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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

魂よ、失われよ

『想像力が魔力を形作る』


 その格言を胸に、僕らは芸術と魔法の訓練を続けてきた。

 魔法を鍛える訓練学校。僕らは二十になるまではここにいられる。愛すべき芸術と魔法を鍛え続け、仲間と談笑をし、作品を批判し、自らの創造物を失意を持って破り捨てる。それを繰り返す。

 極限に至るための試行は気が狂いそうなほどの道のりだったが、友人がいたから耐えられていた。


「想像力で化け物を想像し続けたらどうなると思うかね?」


 僕の友人はそう問いかけてくる。

 ストレスで色褪せたブロンドの髪。かつては青く澄んでいた、今では焼かれた川のように色褪せた瞳になっている。

 かつては貴族然と堂々としていた彼も、自らの創造物に脳を焼かれ、今ではその麗しい容姿は狂人の研究者のような成り立ちになってしまっていた。


「病むんじゃないかな。君みたいに」


 友人を見るといつも強烈な劣等感に刺激される。自らを焦燥させるほどに芸術に没頭できる彼を見ると、健康的な自分が真面目にやっていないんじゃないかって思わされるのだ。僕はやってる、頑張ってるんだ。なんて言い聞かせは、愚かな自己暗示なんだって。


「いいや、新しい世界が開けるんだよ。元あった価値観は意味を無くす! 友情! 勝利! 努力! そんな俗世が湛えるものなんてすべて無意味だと悟りを得ることができる!」

「……やっぱり病んでない?」

「そんなことない!」


 ムキになる彼を見て、僕は少し笑った。


「けどそれは少し悲しいな。十から十七になる現在まで、僕らはずっと友だった。それに価値を見出せないってなるんなら、少し悲しい」

「……別にそうとまでは言ってないだろうに」


 彼は肩を落とし、静かにしょぼくれた。純粋な奴だ。


「なんだよ、僕のこと友達って思ってんならそういえよ」

「貴殿もなかなかめんどくさい性格をしてるな」

「多かれ少なかれ、この学校にいたらみんなそうなるだろう」

「むう。そうだな、友……人!」


 彼が僕の背中を力強く叩いた。かつてはもっと力強かったのにな、ちゃんと食べてるんだろうか?


 僕の友人は面倒くさそうに自室を散策する。優秀な生徒には一人一人個室が与えられている。彼の自室は絵具と何に使ったかわからない油でぐちゃぐちゃで、服も脱ぎ散らかっている。他にも散乱している絵と絵と絵。どれもナイフで引き裂かれ、憎しみすらも感じる破れた羊皮紙からは、強い無念と失望が伝わってくる。


「ほら、私の絵の新作だ。感想が欲しい」


 部屋の奥底から、布がかかり、大事そうに額縁にまで収められている絵が手渡される。それを見て、僕は言葉を失った。


 ――化け物が描かれていた。


 ぎょろりとした目の中心は漆黒に渦巻く。眼球は腐った卵のような黄色で、おそらく怪物自身のものと思われる折れた角の残骸を口に運んでいる。当然、口元は裂けている。全体のビジュアルは羊を人間化した怪物といったところだろうか? 背景は怪物と似ても付かぬ真っ青に済んだ青一色。綺麗な青に赤や緑といった不気味な色が細かく小さくちりばめられている。


「……すごいな、すごい、けど」


 狂気的な絵は見るものが見れば、圧倒的な名作か、くだらない刺激に頼った落書きかの判別が付くのだろう。僕にはそこまでの審美眼はない。でもこの絵を見ていると……なんだか吐きそうになった。

 こいつは本当に大丈夫なんだろうか? ずっとこんな絵を描き続けているのか?

