二
もしそれを教練場と呼ぶなら、この辺りの領民達は皆教練場を有していることになる。それほどまでにギルドの教練場は質素だった。
地面にこそ二十人程度が楽に移動できるほどの大きな円が描かれているものの、それ以外は何もなく、ただギルドの庭先に過ぎないのではと錯覚してしまっても仕方ない。
しかしよく見れば円の中の地面は不自然に隆起したり陥没したりしている。
また、円の外には細長い木箱が置かれており、その中に訓練用の武器が整然と並べられている。
実戦的な部分を残しつつも身体の動かし方や武器の扱い方を学べるこの教練場は、冒険者になりたての頃なら必ず一度はお世話になる場所だった。
その教練場にセドリックの姿があった。
彼は自身の相棒である戦斧を構えると、腰を割ってゆっくりと素振りする。そうやって身体をほぐすと今度は型をさらい始めた。
上段からの振りかぶりに左下からの袈裟斬り。横薙ぎの次は突き出し。
それがどこかの流派のものなのか、それとも我流なのかをカサンドラは知らなかった。
セドリックは自分の生い立ちを決して語らない男だった。
ただ、流麗に戦斧を振るうセドリックの姿がカサンドラの目には輝いて映る。まるで初めて手にしたおもちゃに夢中になる子供のように、カサンドラはセドリックの自主訓練をいつまでも飽きずに見つめていた。
しばらくするとセドリックの動きがゆっくりとなる。疲労による緩慢さではなく、極限まで自身を律した速度だった。
そして彼の身体から一種の緊張がかき消えたかと思うと、いきなり振り返るや否やずんずんと歩き出し、ずっと物陰から覗き見ていたカサンドラの頭に拳骨を落とした。
「痛ーーーっ!」
迷いのないその一撃にカサンドラは頭を押さえてうずくまる。そんな彼女に呆れ返りつつもセドリックはぶっきらぼうに告げる。
「見せ物じゃねえんだ。とっとと帰れ」
「いきなり殴るとかあり得ないんだけど」
その痛さに涙目を浮かべつつもカサンドラは持ち前の運動神経を発揮して、屈んだまま身体をくるりと反転させると、そのままセドリックの左足の脛を後ろ蹴りにする。だが、セドリックは事もなげに足を上げてそれを躱すと、面倒くさそうに頬をかいた。
自信のあった一撃をいとも簡単に躱されたカサンドラは面白くない。苛立ちを隠すように小石を蹴り飛ばすと、教練場の奥の方まで飛んでいった。
「全く。どんだけ暇なんだよ。もう一時間は経つっていうのによ」
「え、もうそんな時間?」
カサンドラは顔を上げる。いつの間にか太陽は真上にまで来ており、酒場の方からは肉が焼ける香りがうっすらと漂ってきている。
「遊んでる暇があるなら依頼の一つでも片付けてきやがれって」
「一時間で何ができるの?」
「常設依頼があるだろう」
「前にも言ったけど、薬草集めなんてガラじゃないんだよねー」
「舐めたことをぬかしやがる」
セドリックが拳骨を振るうが、叩かれ慣れているカサンドラはひょいと頭を後ろに下げてそれを躱した。そしてニヤリと笑うと追撃をかける。
「それに私が本気を出したらおっさんが取る分なんてすぐになくなるからね」
その一言にセドリックは顔を上気させる。慌てて周りを見て誰もいないのを確認すると、小声でカサンドラに確認する。
「……何でお前が知ってるんだよ」
「いや、気付かない方がおかしいって」
どれだけ純朴なんだとカサンドラは首を横に振る。
地味な仕事だったり報酬が安過ぎたりする常設依頼は新人の仕事だとする風潮がどこのギルドでも広がっている。難易度や危険度の低さは確かに駆け出しの身にはうってつけだが、期待に胸を膨らませた新人が飛びつくものでもない。
しかし中には誰かが果たさねば立ち行かなくなるものもある。薬草採取はその代表例で、依頼主の孤児院は何かと薬草を求めている。
