三国志 別伝 香りたつ甄夫人の手紙と 安郷侯 曹植の慟哭 蛇足
画龍に点睛を欠けば、完成に、ほど遠く、
蛇に足を欠けば、龍に至ることは出来ない。
必要のない蛇足ではありますが、どうぞっ。
黄初7年(226年)、魏の初代皇帝曹丕、崩じる。
その後を継いだのは、甄氏を生母にもつ 皇子 曹叡であった。
さて、即位後、曹叡が最初に行った仕事は、父に処刑された母の甄氏の名誉を回復させ、文昭皇后と諡することであった。
おそらく、父に処刑された母甄氏のことが、ずっと心に引っかかっていたと思われる。
父 曹丕は、どもり症の気があった曹叡のことををあまり好んでいなかったため、徐姫という夫人との間の子である曹礼を後継ぎにしたいと考えていたと言われる。
そのため、曹叡は、なかなか後継ぎに 指名されなかった。
しかし、その曹丕の考えを変える出来事があった。
かの有名な鹿狩りの物語である。
史書『魏末伝』によると、ある日、曹叡は、父 曹丕の供として、狩猟に出かけたという。
そこで、子鹿を連れた、親子鹿に出会ったのだ。
曹丕は、その母鹿を自らの弓で射すると、みごとに一射でそれを仕留める。
そうして、曹叡に、その子鹿を射るようにうながした。
曹叡は、さっと弓を振ると、子鹿は、それを見て茂みの中へと逃げ込んでしまう。
「なんと叡よ。逃がすとは、何事か。」
曹丕に叱責された彼は、訥々とした口調で、こう答えたという。
「父は、既にその母鹿を殺してしまわれました。この上、子鹿までを殺すことは、私にはできません。」
眼に涙を浮かべた曹叡を見て、曹丕は、弓矢を放り出し、馬を返したという。
この狩場の出来事で、彼の能力を見直したという面も、あったのだろう。
自らの死期を悟った皇帝 曹丕は、曹叡を太子に指名し、司馬懿や曹真ら重臣に、その後見を託したのであった。
さて、魏の2代皇帝 曹叡の最初の皇后を毛皇后という。
曹叡が、平原王に任じられたころ側室となった彼女は、大きな寵愛を受け、本妻の虞氏を押しのけ、曹叡が皇帝に即位した翌年の227年には、皇后の位につくこととなる。
しかし、その栄華は短く、10年後には、破綻を迎えることとなる。
新たに、彼の寵愛を受ける女性が現れたのだ。
郭氏である。※2
景初元年(237年)、曹叡は、皇妃らを召して宴を開いたが、毛皇后だけには 知らせなかった。
彼女を招くことで、郭氏が悋気を起こすことを恐れたのである。
しかし、それは、毛皇后にとって面白い話では無かった。
「昨日、遊宴す。それ楽しからんや。」
曹叡に向かって、ボソリと、嫌みを呟いたのだ。
曹叡、毛皇后に死を賜う。
なんという歴史の皮肉であろう。
「毛氏が曹叡に対して、不満を口にして、恨み言を述べた」として、曹叡は、彼女の罪を問うたのである。
この出来事、天にいる曹丕と甄氏は、どのように見ただろう。
こうして、彼は、かつて恨み言を理由に母を殺め、別人ではあるが、同姓の郭氏を皇后にたてるという、父 曹丕がたどった道をなぞることとなるのであった。
さて、話は変わって、曹植である。
気持ちが通じ合っていたかどうかはさておき、曹丕の在任中、彼が政治的に重用されることはなかった。
どうやら、魏帝国の特徴として、皇帝は、その兄弟に軍事的力や政治的な力を与えようとしない傾向があるようだ。
曹丕に対して、政治的登用を訴える手紙を出すものの、安郷侯から鄄城侯へ。鄄城侯から雍丘王へと、片田舎に転封されるばかり。
しかし、兄 曹丕とは、家族として、兄弟として、心が通っていたのかもしれないことが推測できる記録が残っている。
というのも、兄の子である曹叡の治世になると、中央に送る手紙が、政治的登用を訴えるモノから、親族としての交流を訴えるものへと変化しているのだ。
これは、登用より、最低限の家族としての繋がりを願う・・・というくらい気持ちが通じ合わなくなったと、見て取れるのではないか。
しかし、哀しい皮肉の効いた話である。
兄 曹丕とは、政治的に重用されぬが、心は通っていたかもしれない。
しかし、その子 曹叡には、政治的に重用されぬばかりか、親族としての交わりすら、拒否されてしたと考えられるのだから。
そうして、彼を拒否する曹叡は、恋焦がれたあの女性、甄氏の実の息子なのである。
最終的に曹植は、これも片田舎である陳の地に転封される。
そうして、太和6年(232年)、汲汲として歓びなく、遂に病を発して死去したと記録される。
享年 41。
兄より1年だけ、長く生きることとなったわけであるが、その後半生は、鬱々としたものであったと思われる。
さて、先ほど、「どうやら、魏帝国の特徴として、皇帝は、その兄弟に軍事的力や政治的な力を与えようとしない傾向があるようだ。」と述べたが、この曹丕・曹叡の方向性は、この帝国の存続に致命的な欠陥を与えることとなる。
それは、大きな力を持った重臣の謀反を防ぐことが、難しくなる事実であった。
初代皇帝の曹丕、そして2代目である曹叡のように、秀でた帝を推戴する間はいいのだが、君主の能力が劣る時に、文字通り、この欠陥が、致命的なものとなる。
