ルルと勉強(1)
ルルとお勉強の時間。
話し合って、ルルには文字と基本的なテーブルマナー、一般的な常識、それと魔法を教えてもらうことになった。
魔法に関しては知識だけ覚える感じである。
わたしには魔力がないけれど、魔法の勉強はルルも頷いてくれた。
だが、とりあえず今日は文字の勉強だ。
わたしが文字の勉強をするということで、メルティさんがオリバーさんから勉強に使う紙やインク、本をもらってきてくれた。
リニアさんは簡単な本を何冊か持って来てくれた。
どうやらこの世界には動物の皮で作る紙と、植物で作る紙の二種類があるそうで、長期間残すための本などは動物の皮で作るためとても高価だけれど、植物の紙の方は動物の皮の紙よりも安いらしい。
それでも平民からしたら高い物だという。
……無駄にしないように使おう。
紙は読み書きの練習用で、本は文字を覚えるためには日記を書くのが良いというオリバーさんの提案だそうで、ありがたく本も使わせてもらうことにした。
……文字覚えられるかな。
ちょっと不安に思いながらも机に紙とインクとペンを用意する。
ルルが隣に座っていて、ルルの前にも同じものが置かれている。
「それじゃあ、まずは公用語の基本文字を書いていくねぇ」
ルルが紙とペンを手に取る。
「きほん文字って何?」
ルルがペン先をインク壺に浸し、紙にペンを走らせる。
サラサラと流れるように記号みたいなものが書かれていった。
「基本文字は公用語で使われる二十六の文字でぇ、この二十六個の文字を組み合わせて言葉にするんだよぉ」
……それって英語と同じじゃない?
ルルの手元を見ながら「そうなんだ」と口にしつつ、内心で英語に似ていたらどうしようと考える。
リュシエンヌとして生まれる前のわたしは、英語もそうだけど外国語が全般的に苦手だった。
不安を感じるわたしを他所にルルがペンをペン立てに戻して、紙をわたしに見せた。
「はい、これが基本文字だよぉ」
渡された紙を受け取る。
記号みたいなものが確かに二十六あった。
ルルが一つ一つ文字の読み方を教えてくれたので、頭の中でメモを取る。
本当は紙に書きたいんだけど、そもそもわたしは文字が書けないはずだし、下手に日本語で書いて聞かれても説明に困る。
うん、うん、と頷きながら話を聞いた。
「まずは真似して書いてみよっかぁ」
新しい紙を渡されて、ルルが立ち上がるとわたしの後ろに立ち、わたしの手にペンを持たせた。
そうして自分の手を重ねたまま、わたしの手を動かしてペン先をインク壺に浸し、お手本の紙を裏返して、ペン先を紙に軽く押し当てた。
ルルの手の動きに合わせてクルクルと落書きがされていく。
羽ペンの不思議な感触にわたしは感動した。
……線が引ける! インクがちゃんとつく!
「書けそぉ?」
ルルの言葉に頷く。
「やってみる」
ルルの手が離れたので、落書きした紙を元に戻してお手本の文字を見ながら一つずつ新しい紙に書いていく。
でも羽ペンって上手く書くのが難しい。
ちょっと止まったり、紙の繊維に引っかかったりすると滲んでしまうし、あんまり圧が弱いとインクが掠れてしまう。でも強いとペン先が潰れてしまうらしい。
紙の表面いっぱいを使って文字の練習をする。
紙を横向きにして、縦に同じ文字を一行書き連ねて、下まで練習したら、次の文字を同じように一行使って練習する、という方法で書いていく。
わたしが黙々と文字を書いている間、ルルは椅子に座って面白そうにわたしの手元を横から見ていた。
それで間違えると「そこ違うよぉ」と指摘してくれるので、わたしは間違った文字にバツをつけて、正しい文字を書き直す。
……形は違うけど、アルファベットに置き換えれば覚えられそう。
時々ルルに間違いを指摘されながら書いていく。
表と裏の半分くらいまでを使って全部書いた。
最後に、間違えた文字をもう一度練習する。
「ルル、どう? かけてる?」
ルルに見せると、紙を受け取って目を通していく。
裏面までしっかりと見たルルが頷いた。
「大体書けてるよぉ。でも、もうちょ〜っと全体を詰めて書いた方がいいかなぁ」
「ほら見てぇ」とお手本を並べる。
見比べるとわたしの書いた文字の方が、全体のバランスが悪い感じがした。
ルルの文字を見ると線や点などがわりと纏まっているというか、一つの文字という感じがするけれど、わたしの方は線や点の位置がかなりバラバラだ。
……そっか、ただ形を真似るだけじゃダメなんだ。
きっとこの基本文字もある程度線や点の位置が決まっていて、その通りに書く必要があるんだろう。
