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三国志 別伝 香りたつ甄夫人の手紙と 安郷侯 曹植の慟哭 前編

曹丕の手にしたその絹からは、水仙の花に似た匂いがした。


絹に、霊仙香が焚き込められているのである。


この布は、後宮監者である毋煕とその部下が、忍んで離宮から出ようとする女官を捕らえ、没収したもの・・・。


そっと絹を撫でると、その黒々とした墨の文字を眺める。



 魏王薨御 - 宓 ※



この筆跡・・・確かに、彼女の手によるものである。


曹丕の口から、小さなため息が漏れた。



時は、建安25年(220年)。


この年の3月、魏王、そして曹丕の父である曹操が、死去した。


魏王曹操の死は、何事にも先置いて、秘するべき国家の大事である。


送り主は、宮殿の外の何者かへと知らせるため、それを絹に書き記し 信頼に足る女官に持たせて、脱出を試みたというわけであろう。



絹に書かれた手紙の差出人は、甄夫人、名は、宓 ※。



曹丕の愛する妻である。


彼女が、「誰に」絹に記した4文字の手紙を届けようとしたか? ということは、曹丕にとって頭を悩ませることなく明白なことであった。


というのも、曹丕も、同じ相手に、同じ文面で・・・便りを ・・・密使を送っていたからである。



 魏王薨御 - 丕



その4つの漢字の上には、しっかりと『 植へ 』という文字が太い墨字で力強く書かれていた。


植・・・そう、弟 曹植へ 父の死を知らせる手紙であった。


父の生前、曹植と曹丕・・・ いや、彼らの側近たちは、曹操の跡目を狙う後継争いで激しい権力闘争を行っていた。


自らを支え、後援する家臣団の争いは、自然とこの兄弟の間を不通のものとした。


しかし、曹丕にとって、曹植はあくまで愛すべき弟であった。


いま、曹丕と曹植の立場は、明確である。


曹操自身が、3年ほど前に曹丕をその後継者と指名しており、彼は、都に鎮座している。


対して、曹植は地方・・・片田舎である臨淄へと転封されている。


もちろん、特別な軍隊なども従えていない。


これをひっくり返すような奇手を持つ者など、この世には存在しないであろう。


となると、次に起こる可能性があるのは、権力闘争に負けた曹植を害するため、曹丕の家臣たちが、罪をでっちあげ、処罰するよう仕向けることである。


魏王曹操の死は、そのきっかけ・・・引き金を ひきかねない 重大な事件だ。


曹丕は、父の存命中から、曹植が自身を守れるよう そっとその死を伝えてやる心づもりであった。


夫婦は、似るものであるらしい。


どうやら、妻の甄夫人も、同じことを考えていたようだ。


手からするりとすり抜けた絹が、パサリと床に落ちる。


サッと手を伸ばし、それを拾い上げると、霊仙香の匂いが一面に広がった。



ふっと、昔を思い出す。



あれは、建安9年(204年)。


華北の袁紹の3男である袁尚が、長男の袁譚を攻撃した際のことだ。


曹操は、その隙を衝いて、袁家の本拠地である鄴城を包囲した。


この鄴城に残っていたのが、袁紹の次男 袁煕の妻、甄氏である。


曹丕は、家臣団が追い付けぬほどの勢いで城門を通り抜け、玉肌花貌、仙姿玉質と称されたその美貌の女性の部屋へ 刀を帯びたまま 飛び込んだ。


水仙の花・・・霊仙香の匂いが、部屋の奥・・・ その女性の閨から漂ってくる。


その香りに惹かれるように 吸い寄せられた曹丕は、そのまま女を攫い、自分の妻とした。


甄夫人の誕生である。


絹から漂う霊仙香の匂いが、あの時の甄氏の身体の匂いにすり替わる。


香りの記憶は、彼を17歳の曹丕へと変え、そうして、甄氏はあの時のまま彼の腕の中で小さく儚い声をあげた。



絹を抱いたままどのくらいの時間が経ったであろう。



ただ独り 香の匂いが立ち込めるその部屋で、曹丕は立ちすくしていた。


しかし、あの時に戻ることはもう出来ない。


あろうことか、後宮監者である毋煕は、廷尉(刑罰を司る官)にこの絹の手紙を持ち込み、その後、曹丕の元へと報告があがってきたのだ。


彼女の罪をもみ消すことは、おそらく難しいであろう。


霊仙香は、甄氏のみが使うことが出来る特別な香。


彼女が絹に香を焚き込めたのは、この布が、間違いなく甄氏が出した手紙であると曹植が判断できるようにという理由であろうが、今は、その手紙に焚き込めた香の匂いこそ、彼女が罪を犯した証拠として廷尉の元に記録されてしまっている。