孤児院出身者も多いので、討伐依頼のついでに薬草を集めている冒険者はよく目にする。しかしそれでも満足のいく量を毎回納品できているわけでもなかった。
そんな薬草採取をセドリックがせっせとこなしているのをカサンドラは知っていた。ギルドの受付が開くのと同時にかご一杯の薬草を彼が納品している姿を初めて目にした時は思わず我が目を疑ったものだ。
「……誰にも言うんじゃねえぞ」
プルプルと身を震わせるセドリックにカサンドラは鼻を鳴らす。
「そんなの当たり前じゃん。私のことを何だと思ってんの」
決して手柄を吹聴せず、人の為に尽くす。そんな冒険者の鑑を軽挙な行動で穢すつもりはなかった。
余程ふくれっ面をしていたのだろうか、セドリックは申し訳なさそうに頬をかいた。
「いや、そいつは済まなかった。だがよ、お前も不意打ちを仕掛けてくるんじゃねえよ」
「戦いの場でも同じことを言えるの?」
仲直りの印に軽口を叩くカサンドラにセドリックは獰猛な笑みを浮かべる。
「こんなくちばしの黄色いガキに戦場の心得を説かれるとは思ってなかったぜ。どれ、ここは一つ戦い方についても一手ご指南頂こうか」
「いやいやいや。私は平和主義だから」
「うるせえ。さっさと訓練用の武器を取ってこい。今日という今日はみっちりしごいてやる」
「暴力は良くないって思うな」
「暴力じゃねえ。訓練だ」
カサンドラは身を翻して逃げ惑うが、その巨体に似合わない俊敏な動きで彼女の前に立ちふさがるとセドリックはニヤリと笑った。
結局逃げ切れなかったカサンドラは、教練場でセドリックの手荒い訓練を味わうことになった。
そして一時間後、酒場のカウンター席にぐったりと突っ伏しているカサンドラは、少し離れたところで雨に濡れた子犬のようにうなだれているセドリックを遠目に見ていた。
彼女の顔先には木のコップが置かれている。もちろん、その中身はぶどうジュースだ。
「言ったはずよ。もうちょっと加減してあげないとダメだって」
「……面目ねえ」
自分よりも背が高いセドリックを前にしながらも彼以上に存在感を放っているのは給仕の女性だ。今の彼女は怒れる獅子といったところで、近くを通りかかった無関係の冒険者までビクッと身を震わせるほどだった。
「あなたは馬鹿力なんだから気を付けないと。ほら、見てごらんなさいな」
「……元気そうに何か飲んでるみたいだ」
「……」
二人の視線が集中する先ではカサンドラがぶどうジュースをゴクゴクと飲み干していた。
「それはそれとして」
「何で流せるんだよ!見ただろ?アイツの間抜け面を」
「女の子にそんなこと言わないの」
そう言いながらも女性の雰囲気が柔らかくなる。それにつられてセドリックも頬を緩めた。
「絶対に相性良いって思うんだけどなあ」
木のコップを差し出しながらカサンドラはつぶやく。いつものように食器を洗っていたマスターはそこに二杯目のぶどうジュースを注いだ。
「リサにその気はないよ」
「何で?お似合いじゃん、あの二人」
カサンドラはセドリックとリサの方を見る。既に説教の時間は過ぎたようだが、まだ話は続いている。とりとめのない会話を穏やかに楽しんでいるのは傍から見ても明らかだ。
我ながらナイスアシストだと心の中で親指を上げるカサンドラの視線にセドリックは気付かない。彼の目線はリサに固定されている。
「ジロジロと見ない」
カサンドラをたしなめるとマスターは小皿をカウンターに置く。サッと盛り付けられた生ハムの切り落としにオリーブオイルが回しがけされている。
「マスターの奢り?」
「いや、見物料代わりだよ」
「うわ。ギルドの横暴だ」
「君はまず自分自身の振る舞いを振り返るべきだ」
