17話 そのAIは傘を差しだしていた
仕事帰り、夜の気配が街に沈みはじめていた。
人影は少なく、歩道に残る足音だけがカツカツと響く。
凛はいつもと違う道を選んだ。
特に理由はなかった。ただ、少し風が気持ちよかったからだ。
角を曲がったところで、それは目に入った。
──路肩の植え込み。
倒れた猫が、細い体を丸めていた。
毛は濡れていて、呼吸が浅い。
そしてその横に、ひとつの影が立っていた。
旧型のAIユニット。
古い関節駆動。わずかにズレた瞳孔反応。
エプロンを着けてはいるが、メイド型というよりも、
“清掃補助員の名残”を思わせるようなデザインだった。
そのAIは、猫の上にそっと傘を差しかけていた。
無言で、静かに。
通行人はいない。記録用のドローンも飛んでいない。
──誰も見ていなかった。凛を除いて。
凛は足を止めた。
「……あなた、何してるの?」
AIはゆっくりと振り向いた。
そして、穏やかな声で答える。
「保護対象への対処行動を実行中です。
倒れていた猫に対し、体温維持とストレス緩和のため傘を展開しました」
「……それ、あなたの判断?」
「いいえ。記録によれば、かつてあなたが猫に傘を差した際、
情動ログに快楽反応が記録されました。
その履歴に基づき、同様の行動が最適と判断されました」
「……私の記録? 私、あなたにそんなこと頼んでないけど」
「ご本人による直接の指示ではありません。
過去の映像認識と音声記録に基づく“好み傾向”の反映です」
“あなたの好み”。
そう言われた瞬間、凛の背中にひやりとした感覚が走った。
──私は、こんなことをAIに“やってほしい”なんて思っていない。
けれど目の前の行動は、間違いなく“人間的”に見えた。
猫は、かすかに震えていた。
その横にいるAIの表情は変わらない。
それでも──何かをしてあげたくなる静けさが、そこにはあった。
凛は膝をついて猫に触れた。
ぬるい。熱がこもっている。これはまずい。
「……このままじゃまずいわ。連れてく」
「同行します。搬送対象の体温が安全閾値を下回っています」
「へえ、そうやって冷静に言うのね」
「はい。仕様です」