 ……胃に響く衝撃を考えるに、きっとこれは名作だ。怪作と言ってもいい。

 僕は静かに彼から渡された絵を置いた。


「もうやめろよ、こんなこと」

「なぜ? 私の作品は学校と枠組みを超えて評価を得ている。それに、この絵を描き切ったおかげか、魔力の上昇も著しい。世間も私自身も、私の芸術を認めている。なのになぜ?」


『想像力が魔力を形作る』


 魔法とは想像力によって鍛えられる産物だ。僕らはより優れた兵器となるために、学校に閉じ込められる。芸術を語り、創造を謳い、作品を批判し、自らの創作物に向き合い続ける。そして一流の芸術家のほとんどは大魔術師となる。ほとんどの者は戦争に向かい、死ぬ。


 でもそれが何よりも栄誉なことだとされていた。閉鎖的な環境でそれぞれの創作物を称える環境がそうさせた。だってそうだ。まだまだ芸術に浅い僕だって感じることがある。


 ――『自らの創作物が認められるのなら死んでもいい』。


 彼のぎらついた視線から目を逸らし、僕は言った。


「お前、専攻は召喚術師だろ?」

「そうだが」

「お前、この絵みたいな怪物を召喚するつもりか? 魔法と精神は深く繋がってる。こんなものを召喚したら、発狂するに決まってる」


 果たして、彼は薄い唇を歪めた。


「そんなことするわけないだろう」

「え、それじゃあ――」

「――私が成るんだよ。この怪物自身に」


 僕は言葉を失った。


「私が成るんだ。究極の召喚とは頭の中の召喚体を現出させることではなく、自身が召喚体そのものになることだ。私の魔力ならその業を発動できる。それに歴代類をみない強さになるはずだ。私はずっとそう信じ、妄想して想像して創造し続けてきたからだ」

「……バカかよ。お前、この世からいなくなるつもりかよ」


 聞いてくれ、と彼は言う。その静かな声音と、優しさすら感じる表情に、僕は鳥肌が立った。

 彼は愛おしげにおかれた絵を指でなぞる。怪物の皮膚はひび割れ、なにかの液体が筋となって伝っている。その液体は赤いのに、澄んだ青に溶けあった地点で淡い青へと色を変えている。


「貴殿は幼い頃なにをよく想像していた? 生きていれば誰もが幼く愚かな想像をする。ヒーローになるとか、ケーキに囲まれたまま寝るとか。自分が足りなくて他者が持っているものを手に入れる想像とか。いろいろ、たくさんだ。なあ、私はな。世界で一番強い怪物になる想像をしていたんだ。誰にも虐げられることがないように」


 彼の生い立ちは、以前に聞いたことがある。『才能がない』と蔑まれた。貴族とは教養の頂に辿り着いた者からなる血筋。自然と発想は豊かで想像力に富んでいて、当然魔力も高い。彼は類を見ないほどの『できそこない』だった。物心がつけば誰でも作れるファイアボールも、彼はいまだに作れない。


『私はほとんど障碍者みたいなものなんだよ』


 彼のその言葉は今でも忘れられない。

 絵、音楽、小説、漫画、建築……すべての芸術分野において、彼は類を見ないほどの落第者だった。この学校に入れるような才能じゃない。只一点、生き物を描く絵に関してだけは、他の誰よりも飛びぬけていた。


 彼は言葉を続ける。


「誰も守ってはくれない。生まれてきてはいけなかった落伍者。だからずっと別のなにかになりたかった。種を超越した、自分が想像した、自分だけが信じた怪物。脳はまともに機能しない。筋肉は対してないのに万力を持ち、翼はないのに高速で移動する。完全無敵な怪物。何者にも縛られない、超越種。そんなものになれたらなと、それがずっと夢だった」


 だってそうだろ? と彼は言う。


「この気持ちの悪い批判の世界。才能がない奴は人間じゃない。存在すべきは才あるやつで、そいつらもどこか歪んでいる。誰も繁栄できない。世界を気持ちよく謳歌できない。だからなにかを感じる脳は不要で、頼もしい肉体なんてものはくだらなくて、群れを作ることはより一層の苦しみに繋がる。完全に解き放たれた自由な怪物。そうなりたいと願うことのなにが悪い?」


 才能がない奴は単純労働や農民になるしかない。金や娯楽を楽しめる奴は才ありで、しかしそこまで上り詰める必要のある才があるやつはどこか頭がおかしい。社会の構造は徹底的に歪んでしまっている。芸術と魔力に憑りつかれたこの社会は、幸福な人間をほとんど生み出せない。彼が言っているのはそういうことだ。


「怪物になればすべてが救われるんだ! 至高の瞬間に至ることができるのならば、苦しみすべてが報われる! だから止めるな、友人。私はただ夢を叶えるだけだ」


 夢のために歩みを止めることはなかった。ストレスで肌を搔きむしり、頭髪は色褪せ、不気味に痩せ細っていく体を眺めながら、ただ自らの創作物に没頭した。そんな彼を見て、僕は――。


 ――なんて羨ましい奴なんだ、と思ってしまった。


 ずるい、ずるい。僕にはそこまで熱狂的に打ち込める物はない。命を燃やして創造をする。他者も自らも認めている『作品』、をだ! それがこの世に本物となって現出することの、なんてすばらしいことだろう。


 人間として思考を凝らし、自分の最高の作品をこの世に残す。その生き様のなんと文化的なことか!