表情を崩さないマスターが本気で言っているのかどうかカサンドラには判別がつかなかった。ただ、またセドリック達の方を見れば、リサの視線はセドリックの顔を捉えているようで実はそうでないことに気が付いた。
それを見てとったカサンドラはそっとフォークで生ハムをつついた。
◆
「今も大して変わらないけどね、あの頃はもっとひどかったのさ。昨日まで元気にしていた奴が次の日には埋葬されているなんてしょっちゅうある話だった。
リサもそのあおりを受けた一人さ。元々は恋人同士で冒険者をしていたんだが、相手はある魔物との戦いで恋人をかばって命を落とし、残された方は冒険者を辞めてギルド職員になった。
そんな過去を背負ってるから新しい一歩を踏み出そうにも中々踏み出せやしない。憎からず思ってるのはお互い様だが、あの心優しいセドリックは朴念仁ときたもんさ。いや、あの男のことだからもしかしたらリサの過去を知った上で自分の想いを隠していたのか知れないね」
老婆はコップを両手で抱えて、ゆっくりと唇を濡らす。気管に入ったのか軽くむせると、今度は忌々しそうに中身を流し込んでいく。
「お注ぎしましょうか」
自然と伸びた手は机の上の水筒を取る。老婆は軽く目を向けるとニコリと微笑んだ。
「ギルマス。あんたはやっぱり気立ての良い子だよ。恋人はいるのかい?」
「いませんよ。これでもギルマスですからね。それどころじゃないかな」
自分で言っておきながら情けなくなってくる。現役の頃はよく言い寄られたものだが、引退してからは途端に声がかからなくなった。何となくその原因に心当たりがあるが、今更どうこうしたところで意味はない。
老婆は大げさなほどゆっくりと溜息をつくと、ずっと聞き耳を立てていたギルド職員や冒険者達をぐるりと睥睨した。
「全く。旧帝都の連中ときたらどいつもこいつも情けないねえ。こんな上物をみすみす見逃すだなんて冒険者の名折れだよ」
「ちょっと。あんまりいじめないであげてください」
こんな行き遅れを迎えたいと誰が思うだろう。冒険者時代の名残で化粧はろくにしないし、服装もファッションではなく実用性重視だ。料理はできなくないが、野営で培ったものは精々焼くか炙るかくらいで家庭の味とは程遠い。そもそも彼らは部下のようなものだ。恋愛感情が上下関係より優先される確率はゼロに等しかった。
だが、老婆は鋭い目つきのまま今度は自分を見てくる。
「あんまり自分を卑下しないことだよ。良いかい?惚れた好いたに立場なんて関係ないんだ。あんたがギルマスだからどうこうじゃなくて、惚れた相手がただギルマスって仕事をしてただけなんだからね」
満たされたばかりのコップを老婆はまた口元へ運ぶ。
残り香からは仄かなアルコールが漂ってくる。自由な老婆の言葉にふと心が軽くなった。
たまにはこういうことも悪くないか。
目線で訴えかけると老婆は嬉しそうに目を細めた。そして自分の前に置かれたままだった空のコップに水筒の中身を注ぐ。
「いただきます」
いつも飲んでいる酒とそんなに変わらないはずなのに不思議なくらい美味かった。
「良い顔になったね。そうじゃなくちゃいけない」
まるで孫娘を愛でる祖母のような微笑みをたたえて老婆は心持ち身を屈めた。そして肺の中の空気を全て押し出すかのようにゆっくりと息を吐く。
細められた目から笑みが消え、物憂げな様子を見せてくる。何となく嫌な予感がした。
「もし惚れた相手がいるならしっかりと想いを伝えておきな。上手くいくかどうかは二の次だよ。何も言えないままに終わったらもう取り返しはつかないんだからね」
老婆は遠い過去のことをまた思い出そうと目を閉じる。暖炉の奥で薪が爆ぜた。
次回投稿は16日(月)の20時です。