正始10年(249年)、閑職に押しやられていた魏の重臣 司馬懿が、クーデターを起こし、国の実権を握ることとなる。
曹家に連なる実力者 曹爽の一族郎党皆殺しにし、楚王 曹彪と、彼を擁立する王淩らを自害に追い込むと、曹姓を持つ魏の皇族を、旧都の鄴に軟禁し、互いに連絡を取れないようにしたのだ。
歴史の皮肉は、ここにも表れており、この時、司馬懿の後見役として錦の旗として働いたのが、明元皇后 郭氏・・・曹叡が、毛皇后に死を賜わった後にたてた2番目の皇后であった。
後世の歴史家のいうところには、「地方で軍事力を持った曹姓を持つ一族が、王侯として何人か存在していれば、その牽制により司馬懿の専制は、防げたのではないか。」とある所から見ると、もし、曹植の政治的登用があったならば・・・と思いたくもなるものである。
しかし、権力は、司馬懿から、その長男 司馬師へ、そして次男の 司馬昭へと、順に受け継がれる。
漢帝国で魏王に任じられた曹操と同じにように、司馬昭も、魏帝国で晋王と任じられ、時は、司馬昭の子の代を迎える。
その子の名は、司馬炎。字は、安世という。
「寛恵にして仁厚、沈深にして度量あり」と評される貴公子。
彼がたどったのは、曹丕の歩んだ道と同じであった。
禅譲である。
形だけとなった魏帝国から帝位を受け継がねばならないのだ。
咸熙2年(265年)、少し強引ではあったが、彼は、曹丕の例にならって、皇帝 曹奐に禅譲を迫り、その座を奪った。
晋帝国の始まりである。
司馬炎は、魏の失敗を繰り返すことを恐れたようだ。
即位の翌年、彼は、一族の27人を各地の王に封じ、土地と兵力を与えることとなる。
片田舎の小領地に押し込められた曹植の扱いと比べると、格段の差。
魏帝国が、皇族に力と土地を与えず、皇族の力が弱かったことが、司馬懿の増長を助け、その滅亡の原因となったと考えたのだ。
そうして、晋は、三国時代に終止符を打ち、中国全土を統一した。
しかし、その統一による平和は、わずか数十年で崩れ去ることとなる。
塞翁が馬とは、よく言ったものだ。
曹丕らを反面教師に、司馬炎が、各地の皇族に軍権を与えた事が、乱を招くきっかけとなったのである。
司馬炎の後を継いだ2代皇帝 司馬衷の妻 賈南風 は、策謀を好む人物で、荊州にいる楚王司馬瑋を呼び寄せて宮廷クーデターを決行する。
ここに、汝南王 司馬亮が乗り込み、賈南風と対立。
賈南風は、楚王 司馬瑋をうまく使って、汝南王 司馬亮をのぞくも、策謀好きな一面を出し、仲間だった楚王 司馬瑋に謀反の罪をかぶせて処刑。
その後も、皇太子 司馬遹を処刑するなど、賈南風の専制が続いたため、趙王 司馬倫が、賈南風を自害に追い込み賈氏一族を処刑する・・・。
ところが、権力を握った趙王 司馬倫は、帝位を簒奪。
それに対して、斉王 司馬冏、成都王 司馬穎、河間王 司馬顒が、挙兵し、司馬倫を殺害・・・。
そう、今度は、各地に散らばった司馬姓の王によって、戦争が続く世に逆戻りしてしまったのである。
この「八王の乱」と呼ばれる争いは、万里の長城の向こう側、北方の匈奴や、チベット方面の氐族や羌族など、野心を持った騎馬民族の流入を招くこととなる。
304年には、匈奴の劉淵が前趙帝国を起こし、晋と並立するなど、中国全土を巻き込む内乱へと拡大。
317年には、晋は滅亡。
時代は、五胡十六国とよばれる中国華北の分立興亡の時代に突入するのであった。
こうして一度は、統一されたかに見えた中国は、再び分裂し、戦乱の時代へと向かう。
再びの統一は、北周の隨国公 楊堅が起こす隋の建国を待たねばならなかった。
さて、この物語の最大テーマは、手紙であったからして、その最後も1通の手紙の話で締めることにしよう。
隋帝国の第2代皇帝を煬帝という。
その皇帝のもとに、東国から1通の手紙を持った異民族が、朝貢に訪れた。
隋書 第81巻 列伝46 東夷傳俀國傳 に云ところでは、
日出づる処の天子が、手紙を日没する処の天子に送る。
つつが無きや、うんぬん・・・
との書き出しで始まるこの手紙に、煬帝は、激怒。
「このような無礼な蛮夷の手紙は、今後自分に見せるな。」
と言って、外務官 鴻臚卿を叱責したとされる。
時は、607年(推古15年)。
曹丕が甄氏に賜死を命してから、386年後のことであった。
蛇足1.郭氏※2 姓が同じだと紛らわしくて困ります。
ここでの郭氏は、曹叡(明帝)の2番目の皇后(明元皇后)。
曹丕(文帝)の皇后の郭氏(文徳皇后)とは別人
蛇足2.木→火→土→金→水 の徳が、分かりにくい。
中国王朝の交替は、「血」ではなく「徳」によって定義されます。
「徳」が連続している間は、「非血縁者」による相続であっても、
王朝が変わったとみなしません。
「徳」が断絶した場合は、「血」が継続していても違う王朝です。
蕭道成の南朝「斉帝国」と、蕭衍の南朝「梁帝国」は、同姓で
血脈も近い後継王朝ですが、「徳」が断絶したとみなすため、
王朝の名前が変わります。
そして、その徳が、木→火→土→金→水の順番で遷移すると
考えられているのです。