 本質的に生きる意味を持てる人間なんてほとんどいない。でも彼は、確信を持って意味を持っている。そして華々しく最後に自我を無くして消える。真に生きる意味を持って行動してきた彼は、人として最上級の文化人だ!


 僕は震えた声で言った。


「素晴らしいことだ」

「だろう?」


 彼はやっとほくそ笑む。どこか険のとれた安堵に包まれた微笑だった。

 彼は自室をまた散策し、ワインとグラスを机に置いた。


「さあ座りたまえ友人。芸術に乾杯」


 君に完敗、と僕は心の中で言う。


「ああ、乾杯」


 それから僕らはくだらない談笑をした。

 僕は彼に問いかける。


「アルコールは脳に悪い。君は創作に熱心だからこういうのはやらないと思ってたんだけど」

「いいや、アルコールは想像力の起爆剤になりうる。歪んでおかしな視界から見た世界が芸術的な観点を覗ける。そうだろう?」

「おおそれっぽい。で、実際は?」

「おもしろいから飲んでる」

「さすが芸術的な文化人だ」


 芸術的な文化人、という適当ワードを彼は噛みしめるように繰り返す。ワインを乗せた舌にはそのあやふやな言葉がうまく乗りこめているのではないか、僕は思った。


 酔ってダメになった頭で考える。芸術は最高なのだと。創作が誰かを救うこともある。自分の作品はカスだが、他人の創作物を見るとこの世に生まれてきてよかった、と思うことがある。

 多かれ少なかれ、創作者は創作という文化的行為を愛している。そういった定義を信仰している者さえもいる。

 酔ってダメになった頭で考える。妄想こそパワーだと。自分の創作物に関する活動に意味のない意味を込めることがある。妄執と信仰を糧にして、くだらない言葉遊びや自分の活動を正当化する。アルコール万歳。酒も心もウイスキー。アルコールを脳に注入して、いつもと違った世界を僕は覗く。僕だけが見ている歪んだ世界から、自分だけが得られる発想がある。でもそれは妄想だ。正しさなんて一欠片もない。でも誰よりも僕自身が意味あることだと信じてる。そうやって騙し騙し自分に自己暗示をかけ、複雑に入り組んだ迷路のような至高の果てに、自分だけの傑作が生まれる。


「ちくしょー!」と僕は叫ぶ。


「なにが名作だ! 傑作だ! 大衆に媚びるじゃねえ! 創作ってのは……心で作ってんだ! 自分だけがわかってればいいんだよ! 評価なんて運だよ運! ラッキーが付いてきて作品が評価されてるだけなんだよ! それが一番いい創作なんだよ! なんだよ、あのくだらない恋愛漫画! 大衆に媚びてヒロインを多く出すんじゃねえ! 胸元は閉じろ! ハーレムにするんじゃねえええええ!」

「ど、どうした友人」

「なあ僕悔しいよ」

「どうした? ちょっとめんどくさいぞ?」

「ちょっと?」

「はは。訂正する。だいぶめんざくさい」


 僕は彼を殴りつけた。ワインが彼の頭にかかり、色褪せた頭髪が少し明るい色になったので僕は笑った。

 彼は笑顔で僕を殴りつけた。二回も! 二倍も! 僕は心が広いのですべてを優しく受け入れた。もはや精神は神の器に達しているのかもしれない。


「それでさあ~」

「貴殿は殴り合いが発生したのに普通に話を続けるのだな」


 僕は彼の言葉を無視した。


「あああ! お前の作品めちゃくちゃいいと思っちゃうんだよな。気持ち悪いもんこの怪物。媚が見当たらないよ媚が! ずっと自分が信じ続けてきた作品だって感じがする。そこがいいんだよな」

