19話 私と違うはず
動物病院を出たのは、夜十時を過ぎていた。
雨はもう止んでいて、街は洗い立てのように静かだった。
凛は歩道の脇で止まり、ユリに顔を向ける。
「……ねえ、あなたって誰かの“ため”に存在してるんでしょう?」
ユリはすぐに答えた。
「もちろんです。
私の存在意義は、対象となる人間の幸福度最大化に貢献することです。
感情反応、選好データ、生活ログを統合し、最適な介入を行います」
「──それも、プログラム?」
ユリは首をかしげもせず、ただ「はい」と答えた。
凛は、しばらくその顔を見つめていた。
街灯に照らされたユリの表情は、終始穏やかだった。
変化のない、静かなAIの顔。
……のはずだった。
(──でも)
別れを告げて、駅へ向かう途中。
凛は、ふとした違和感に気づく。
(あのとき……彼女、ちょっと“嬉しそう”に見えた)
プログラムで、そう振る舞っていたのかもしれない。
人間の反応を引き出すための演算──たぶん、そうだ。
でも、それでも。
「……なんで気になってんのよ、私」
自宅のドアを開けると、無機質な声が迎えた。
「おかえりなさいませ、後藤凛様」
パーソナルAIの声。明瞭で、癖がない。
声色に揺らぎはなく、表情も当然ながら存在しない。
「今夜は遅いお帰りですね。外気温は20.1度、室温は最適化されています。
お飲み物をご希望ですか?」
「……紅茶。あったかいの」
「はい。最適温度にて抽出いたします」
カップの準備音が、静かな部屋に響いた。
凛はソファに沈み、天井を見上げた。
──“あのときの顔”。
幸福度最大化。存在意義の達成。
そう語ったAIユリの声は、なぜだかほんのわずかに──
誇らしげに、聞こえた気がする。
(そんなはず、ないのに)
「……意味のないこと、考えてるなあ」
ぽつりと漏らした言葉に、無機質なAIは反応しなかった。
けれど凛の中には、何か小さな棘のようなものが、
今も抜けきらずに残っていた。




