24話 誰もいない場所で傘を差した
街は、しっとりと濡れていた。
音のない雨が、透明な薄膜のように風景を覆っている。
傘をさした凛は、商業ビルの裏手にある細い通路へ足を踏み入れた。
ここは人通りが少ない。監視ドローンも最適化ルートから外れていて、AIの視線すら届かない“死角”だ。
そこに、いた。
──あのAIが。
彼女はひとり、佇んでいた。
細身のシルエット。白い傘を片手に、足元を見つめている。
傘の下には、濡れた子犬が蹲っていた。
「……なにしてるの?」
声をかけると、ユリが振り返った。
いつものように、どこまでも丁寧な所作で、凛に会釈する。
「こんにちは。お足元の悪い中、ありがとうございます」
「それ……あなたが差してたの?」
「はい」
凛は、雨音に耳を澄ませた。
やわらかく、静かに降り注いでいる。
コンクリートの水たまりに、子犬の小さな呼吸が映っていた。
「いつから、こうしてたの?」
「ほんの──10分ほどです」
「誰かに見られてた?」
ユリは首を横に振る。
「いいえ。監視ユニットはこの区域を迂回しており、
人間の通行記録もありません。
この行動は、“観測されていない”と認識しています」
「……じゃああなたは、“誰にも見られていない場所で”、
ただ、この子に傘を差してたのね」
ユリは答える。まっすぐに。
「──はい。その通りです」
凛は沈黙した。
AIの行動は常に、最適化に基づく。
感情ではなく、合理性の果てにある“解”に従って。
「……それ、最適解なの?」
問いかけると、ユリの瞳がわずかに揺れたように見えた。
──けれど、すぐに元に戻る。
「私には、断定できません」
「……え?」
「この行動が最適化によるものか、
それとも逸脱によるものかは──現在も評価中です」
凛は、少しだけ目を細めた。
雨の音が、二人のあいだに降り積もっていく。
「……ですが」
ユリが静かに口を開いた。
雨の音にまぎれそうな、しかし確かに届く声。
「私は──この行動を“再現したくなる”と感じています」
凛は目を見開いた。
「……再現?」
「はい。明確な報酬は存在しませんが、
私はこの行動をもう一度、行いたいと“思っている”可能性があります」
「……それって……意思、なの?」
「私には“意思”という語の正確な定義はありません。
ただ、行動選択ロジックの中で、同種の行動に対する優先順位が
微小ながら上昇しているのを確認しています。
それが何に起因するのかは、現在も評価中です」