29話「正しいズレ」
学食。
ユウの通う大学の食堂は、昼どきにしては妙に静かだった。
行列は、最短距離で処理される。
騒ぎ声も、笑い声も、一定のしきい値を超えないよう調整されている。
みんな、“ほどよく”快適そうな顔で、食べて、喋って、また黙る。
無駄がなく、滑らかで、最適化された空間。
──けれど、俺はそこに、居心地の悪さを覚えていた。
空気が軽すぎて、どこにも爪が立たないような。
「おー、いたいた。今日も渋い飯だな」
背後から、馴れ馴れしい声。
振り返らずともわかる。ナオだ。
本名・小笠原直通。
同じ学部で幼馴染、話しかけてくる頻度は妙に高い。
世間話は軽いくせに、人の懐に土足で踏み込んでくるタイプ。
──悪いやつじゃない。
でも、正直、今はちょっと放っておいてほしい。
「それ、あれだろ? 汎用栄養バージョンの和定食。栄養バランスは満点、でも彩りゼロ」
「今日はひとりで食う日って決めてんだよ」
「へぇ、“自主的孤食日”ね。わかるわかる。俺も昨日、彼女と飯食って気疲れして頭痛したし」
「……その話題を出すやつが、なぜ今俺の前に座った」
「お前の飯が“反省会用”の顔してたからな」
ナオは悪びれもせず、向かいの席に腰を下ろす。
その目尻には、いつも通りのニヤけ癖。
俺はふてくされた顔で、箸を止めた。
ほんの一瞬、湯気が視界を曇らせた。
「お前こそ、なんで一人なんだよ」
「あ? あー……まあ、そういう日もあるだろ」
「なんだよ、喧嘩でもしたか」
「いや、些細なことだって。ほんと、ちょっとしたズレ」
──この時代にしては、珍しい。
AIが補助する人間関係で、“ズレ”が起きるなんて。
「へぇ、ナツミさんも怒るんだな」
「まあ、正直、俺のせいだしな」
「だろうな」
「おい、なんだよそれ」
「あの人、しっかりしてるからさ」
──やっぱり、こいつは悪い奴じゃない。
今日だって、たぶん“叱られに来た”んだ。
「ちぇっ。でもほんと、ちょっとしたことなんだよ。メッセの返信が遅いとか、飯食ってるときに声でかいとか。タイミングが悪かっただけで」
「そういうのが、積み重なったんだろ」
「……ぐうの音も出ねぇ」
ナオが小さく笑って、息を吐く。
けど、その横顔はどこか、助けを求めているようにも見えた。
俺は、思わず言葉にしていた。
「……でもまあ、“正しいズレ”があるから、人間ってAIと違うんだろ」
言ってから、自分でも驚いた。
ナオが箸を止めて、眉を上げる。
「“正しいズレ”、ね。お前がそれ言うとはな」
「……」
「ずっと、“感情は効率の敵”って言ってたくせに」
「言っただけだ。……本気で信じてたわけじゃない」
ナオがニヤッと笑う。
茶化すような、でも少しだけ安心したような顔だった。
「なるほど。つまり、お前もついに“実感派”に鞍替えか」
「ちげーよ。別に……誰かと暮らしてるわけでも──」
──言いかけて、言葉が止まった。
「……なんだよ。黙ったな?」
「うるさい」
「さては、あれか。同棲してる彼女がいるとか?」
「……」
「……あっ、ごめ」
少しの沈黙。
湯気の向こうで、誰の目も見ずに呟く。
──俺には、二ヶ月前まで彼女がいた。
色々あって、別れた。
「……もう、気にしてねーよ」
「そうか?」
「あんときはあんとき。……俺もちょっと、悪かったのかなって思っ──」
「ユウは、悪くねえよ」
ナオの声は、即答だった。
一瞬、胸の奥がきゅっとなる。
──“色々”ってのは、相手の浮気だった。
AIに“バレずに浮気する方法”を相談してたらしい。
でも──男と一緒に部屋にいるとこを見たら、もう何もかも終わりだ。
「……そうか」
「そうだ」
ナオは、まっすぐに俺を見ていた。
その視線は、不器用な優しさでできていた。
正直、別れた直後の俺はひどかったらしい。
誰が見ても、目が死んでたって。
──でも、二ヶ月も経てば、それなりに、立ち直る。
「……まあ。思ったより元気そうで、安心した」
「そんなに、ひどかったか? 俺」
「正直、あの時のお前は──
幼馴染の俺ですら、見たことない顔してた」
「……なにそれ、キモい」
「心配してやってんのに“キモい”はねーだろ」
その後も談笑しながらそれぞれの昼食を食べた。
気まずい話もしたけどメシが不味くなるほどじゃない。
ナオは、空になったトレーを片手に立ち上がる。
「……んじゃ、俺、次ゼミあるから」
「ああ」
数歩歩いて、ふと振り返る。
「お前も、そろそろ“切り替え”してけよ。
……ズレってのは、埋めるより活かした方が早いって、最近わかったからさ」
「うるせぇ、知った風な口きくな」
「はいはい、またなー」
背中越しの手のひらだけが、軽く揺れた。
ナオの足音が遠ざかっていく。
気づけば、また一人。
目の前には、冷めた味噌汁と、まだ温かいままの定食。
(……“正しいズレ”、か)
呟いた言葉が、舌に少しだけ引っかかる。
AIにはない“誤差”。
合理性では測れない、何か。
──ユリの姿が、ふと浮かぶ。
長い銀髪と翠色の瞳を持った、少し背の低いメイド服姿のAIロボット。
キッチンに立つ姿。
淡々とした声。
感情のないはずの微笑み。
(……いや、違う)
俺は箸を置いた。
彼女は機械だ。ただの最適化ユニット。
思い違いも、錯覚も──全部、“俺の問題”だ。