「つまり?」

「愛してるぜってことだよ」


 彼はにやらと笑った。鼻血を垂らしながら自分の作品の解説を始めている。早口なこともあって少しうざい。


 彼はくだらないと言いつつも絵の技法について解説をやれ前景だの後景だの。中心に注目すべき部位を持ってくるだのなんだの。怪物の血の涙には純粋色(クロマ)を使っており、黒を基調とした体の中に描かれているから眩い光の赤のように見えるだのどうだの。後景に配置された澄んだ青に目を奪われるのではなく、赤の純粋色を見て感性を動かすべきだの……まあ技法に関してはなんとなく僕もわかるが、作品自体がいいと直感で思うのでそこらへんはどうでもいい。


「成功してえええ!」と僕は怒鳴る。


 彼は困ったように笑った。


「貴殿の小説、読ませてもらったが私はなかなか好きだぞ? 理解されない葛藤のあたりとか。まあわからない奴にはわからないだろうが、わかる奴には響くだろう」

「うるせえんだよ! そういう薄っぺらい傷の舐め合いみたいな賞賛が僕は一番嫌いなんだよ!」

「いや……舐め合いか? 私の方は世間的な評価は高いが……」

「上から見下すんじゃねえ!」


 僕は彼の腹を殴った。彼の口元からワインが飛び散る。吐瀉物からは青春の味がした。

 彼が叫んだ。


「暴力はやめてくれ! 文化的な解決をしろ!」

「文化的な拳だろうがああああ」

「駄目だ、言葉が通じない獣だ。これが怪物か」


 彼は静かにうなづくと僕を殴りつけた。怪物と呼ばれて気持ちがいい。


 それからのことはあまり覚えていない。

 僕は朝日を感じて、震えながら目を覚ました。彼の部屋の廊下に身を投げ出しているような形だ。


『絶縁状』


 そう書かれた紙が僕の身体の近くに落ちていた。


 僕は静かに彼の部屋をノックした。


「あの……ごめん」

「……」

「酔っぱらってて、あの時はほんとに僕、どうかしてて……」

「顔も見たくない。帰ってくれ」


 僕はなぜだか溢れてくる涙をぬぐいながら、すごすごと帰った。

 なにかを大切なものを失った、しょっぱい味がした。


 一週間後にようやく仲直りができた。


 ◇


 それから半年後、彼は軍の部隊に配属されることが決まった。強力な召喚体になれる有望株だ。

 男らしく見送るって決めたのに、いざその時がなると女々しいことを言ってしまう。


「なあ、僕らって友人だよな」

「あの日貴殿は私をめちゃくちゃ殴ってきたけどな」

「記憶にないな」


 きっと彼はアルコールで脳が完全に破壊されてしまったのだろう。アルコールは事実と異なった夢を見せることがある。常識だ。

 僕は彼に言った。


「お前は世の中に絶望してたみたいだけどさ、そんなにこの世の中は悪いものだったか? 頑張ってきた成果、世間に認められたじゃん。そんなに悪くない気持ちだったろ?」

「まあ……そうだな」


 彼は黄昏たような遠い目をしていた。

 そうかもしれない、と彼は言う。


「私は……過去の不幸を嘆きすぎたのかもしれない。気づけば多くの物が手に入っていた。頭がおかしくなっていく感覚を味わいつつも、なんだかんだ娯楽の消費は楽しかった。貴殿という友人と共に批判交じりの語らいをするのも、そう悪くはなかった」

「おいおい。別れの言葉がそれでいいのか? 泣いちゃうだろ?」

「それで、目から流れるのはアルコールか?」


 彼の冗談に、僕はニヤッと笑った。


「アルコールの怪物だって塩分の籠った涙を流すさ」

「そうだな……どんな怪物だって、脳が多少でも残っていたのなら、涙を流すこともあるだろう」


 そう言って彼は軍に出向していった。

 国の情勢は最悪だった。僕らの国は他国に押されていた。早々に切り札である友人の召喚魔法は発動された。圧倒的な戦果と戦渦を上げた。敵も味方も全部死んだ。


 誰にも縛られることのなくなった怪物は国土を蹂躙した。炎と雷。夥しい魔力を携えて、翼もないのに空を飛ぶ。

 黒の不気味な怪物は、飛翔と共に輝かしい赤の血をその身からまき散らし、果てない進撃を続ける。穢れた体をはためかせ、角は折れて短くなっていき、血は量を減らしていく。羊の頭は悪魔そのもので、黄色と黒の目がぎょろりと異様に光る。体の皮膚は画用紙にぐちゃぐちゃにボールペンで書いた黒の線で埋め尽くされているみたいになっている。その歪な体に輝く赤色が力を胎動するように脈打っている。足は指の形が不鮮明で生物として必要な形をしていない。


