私、泣き寝入りはしたくない主義ですの
あちらこちらでさざ波が起こる様に囁き声が聞こえる。
「軽く触っただけ?」「男の胸って……アンヌ様のどこが?」「たったそれだけで男だって決め付けられたんですの?」
「女性の胸をどんなものだと思っていたんだ?」「夢を持ちすぎたんだろうな。ククク」「もしかして、胸だと思って別の所を触ったんじゃないのか?」
女性は扇子を口元に、男性は手を口元に置いてアロイス様へ軽蔑と嘲笑の眼差しを送られている。
今、いかに軽率な思い込みで私に非道な行いをしたのか、アロイス様はご自分でハッキリと言ってしまいましたものね。
コソコソと聞こえる声にアロイス様の顔が怒りか羞恥か、真っ赤に染まる。
「教会の神官様から私は間違いなく女だったと報告もあった筈です、アングラード侯爵様は何度も謝罪に来られて多額の慰謝料も支払って下さいました。アロイス様も何度も説明されたのではないですか? なのに、なぜ」
ここで少しでも冷静になるなり、周囲の目を気にするでもすれば良かったものを、アロイス様はもう取り繕う余裕すら無いのか、口汚く私を罵って来た。
「うっ……うるさい、うるさい、うるさい! 厭味ったらしい女め! こんな事をしてただで済むと思っているのか!? そ、そうだ! ただでさえ、お前は俺に捨てられた傷モノ令嬢なんだぞ! だから哀れに思ってもう一度結婚してやると言ってやったのに、もう再婚なんて出来るなんて思うな!! はっははは、お前みたいな男を馬鹿にする可愛げの無い女なんぞ誰が欲しがるか! 年寄りの後添えですら断わられるのが目に見えている!」
「そんな事、百も承知。覚悟の上ですわよ」
「へ?」
私を蔑む恰好の的を見付けた、とばかりに勝ち誇った顔をするアロイス様的には残念でしょうが、全て覚悟の上。
この歳で、たった半月程度で離縁したような私ですわよ? それがどれ程の瑕疵になるかなんて火を見るよりも明らか。
だから……
「私はもう結婚は望んでいませんわ。生涯独り身で家を継いだ弟の手伝いをするか、修道女として一生を過ごすか。私はそう生きていくと決めておりますの。勿論、家族も了承済ですわ。アロイス様? そんな私が、なぜ嘲笑われると分かっていてわざわざ夜会に参加したとお思いですか?」
「し、知るか! そんな事……」
そうですわね、アロイス様にはお分かりになられないでしょうね。
アロイス様が夜会に来られると聞いた瞬間、書いていた夜会の招待状へのお断わりの手紙を破り捨て、変わりに捨てた招待状をゴミの中から拾い上げてまでして私は今日この夜会に参加したのですよ?
反対する両親を説得してまで。アロイス様。貴方に会う為に。
「私、泣き寝入りはしたくない主義ですの。あらぬ疑いもあらぬ疑惑も、もうウンザリ。誤解は綺麗さっぱり取り払って残りの人生をスッキリと過ごしたいじゃございませんか」
「まさか……まさか、わざと、俺を貶める為に……」
嫌だわ、貶めるだなんて人聞きの悪い。いつまでも現実を見ないアロイス様の目を覚まさせて差し上げただけなのに。
眼孔から落ちてしまいそうな程、目を見開いたアロイス様がパクパクと口を動かされて、まるで魚のよう。
私は否とも然りとも言わず、射殺さんばかりに睨んでくるアロイス様へ心の底からの笑顔を送った。
「きっ、貴様ぁ!!」
激昂したアロイス様が私に向かって腕を振り上げ、掴み掛って来た。
今まで蝶よ花よと育てられて来た私には、殴られる痛みなど想像する事すら出来ない。だけれど、この衆人環視の場で婦女子に手を上げたとなれば、ただでさえ悪くなっているアロイス様の印象は地の底にまで叩き落される事となる。
それこそ、私の望む事。その為なら殴られても構わない。
どうせこれから独り身の人生、多少顔に痣が出来ようが体に傷が残ろうが、何も困る事など無いわ。
乱暴に肩を掴まれ、アロイス様の握りしめた拳が目の端に映る。その背後から血相を変え、走って来るお父様の姿が見えたけれど、きっと間に合わない。
「キャー」という女性達の悲鳴と男性の静止の声を耳に、来るだろう衝撃に備え目をギュッと閉じた。
「なにやら面白い事をやっておるのう。これは何の余興じゃ?」