せめて、弟 曹植だけでも・・・。


手元に置かれた呼び鈴をチリンと鳴らす。


「郭を呼べっ。」


衣の擦れる音すらたてずに現れた その宦官に対して、曹丕は、郭氏・・・自身の2番目の妻を呼ぶように命じた。


後宮から、殿中に呼び出されることは、珍しい。


郭氏は、その側仕えの侍女を従え、曹丕の前にひざまづいた。


「ここから出よ。郭だけでよいっ。」


郭氏が、その部屋へと入るなり、曹丕は、先ほどの宦官を含め、郭氏付きの側仕えをも その部屋から出るように命じた。


人払い・・・ 異例のことである。


後宮ではなく、政治を行う殿中で 余人を排して 自らの第二夫人と 話をするのであるから。


さて、それから、曹丕は、何を話したか・・・。


漏れ伝わる所によると、後宮へと戻る 郭氏の顔は 真っ青で、震える足は、侍女に支えてもらわねば、今にも倒れてしまいそうなほどであったと言われる。


それから7日ばかり後、家臣の間では、喪を秘すべきとの声もあった魏王曹操の死は、曹丕の鶴の一声で、公表された。


曹操の遺体は 「服す期間は短くし、墓に 副葬品・・・ 金銀を入れることを許さず」という生前の遺言通り、河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村のはずれの土地に作られた740平方メートルほどの陵墓に、石牌などの埋葬品とともに埋められた。


曹丕は、そのまま混乱もなく、魏王を襲位。


しかし、彼には、大切な仕事が残っていた。


前後あわせて400年続いた漢帝国も、すでに形だけになっている。


曹丕は、漢帝国から帝位を受け継がねばならなかったのだ。


その年の10月のこと。


曹丕は、辛毗や賈逵らに働きかけさせ、後漢 最後の皇帝 劉協に対して、帝位の禅譲を迫ることとなる。


皇帝 劉協は、帝位を譲る旨を2度 曹丕に対して伝えるも、彼はそれを2度とも断った。


そうして、3度目の使いをもって、これを受けることとなる。


要するに、小芝居である。


中国神話に登場する君主、堯が舜に禅譲する際の故事を真似たのだ。


そうして元号は、延康から黄初に変わり、ここに新たに魏帝国初代皇帝 曹丕が誕生した。


さて、皇帝といえば、天下でただ一人の絶対権力を持つ者である。


しかしながら、それは自分の行いたいことを思うようにできる存在というわけではない。


皇帝になって彼が行った初めての仕事は、つらいものであった。


第一夫人、甄氏の処罰である。


もう一人の妻、郭氏より 「甄氏が曹丕に対して、不満を口にして恨み言を述べていた」と 申し立てがあったとして、彼女を裁きにかけたのである。


魏王薨御 の4文字が記された あの布については、一切 言及されなかった。


いわれない問責に不満を示した甄氏であったが、曹丕がその手に持つ1枚の絹・・・ 甄氏が自らの衣服に焚き込める香と同じの匂いのするそれを示した瞬間、その口をつぐみ、大人しくその処分・・・ 死を賜う璽書を 受け入れたという。


こうして、黄初2年(221年)8月、彼女は、冀州鄴城にて服毒し、葬られることとなった。


その日、曹丕の部屋をひそかに覗くことができるならば、見ることが出来たかもしれない。


「すまぬ。宓 ※よ。植を守るには、そなたに死を与えるしか方法が無かったのだ。」


こう言って、水仙の花の匂いのする1枚の絹を抱いたまま、泣き崩れる哀れな皇帝の姿を・・・。


それから6年間、曹丕は帝位に座り、早世することとなる。


享年40。


彼の陵墓には、大量の水仙の花が副葬品として埋められたといわれている。

→まだ1文字も書いていない 後編 へ 続くっ!・・・予定


宓 ※ ウかんむりに必 環境依存文字

読み ビツ ミチ ヒツ フク ブク

意味 やすらか ひそか しずか


なお、このお話は、アホリアSS様の「秋の歴史2022」・・・企画という形はとらない「お手紙に『香り』をつけてみませんか」企画に、無断でぴょんっと参加してとして書いてみたものです。

条件

・題名に匂いに関係のある文字を加える

・キーワードに『文香』をいれる

・小説内に、香りつきの手紙を登場させる

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