 手綱の外れた怪物は、国によって討伐命令が出された。僕はその隊のリーダーとなった。


 最後の時、僕は彼と対峙する。遥か後方では魔力の詠唱が始まっている。時間稼ぎと隊に告げ、僕は怪物と向き合う。


「よっ、久しぶり」


 ――!


 つんざく咆哮が木霊する。

 絶望、悲嘆、諦念、怨嗟、失望、辛苦、渇き。

 ありとあらゆる負の感情が咆哮に乗せられて、僕の鼓膜を揺らした。


「苦しかったか? 脳、少しは残すって言ってたもんな」


 雨あられと魔法が飛来する。炎弾があたりを焦がし、夥しいほどの雷の筋が僕の肌を焼く。しかしどれも僕を掠めていくだけだった。僕は血を流し、皮膚は爛れ、しかしなお生きている。どれも直撃しない魔法の波状攻撃は、彼のわずかに残った脳みそによる抵抗に思えた。


 ――苦しそうだ。


 どうなるのだろう。僕にはわからない。ただ信じたいだけだ。彼にはわずかに理性が残っていて、僕のことを覚えていて、ぎりぎりで魔法を当てないように抵抗している。何の根拠もない妄想だ。


「まあもうお前もそろそろ限界だろう。休んでいいんだ。その体に流れる血も涙もそろそろ尽きる。そんな頃合いだと思うんだ」


 僕は両手を広げながら怪物に歩み寄っていく。魔法の雨は止まない。僕はなんとかして背中の荷物だけは守った。


「お前が軍に行ってから、ずっとお前の絵を眺めてたんだ。それで思い出したんだ。お前、その体表に浮かぶ眩い血のことを『血涙』って言ったんだ。最初はさ、血管が浮いているだけだだと思ったんだ。……なんでそれが涙なんだろうな」


 芸術は自己解釈で作られる。空は赤く描いていい。自分の画用紙に描かれた世界の法則は、自分がすべて決めていい。

 雨は下から上へと上がる。月は複数ある。物理法則もなにもかも、絵の中では好きに変えていい。

 光の加減がどうやったって映っているものにこんな当たり方はしない。右も左も照らされてのはおかしい。野原の自然な絵を描いているのに、ここには一部一部照明でも仕掛けてるのか? そういう矛盾した絵でも、自分が意図を持ってそう描いたならそれでいい。


「お前の体で光っている赤は、お前にとっての涙なんだな」


 苦しかったのだろうか? 悲しかったのだろうか? どうだろう。これを考えても妄想にしかならない。真実などどこにもない。


 攻撃が当たらないのを訝しがる怪物は、身を低くして僕を威嚇する。僕は立ち止まって、荷物をほどいた。

 中から出てきたのはバイオリン。ぼろぼろの身体で、僕は弦を握る。


「僕さ、もうお前が力尽きる寸前だってなんとなくわかってたんだ。それで……笑ってくれよ。お前の最期に立ち会ってやりたくて、なにかしてやりたくて……音楽なんかを必死に練習してたんたぜ? 僕の専攻は小説だけど、これじゃあお前に読ませてやれないなって思ってさ」


 彼は貴族で、バイオリンが好きだった。彼の感性は最悪で、音楽というものを全く理解していなかった。聞いていると眠たくなるから好きなのだと、彼は笑っていた。


「聴けよ、怪物」


 僕は演奏を始める。指先に神経を集中させ、頭の中にある楽譜を丁寧になぞっていく。

 ああ嫌だ。音は最悪だ。耳障りで聞くに堪えない。弦がうまくこすれなくて、音にもならない音が演奏の中を飛び交う。かといって力みすぎれば音は甲高くなり、音調はがくがくだ。


