14話 後藤凛という女②
──だから、凛はAIを心の底では信用していない。
どんなに便利でも、どんなに優しくても、
“痛み”を経験しない者が、どうして“善さ”を語れるのか。
そう思っている。
そう──
あのとき、猫を助けた少女の延長線上に、今の彼女はいる。
たとえ「正しくない」と言われても。
たとえ「意味がない」と切り捨てられても。
そこに、自分の“したい”があるならば。
凛は、今日も自分の手で豆を挽き、湯を沸かす。
そして──香り立つコーヒーを味わいながら、
“間違えること”を、自分の選択として守っている。
快適だった。
家事はすべてオート。衣類も食材も、定期最適配送。
部屋の空調は時間帯と体調ログに合わせて微調整され、朝のシャワーは凛の好みの水圧と温度でスタートする。
だが、それらすべてを“してくれている”存在がいた。
──パーソナルAI、コードネーム「RZ-003」。
無機質な男性音声。仮想人格設定は「必要最小限」。
「後藤凛様、今朝の血圧は平常値です。起床に適した状態と判断されます」
「わかってる、起きてる」
「本日は12時30分にランチの予定が登録されています。相手は“須藤亜美様”。ご友人関係の方ですね」
「覚えてるって」
凛はブラインドを指先で弾いて、やわらかな光の角度を確かめた。
AIが自動調整した光よりも、わずかに揺らぎを感じる“自然光”のほうが好きだ。
「コーディネートを提案しますか?」
「いい、自分で選ぶ」
今日の予定も、食事も、移動も、全部AIが補助してくれる。
だが、服だけは譲らない。
色味、素材、今日の気分──それを“自分で決める”という行為が、凛には必要だった。
「コーヒー、淹れて」
「最適化プロファイルに従い、ミディアムロースト、酸味控えめにて抽出します」
「それは“あなた”の最適でしょ。私は“香り”が立ってればいいの。少し粗挽きで」
「了解しました。香り強調モードに切り替えます」
数分後、キッチンから微かな香ばしさが漂ってきた。
このやりとりも、すでに何百回と繰り返している。
それでも、毎朝ちょっとだけ手を入れる。
それが、人間という存在の“ムダの快楽”だと凛は思っている。
「着替え完了、気温20.2度。お出かけに適しています」
「──じゃ、行くわよ。今日も、誰かと“ランチ”しに」
靴音が響く。
ドアが静かに閉まり、静けさが戻る。
人工的な気配だけが残された部屋で、AIは次の命令を待っていた。




