31話「安心を感じていた」
そのまま玄関へと向かう。
宿泊棟の廊下を抜け、フロントを通り過ぎ、エントランスの自動扉へ。
ドアのガラス越しに、外を覗き込む。
(……あれ?)
──タクシーが来ていない。
いつもなら、出発予定の五分前には到着しているはずだ。
玄関に静かに停まって、何も言わずにドアを開けてくれる。
それが、最適化された移動の常だった。
だが今──誰もいない。
ロビーの窓越しに見える道路は、空っぽだった。
無音。動きも気配もない。
(……まさか)
AIが、予測していなかった。
“俺が帰る”という選択を、読んでいなかった。
そんな経験──今まで、一度もなかった。
思わず、足が止まった。
端末を使えばいい。それはわかっている。
だが、その発想がすぐには出てこなかった。
代わりに、ふと頭に浮かんだのは──
昔、見た古い映画のワンシーンだった。
──雨の中、主人公がホテルのフロントに駆け込み、「タクシーを呼んでくれ」と叫ぶ。
子どもの頃は、「なんて非効率なんだ」と笑って見ていた。
けれど今──なぜか、それしか思い浮かばなかった。
ユウは無言でロビーに戻る。
正面フロントには、和装の中年男性スタッフが立っていた。
彼はユウに気づくと、すぐに姿勢を正す。
「……あの」
ユウは一瞬、言い淀んだ。
そして、思わず一拍、息を置いて──
「……帰りたいんですけど」
「ご自宅へのご送迎でよろしいでしょうか?」
「……あ、はい」
スタッフはうなずき、端末を取り出して手早く操作を始めた。
カウンターの下で、なにかが静かに手配されていく。
ごく短い沈黙ののち、スタッフが軽く頭を下げる。
「数分で到着いたします。玄関でお待ちくださいませ」
それから間もなく、旅館の前に一台の車が滑り込んできた。
──予想外の、有人車だった。
車体はやや古めだが、よく手入れされていた。
運転席には五十代ほどの男性。
ロゴの入ったジャケットに、少し気の抜けたような笑顔。
──AIじゃない。人間だった。
ユウは、一瞬だけ足を止める。
(……大丈夫、なんだろうか)
事故率、反応速度、交通網への最適対応──
全てにおいてAIのほうが優れているという認識が、もう染みついている。
だが、運転手は何事もないようにドアを開け、言った。
「どうぞ、後ろの座席にお乗りください」
「……あ、はい」
後部ドアは自動で開いたが、運転手が操作しているようだった。
中に身を入れ、腰を下ろす。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
シートの沈み具合が、どこか頼りない。
(……落ち着かないな)
“予測された快適”がないだけで、こんなにも神経がざわつくとは。
「大丈夫ですよ」
運転手がミラー越しに微笑んだ。
「有人運転ですけど、今は周囲がほとんどAI車両なんで、昔より事故率はずっと低いんですよ」
「あ……そうなんですか」
気を遣ってくれている。
それはわかるのに、自然な返答が出てこなかった。
エンジンがかかる。
振動がじわじわと座席を伝ってくる。
「たまにいるんですよ、“有人がいい”ってお客さん」
運転手はハンドルを回しながら言った。
「予測されるのが嫌で、“好きなタイミングで動きたい”って。だから配車AIが気を使って私が呼ばれたわけですが……そういう人って、大抵ちょっと面白いんですよね」
ユウは返事に困って、わずかに首をかしげる。
「……いや、俺はそういうわけじゃないんですが」
「おや? そうなんですか?」
運転手は肩をすくめて、ミラー越しにまた笑った。
「ははっ。AIも──たまには間違うんですねぇ」
その言葉に、ユウはふっと息を漏らす。
気づけば、自分も小さく笑っていた。
信号で車がゆっくりと停まった。
横断歩道を渡る子どもたちを見送りながら、ふと口を開いた。
「最適化されていることが……気持ち悪いと、感じることってありますか?」
ユウは、ミラーの中の運転手の顔色を伺った。
唐突な質問。
運転手は、そんな質問に慣れているかのように自然と言葉を返した。
「そらきた、ああすいません。そういうこと、よく話すんですよね。私のタクシーに乗る人って」
ユウはただ、耳を傾けていた。
「そうですね、私はあなたを快適にしようとしてます。もちろん。
でも、それはAIも同じです。
目的地にちゃんと届けて、なるべく不快な思いをさせず、時間通り、安全に」
信号が青になり、車がゆっくりと動き出す。
窓の外、夕焼けが街を金色に染めていた。
「──違いがあるとすれば、精度です。
私よりAIのほうが、きっと正確に、静かに、綺麗にやってくれる。
それが“決定的な差”だと思ったら……また私を呼んでください。」
ユウは何も言えずにいた。
“快適さ”の話をしているはずなのに、なぜか胸が少しだけ締めつけられた。
ミラー越しに目が合う。
運転手は、まるで“応答を期待していない”ような穏やかな笑みを浮かべていた。
それはどこか──
懐かしくて、うっとうしくなくて、心が追いつける速度の笑顔だった。
ユウはふっと息を吐いた。
そして、思った。
(──これで、いいか)
ドアの外に見慣れた街が近づいてくる。
信号、電光掲示、歩道の人並み。
すべてがAIによって調整された、最適化された都市の風景。
けれど今の自分は、
そのど真ん中に“予測されていなかった感情”を抱えたまま、座っている。
そして、それで──
俺の「旅」は、これで十分だった。




