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だからもう遅いって言ったのよ

作者: 佐久矢この

会場には、軽やかな音楽が流れ、甘い菓子の香りが満ちていた。


卒業式を明日に控えた夜。

王立学院最後の“学生だけのパーティ”。

明日の卒業パーティで一人前の貴族としての出発を控える学生達にとっては、最後の気の置けないものだった。


先生たちは一応見守っているけれど、保護者はいない。

未来を背負う貴族たちが、子どもではなく“大人になる直前”の夜。

酒精入りのワインも許されていて、少し浮かれた空気が会場を満たしている。


セリア・ローレンス子爵令嬢もまた、そんな卒業生の一人だった。

隣には、婚約者のリュカ・アルメンがワイングラスを傾けていた。


リュカに贈ってもらったドレスは淡い緑色で、彼の髪色とも目の色とも違うが、セリアの癖のない黒髪にはとてもよく似合っている。

胸元のルビーのネックレスは、数年前、「ちょっと気が早いけれど」と言って、リュカの母である伯爵夫人からもらったものだ。

あの時から、今日この日に着けようと決めていた。


十歳のときに婚約してから、もう六年。

婚約者としての最低限のふれあいはお互いに意識して行っていたと思う。


二人の仲は、誰が見ても良好で、卒業後の結婚は誰よりも早いのではないかと仲間内では笑い話になっている。


「セリア」


リュカに名前を呼ばれた瞬間、セリアの胸の奥で何かが警鐘を鳴らした。

静かな声だった。

でも、知っている。

リュカが、何かを決めた時の声だ。


セリアはそれをどこか諦めにも似た気持ちで聞いた。


「……なにかしら?」


軽く笑ってみせる。


「君との婚約を破棄する」


覚悟していたはずなのに、ほんの数秒、自分が呼吸をしていることを忘れていた。

初めてのワイン片手に歓談していた周囲の人達は、話すことを忘れて二人を見ている。


リュカは、口を引き結び、目だけがただ揺れていた。


「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「理由は君も分かっているのではないだろうか。君のような女は、俺には相応しくない」


ざわつく周囲をかいくぐるようにして、目を見開いた友人のミレイユが、セリアの腕を掴んできた。


「セリア?これはどうしたの?冗談よね?喧嘩でもした?」


セリアは答えられなかった。

誰かの声が、遠くで割れるように響いている。


「……破棄すれば、元には戻れないわ。後悔しないのね?」


静かに問うたセリアは、自分の声が震えていないことに驚いた。

こんなときに微笑を浮かべていられるのは、淑女教育の賜物だろう。


「後悔はしない」


(あなたは、いつだってそう)