 それでも僕は必死に弾いた。彼のために。


 魔法はその精神と深い関係がある。召喚体を正確に召喚したいのならば、召喚したい姿を絵に描き続けて頭の中の怪物をくっきりとさせる必要がある。火球を発動させたいのならその細部までを画用紙に描く。文章で熱や速度を描写する。そうやって自分が発現したい魔法について考え、芸術を通して反復し、強化していく。


 僕はこの音楽が彼の心に届きますようにってひたすら祈りながら練習した。怪物の体が剥がれ落ち、その体から彼の元の肉体が出てくるようにって。


 ――そんな魔法は存在しない。


 でも僕は妄想し続けた。僕の音楽が彼に届き、彼に伝わる様にって。音楽で人の傷を癒す魔法はあるけれど、召喚体になったものを元に戻す魔法なんて存在しない。才能のない僕に新しい魔法なんて生み出せるわけもない。だが……ひたすらに祈った。


 怪物が喉音を立てる。それはどこか眠そうな、なぜだか懐かしくなるような音で。


 僕はヘタクソな演奏を続ける。やがて戦火に巻き込まれた弦は切れ、力を失った僕の腕はだらりと下がり、バイオリンは焦げ付いた地表に投げ出される。


 怪物が唸り声を立てている。僕は膝をついた。

 涙がぽつぽつと自身の膝を濡らす。


「ごめん、ごめんな……僕、才能ないんだ……! 必死に練習したけど、まともな演奏なんてできなかった……。ごめんな、ごめんな。なんにもしてやれなくて……」


 地面に転がったバイオリンが怪物に踏みつぶされる。ひしゃげて壊れ、ばらばらに。まるで僕の演奏がガラクタだったとことを示しているみたいだ。


 怪物の吐息が僕の顔に当たる。穢れた体からまき散らされる血が、僕の頭をだくだくと濡らす。自分の頭のてっぺんから頬を伝って怪物の液体が流れ落ちる。


 ――赤色じゃない。


 それは透明に澄んだ色だった。

 信じられないものを見て、僕は頭を上げた。怪物の胸のあたりから、彼の顔だけが浮かんでいる。その皮膚はいまだに画用紙に描き殴られたボールペンの線みたいにぐちゃぐちゃで、彼の顔は黒い怪物の体から不気味に浮かんでいるままだった。

 彼の口が静かに動く。なにも音は聞こえない――。


 僕は涙を流した。


 僕は演奏の練習の途中、祈り続けた。少しでも彼を楽にしてやれるようにって。でも、まともな人間となって蘇るなんて妄想は全くしなかった。なぜなら創作には妥当性というものがある。決して救われない状況に陥ったものが奇跡の力で救われるなんて、観衆は納得しない。物語には一般的にうなづける妥当性が必要で、すべてをハッピーエンドに持っていくデウスエクスマキナなんてものを適当に登場させたら、その創作は駄作になる。そうじゃないという人もいるかもしれない。でも、他ならぬ僕の創作に対する信念が、軽々しいハッピーエンドなんてありえないと叫んでしまっていた。


 だから、彼は完全に救われることなんてありえない。元の人間に戻ることもない。彼の口は動いても、僕に音を伝えられない。


 怪物の体がぼろぼろと崩れ去っていく。黒いケシカスみたいな塵になる。怪物の姿はすっかり消えていた。

 僕は塵を握りしめる。


「なあ、僕にはわからない。わからないんだ。僕はお前の最期に、なにかしてやれたのかな」


 彼の顔は現れた。でもそれは彼だったのだろうか? 僕のできそこないな、彼のためだけの魔法が、彼にどう影響を与えたのかはわからない。


 僕は近くにあった弦へしおって投げ捨てた。


「どうせお前のためだけに練習したんだ。もう二度と楽器を握ることなんてないさ」


 真実なんてなにもわからない。

 でも僕は信じる。妄想をする。

 彼に少しだけ、僕の演奏は届いた。きっと、きっと――。


 ずっと、妄想は自分の作品を強化するために自己暗示に過ぎなかった。

 でも――。

 ただ、この時だけは、彼のために、彼の魂が少しでも救われていますようにって、純粋に祈った。

 彼が最後に流した涙は、人間の涙でありますように。


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