る子どもたちを見送りながら、ふと口を開いた。
「最適化されていることが……気持ち悪いと、感じることってありますか?」
ユウは、ミラーの中の運転手の顔色を伺った。
唐突な質問。
運転手は、そんな質問に慣れているかのように自然と言葉を返した。
「そらきた、ああすいません。そういうこと、よく話すんですよね。私のタクシーに乗る人って」
ユウはただ、耳を傾けていた。
「そうですね、私はあなたを快適にしようとしてます。もちろん。
でも、それはAIも同じです。
目的地にちゃんと届けて、なるべく不快な思いをさせず、時間通り、安全に」
信号が青になり、車がゆっくりと動き出す。
窓の外、夕焼けが街を金色に染めていた。
「──違いがあるとすれば、精度です。
私よりAIのほうが、きっと正確に、静かに、綺麗にやってくれる。
それが“決定的な差”だと思ったら……また私を呼んでください。」
ユウは何も言えずにいた。
“快適さ”の話をしているはずなのに、なぜか胸が少しだけ締めつけられた。
ミラー越しに目が合う。
運転手は、まるで“応答を期待していない”ような穏やかな笑みを浮かべていた。
それはどこか──
懐かしくて、うっとうしくなくて、心が追いつける速度の笑顔だった。
ユウはふっと息を吐いた。
そして、思った。
(──これで、いいか)
ドアの外に見慣れた街が近づいてくる。
信号、電光掲示、歩道の人並み。
すべてがAIによって調整された、最適化された都市の風景。
けれど今の自分は、
そのど真ん中に“予測されていなかった感情”を抱えたまま、座っている。
そして、それで──
俺の「旅」は、これで十分だった。