「……わかりました。婚約破棄を受け入れます」


はっきりと、ひとつひとつ言葉を選んで、セリアは言った。

周囲のざわめきが再び広がる。


先生が何人かこちらに向かって歩き始めた。


「あなたは私を突き放したことを絶対に後悔するわ。そうなってからでは、もう遅いわよ」


リュカはなにも言わなかった。

一歩、後ろに下がり、礼を執る。

そして、顔を上げて、彼の青い瞳をまっすぐに見た。


「リュカ様……いいえ。アルメン様。いままでありがとうございました」


背を向けて歩き出した瞬間、この夜が、終わったのだと理解した。





屋敷に着くまで、セリアは一度も振り返らなかった。

空気はまだ暖かく、春の香りが残っていたけれど、靴音が廊下に響くたびに、自分の中の何かがひとつずつ音を立てて剥がれていくようだった。


屋敷の扉を開けると、夜の空気が胸に深く沈んだ。


ローレンス家の本邸、三階西棟にある私の部屋は、南向きのバルコニーがついた静かな場所だった。

天蓋のあるベッド、読書机と本棚、壁には私が描いた小さな花の絵。


着替えを手伝おうとした侍女を制して、ドレスのまま窓辺の椅子に座る。

ガラス越しに、夜の街灯が淡く揺れていた。


カーテンを少しだけ開き、椅子の背にもたれかかる。


音もなく静かに、記憶が戻ってくる。

あのときのリュカの顔。

言葉。

声。

そして――

彼の目。

あれは、あの時と同じだった。

セリアは懐かしむようにそっと目を閉じた。




セリアとリュカがまだ十歳の頃だった。

二人で王都の春祭りに出かけた。


もちろん護衛がついていたけれど、二人はどうしても人混みの中を自由に歩いてみたかった。

こっそりと手を引き合って、屋台の列を抜けて、護衛の目を盗んで駆け出した。

リュカの顔がひどく得意げだったのを覚えている。


「さあ、ここからは冒険よ。リュカ、ついてきて」

「いや、そっちがついてくるんだろ」


屋台でお肉の串焼きを買って、それから露店でリュカに淡い緑色の葉に赤い花が付いた髪飾りを買ってもらった。

平民が使うもので、お小遣いで買えるようなものだったが、セリアは物語の中のお姫様になった心地で、リュカの頬にそっとキスをした。

表情は変えなかったが、彼の丸い頬は真っ赤になった。


そんなとき、ふと気づいた。

自分たちが、どこにいるのか分からないということに。


石畳は見覚えのない模様をしていたし、角を曲がるたびに、戻ってきたはずの道がまるで違う場所に続いていた。

陽が少しずつ傾き始め、屋台の数もまばらになる。

街のざわめきが、いつの間にか怖いものに思えてきた。


「……リュカ、私達、帰れるよね?」


リュカは、きっぱりと頷いた。


「もちろん。俺がいるから大丈夫だ」


そのときの彼の声は、妙に大人びて聞こえた。

けれど、手を引く彼の掌はじんわりと汗ばんでいて、歩くたびに、力が強くなっていくのを感じていた。


セリアはもう、怖くて仕方なかった。

でも、彼が「大丈夫だ」と言ってくれるたびに、それを信じようと思った。


「リュカ様! セリア様!」


遠くから護衛の声が聞こえたとき、二人ははっとして立ち止まった。

リュカの手が止まり、次の瞬間、セリアの背に誰かの手が触れた。


「お嬢様、お探ししておりました!」


抱きかかえられるようにして護衛の腕の中に戻ったセリア。

けれど、その視線の先で――


リュカが、泣いていた。


大声を出すことはなかったけれど、顔を背け、必死に袖で目元を拭いながら、歯を食いしばって、でも唇が震えていた。


「……ごめん……迷わせた……俺、ちゃんと……」


彼は泣いた。

きっと彼は、ずっと怖かったのだ。

けれど、私の前では、絶対にそれを見せなかった。


セリアが泣かないように、自分の不安を呑み込んでくれていた。

そのとき初めて、彼の“強がり”を知った。




目を開けた。

いつの間にか、窓の外は深く静かな夜になっていた。


リュカは、あのときと同じ顔をしていた。

本当のことを言わないまま、強くなろうとして、誰かを守ろうとしていた。


「あなたは、そういう人」


静かに立ち上がり、窓辺に寄ってガラス越しに空を見上げる。

曇っているのか、かすんだ月が見える。

光は淡く、なぜかそれはどこか懐かしく感じる。


「ふふ……」


小さく笑みが漏れる。


あの人に何も言わないまま、勝手に決めてしまおう。


終わりはリュカが選んだ。

次は、セリアが選ぶ番だ。



次の日、リュカは卒業パーティに来なかった。

来れなかったが正しいかもしれない。


リュカの父親の投資が失敗し、アルメン伯爵家は爵位を返上したのだ。


ローレンス子爵家当主であるセリアの父は、最初から知っていたかのように何も言わず、公の場で令嬢を傷つけたとして優先的に支払われた婚約違約金を受け取った。






