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30話「似ていないはずの顔」

日が落ちかけた頃、

ユウは無人スーパーのゲートを抜け、レジ袋を手に歩いていた。


道路は静かだった。

車の通行も、人の声も、ノイズキャンセルされたように整っている。

街路樹の根元では清掃ドローンが滑らかに通り過ぎ、電柱についた電光掲示板が夕焼け情報をつぶやいている。


──整った街並み。

どこにいても、同じ温度、同じ風景、同じ空気。


だというのに、俺の足取りは、ほんの少しだけ重かった。



オートロックが開くと、彼女が待っていた。


「おかえりなさい、ユウ様」


──ユリ。


エプロン姿のまま、いつも通りの微笑。

抑揚は少なく、完璧に調整された音声。

それでも、その声には、なぜか“温度”を感じてしまう。


「ただいま……」


自分でも、返事の声がわずかに掠れていたことに気づく。

靴を脱いで、廊下を歩きながら思う。


(……なんでだろうな)

(この声を聞くと、ちょっとだけ、ホッとするのは)


──これは最適化の結果か?

それとも、ただの錯覚か。


けれどその微かな違和感に、俺はまだ言葉を与えられずにいた。



食卓に並ぶのは、いつも通り栄養バランスが完璧に調整された夕食。

今夜のメインは、鉄分とタンパク質が効率よく吸収されるように設計された特製ハンバーグ。


「いただきます」と呟いて、ナイフを入れる。

──悪くない。悪くないはずなんだが、どこか味が薄く感じる。


そんな気分のまま、二口目を飲み込んだときだった。


「あのさ」

「なんでしょう?」

「気になるんだけど」

「はい?」


「いや……俺だけ食ってるのが、なんかこう、悪いっていうか……気になるんだけど」

一瞬、ユリがまばたきをしたように見えた。──気のせいか?


「……では」

そう言って、ユリが口をもぐもぐと動かしはじめた。

「なにやってんの」

「霞でも食べようかと」

「いや仙人じゃねーんだから」

「では」


そう言って、ユリは唐突にスカートの裾を摘み、太ももをあらわにする。


「ちょ、待て、なにしてんの」

「こちらの太もも側面にプラグがあります。充電ケーブルを差し込んでいただければ、私は“食事”をしたことになりますので」

「いや、それを夕食の代わりって言い切るのどうなの……っていうか」


おそるおそる立ち上がり、充電コードを手にしゃがみ込んだ。


「どこだよ……見当たらないぞ」

「内もものほうです」


スカートの中に潜り込むような格好になる。ちらりと視界に白が映る。


(うわ……白だ。ロボットでも、パンツ履くんだな)


「ユウ様?」

「い、今やってるから黙ってろ」


ようやく差込口を見つけ、コードを接続する。

シリコーン製の肌に触れた指先に、ほんのりとした温かさがあった。

──カチッ。


「んっ」


「……絶対その声いらなかったろ」



「すみません、バイオフィードバックの挙動が誤って起動しました。“リアルな生活感”を重視した学習結果の反映です」


「今すぐ忘れろ。二度と学習すんなその方向で」


ユリは真顔のまま、微笑の角度だけを1.3度だけ深くした。


「では、いただきます」

「充電だけなのになんか疲れたぞ……」


ハンバーグの湯気が、ふわりと揺れる。

笑わせようとしてくれた──そんな気がした。

彼女は機械なのに。

でも、それでも。


少しだけ、心が和らいだ。


風呂から上がり、髪をタオルで拭きながらリビングに戻る。

肌に残った蒸気を空調がすばやく吸い取っていく。

足元はぬるく温かく、空気は乾きすぎず、すべてが“最適”に保たれていた。


「お疲れさまでした、ユウ様」

ユリが、いつもと同じ調子で出迎える。

手には冷たい麦茶。グラスには結露。


「……ありがとな」


グラスを受け取る。指先が、かすかに触れた。

その瞬間──


別の誰かの顔が、ふいに重なった。


「どうかされましたか、ユウ様?」


ユリが振り返る。相変わらずの、抑揚の少ない声。

でもその“間”が、どこか、人間的にすら感じられた。


「……いや、なんでもない」


そう言ったつもりだったが、自分の声が掠れていた。


「ですが、表情筋の緊張度とまばたき回数から、

 心理的負荷の上昇が見受けられ──」

「やめろ!」


ガタン、とタオルが床に落ちた。


ユリの声が止まる。

部屋が静かになる。


──違う。あいつと、ユリは違う。

髪も違う。骨格も違う。雰囲気も、声も、全部違う。

快楽値だとか、ストレス値だとか、そんな言葉を使うこともなかった。


……でも。



ふと、こっちを見て気遣う、あの一瞬の顔。

それが──今のユリと、重なって見えた。


思い出ではない。記録でもない。

ただ、“感情の痕跡”だけが、似ていた。

そしてそれが、妙に、胸をざわつかせた。


「……そういうの、いちいち言うな。

 別にストレスなんか、溜まってねぇよ」


言い終えてから、少しだけ後悔する。


ユリは、何も言わなかった。

ただ、少しだけ──首を傾げた。


ほんの数ミリの角度。

ただのセンサー調整に過ぎない動作。


……なのに、なぜか俺には、それが“戸惑っているように”見えた。


「すまん、今日はもう寝る」

俺がそう言うと、ユリはすぐさま姿勢を正した。


「承知いたしました。寝室の照明を調整します。

 今夜は自律モードで温度と湿度を最適化いたしますね」


その声には、抑揚も感情もなかった。

──いつも通りだった。

機械的なその響きが、今日だけは、妙にありがたかった。


俺は脱力するように寝室の扉をくぐり、ベッドに沈み込む。

シーツは適温。空気は、わずかにヒノキ系のアロマ。

目を閉じると、静かな沈黙が、体を包んでいった。

音も、光も、思考さえも、少しずつ遠ざかっていく。


──あれは、いつだったか。


講義が機器の不調で延期になった、あの日のこと。

開け放ったドアの向こう、ミラー端末に浮かぶチャットログ。


『講義の時間は、帰ってこないでしょう』


寝室で寝ていた彼女と──見知らぬ男。

シーツを引き寄せて、驚いたようにこちらを見た顔。


「……ごめん」


その言葉が、ひどく軽く聞こえた。


──ごめん、ってなんだよ。

それで、全部許されるとでも思ったのか。


あの瞬間の喉の奥の味。

拳を握る指先の震え。

視界がぼやけて、何も言えなかった自分。


──その感覚を思い出したとき、俺は目を覚ました。


天井の照明が、ごく微かに揺れている。

──いつの間にか、ユリがそばにいた。


「ストレス値の上昇を確認しました」


いつもと同じ平坦な声、なぜだかそれに”安らぎ”を感じてしまった。


ユリの膝の上に、頭を預けた。

柔らかく、ぬるく、何もかもを許容する温度。


──泣いてたのか、俺。


苦笑する。

情けないな、と思う。


でもそのまま、何も言わずに、目を閉じた。


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