空はまだ眠っているようだった。

夜と朝の境を彷徨うような、濃い灰色の空。

王都の石畳が朝露を吸い込んで、しんと静まり返っている。


リュカは、ひとり立っていた。

整えられた外套、不安を映すように磨かれすぎた鞘の革。

これから辺境の騎士団に向かうには、少し質素な旅装だ。

荷は最小限。地位を失った者に相応しい、簡素な出立だった。


門の前には誰もいない。

家族は、昨日のうちに小さな家へと居を移していた。

自分は見送るばかりで、リュカを見送る者など最初からいない人生だったのかもしれない。


屋敷に向かって一礼し、リュカは一歩、門に向かって足を運ぶ。


そのとき、ふと見慣れた黒髪が見えた。

軽やかに風になびくその髪は、リュカがもう永遠に見ることがないと思っていたものだ。


「おはよう、リュカ」


門の前に立っていたセリアは、まるであの夜会などなかったかのように、いつも通りに手を振った。

春色の外套に包まれ、背には小さな鞄。髪はざっくりと結ばれている。


「……セリア?」


リュカは続ける言葉を見つけられなかった。

彼女がまるで旅に出るかのような服装で、門前に立つ理由がわからなかった。

いや、本当はわかっていた。でも、認めたくなかった。


「なぜ……」

「なぜ?あなた、辺境の騎士団に入隊するのでしょう?この時間に出立すると元伯爵家のメイドから聞いていたのだけど。私、来るの遅かった?」


彼女は軽く微笑んだ。

朝靄の中に差し込む淡い光が、彼女の横顔を照らしている。

その笑みは、もう少女ではなかった。


誰かに許されることを待つのではなく、自分の人生を選び取る大人のものだった。


「君は、これからなんでもできる。気立てもいいし、頭もいい。新しい婚約だってすぐに決まるだろう。俺についてくる必要なんてない」


ようやく絞り出した言葉は、それでも彼女を止めるには弱すぎた。

セリアは首を傾げて言った。


「でも、もう勘当してもらったわ」

「……何?」

「家に戻ってから、父に辺境行きを申し出たの。“勝手な振る舞いを重ねるなら、ローレンスの名を名乗るな”って。……だから、勘当してもらったわ。今日から私はただのセリアよ」


そう告げるその声は、晴れやかで、それでいて少しだけ寂しそうだった。


リュカは言葉を失う。

自分が守ろうとしたものが、自分の手の外で、強く、美しく育っていた。

その現実が、少しだけ眩しく、だけど受け入れていいものではないと心がブレーキをかける。


「何を馬鹿なことを。君はどうしてそう、おかしなところで行動力があるんだ。いますぐ帰って、子爵に撤回してもらえ。まだ間に合うはずだ」


頭を抱えたリュカに、セリアはにやりと唇を上げて誇らしげに胸を張った。


「もう貴族院に離籍届を提出しちゃったわ」

「はあ!?」

「それで、帰るところがないから、辺境騎士団の後援の治癒魔法部隊に志願したの。明後日から、私もあなたと同じ騎士団所属よ」

「な!危険だ!辺境は魔物も多いし、敵国との小競り合いだって……」

「あなたのせいよ。あのまま婚約していれば、ただの騎士リュカの妻として辺境に行けたのに。あなたが突き放すから、私は大人しくプロポーズを待つただの治癒魔法師になっちゃったわ」


茶目っ気たっぷりに笑うセリアは、淑女というよりも、少女の頃に戻ったようだった。


「……愚かだ」


ぽつりと漏らした声に、セリアはくすりと笑う。


「そうね。あなたに相応しくない、愚かな女だわ」


その声は春の朝にふさわしく、晴れ晴れとしていた。

それはもう、彼女がすべてを受け入れて、自分の足でここに立っている証だった。


リュカは目を伏せた。

言うべき言葉が、どれひとつとして見つからなかった。


「言ったでしょう。婚約を破棄したことを後悔しても、もう遅いわ」


風が静かに吹く。

何の変哲もない静かな朝だが、何かが新しく生まれる音がしていた。


ふたりは、言葉もなく並んで歩き出す。

その背を朝日が照らしていた。


ちなみに、婚約違約金はツンデレな子爵の計らいで全額セリア名義で銀行にあります。


ふたりがこの先も幸せでありますようにと思っていただいた方は、ポチッとしていただけると嬉しいです꒰* ॢꈍ◡ꈍ ॢ꒱

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後方腕組みお父さん(子爵)が目に浮かぶようだ
お見事! ささやかな意趣返し?(ぜんぶ捨てるハメになったぞゴルァ?)もよかったです。 あとパパも良きw
知らなかったのか?恋する乙女からは逃げられない… お父様の粋な計らいに乾杯
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