恐らく今わたしが書いた文字はルルから見たらガタガタで、わたしの文字の方が記号に見えるかもしれない。
「ルル、このかみのいちばん上に文字かいて。よこにいっこずつ」
「……こう?」
ルルが横向きに渡した紙の一番上に一文字ずつ横へズレながら書いてくれる。
それに頷き返し、ルルの手元を見ながら待つ。
「はい、出来たよぉ」
「ありがとう」
返された紙を受け取り、一番上のルルのお手本を見ながら、その下に真似て書いていく。
隣の文字と少し間があるので二行くらい練習出来そうだ。
羽ペンの扱いに苦しみながらもわたしは文字の練習を続けることにした。
* * * * *
紙に向かい合うリュシエンヌを、ルフェーヴルは頬杖をつきながら眺め見た。
小さな手に羽ペンは大きいらしい。
それに初めて触ったものだからか上手く書けないようで、何度も紙の繊維にペン先を引っかけてしまってはインクを滲ませたり、薄過ぎてきちんと書けなかったりしていた。
それでも文字を覚えたいのか真面目に書いている。
意外にも集中力はあるようだ。
一文字ずつ丁寧に書いている。
初めて書いた文字は、文字というより暗号みたいだったけど、よく見れば線や点の数はきちんと合っていた。
……うーん、バランスが悪いねぇ。
しかし初めて文字を書いたのなら、なかなかに上手い方なのかもしれない。
線や点の位置を間違えることはあっても、変にそれらが多かったり足りなかったりはしていない。
ペン先を何度も引っかけて、イライラするだろうに、リュシエンヌはそれを我慢して黙って書いている。
元々口数の多い子ではないが、こちらが声をかけない限りは静かに文字を綴る。
……あ、左手黒くなってるぅ。
左から文字を書いているため、右手は綺麗なのだが、書き終えた後の紙の上に左手が置かれているため、その手の平が汚れてしまっていた。
リュシエンヌはそれに気付かないほど集中しており、下手に声をかけたら、その集中が途切れてしまいそうだった。
ルフェーヴルは終わるまで見守ることにした。
時間をかけて紙の両面を文字でびっちりと埋めたリュシエンヌが顔を上げた。
「かけた!」
嬉しそうな声にルフェーヴルは頷いた。
「それじゃあ見るよぉ。でも、その前に……」
ハンカチを取り出し、詠唱を口にして少量の水を出し、ハンカチを濡らしてリュシエンヌの左手を拭う。
最初は不思議そうにしていたリュシエンヌも自分の手が汚れていることに気付いて琥珀の瞳を丸くしていた。
「はい、汚れ取れたよぉ」
「ありがとう。……よごれたの分からなかった」
「それだけ集中してたってことだねぇ」
ルフェーヴルは使い終わったハンカチを、部屋の隅に控えていたメルティへ渡し、リュシエンヌの書いた紙を受け取った。
紙いっぱいに練習された文字はまだ綺麗とは言い難いが、先ほど書いたものよりかは随分とマシになっていた。
少なくとも記号ではなくなっている。
文字として読むことは出来そうだ。
紙から顔を上げればキラキラした琥珀の瞳がルフェーヴルを見つめている。
「さっきより上手く書けてるよぉ」
感じた通りに言えば、リュシエンヌが嬉しそうに笑った。
いつもへらへらしているのが癖のルフェーヴルとは反対に、リュシエンヌは無表情や怯えた表情が多い。
だがリュシエンヌが笑うとパッと空気が明るくなるような気がする。
純粋に喜んでいるのが伝わってくる笑顔だ。
……この笑顔に弱いんだよねぇ。
本来は職業柄、特定の人物と深く関わったり親しくなったりするのは避けていたが、リュシエンヌの笑顔を見たあの瞬間から、ルフェーヴルは捕われてしまった。
あの時見た笑顔は口元だけだったけれど、それでも、柔らかな弧を描いたそれは、リュシエンヌの心底ホッとした気配が、ルフェーヴルの心に触れた。
その時からリュシエンヌが気になってしまい、構い始めると、どうにも離れ難くなってしまった。
リュシエンヌはルフェーヴルの弱点だろう。
けれども、同時にルフェーヴルの逆鱗でもある。
ドラゴンが最も触れられることを嫌い、大事にするたった一枚の鱗のような存在。
弱点が出来るなんて以前なら良しとしなかった。
だがもうリュシエンヌと出会ってしまった。
ルフェーヴルの心はリュシエンヌを唯一の存在と認めてしまった。
そしてリュシエンヌもまたルフェーヴルを他よりも深く信頼し、好きだと言ってくれる。
まだルフェーヴルは恋愛という感情を知らない。
リュシエンヌのことは好きだし大事だが、だからと言ってリュシエンヌに何かしたいということはなく、ただこうして傍にいて構っていたいだけだ。
大事にして、真綿で包むように扱って。
やがてリュシエンヌが成長した時、ルフェーヴルへ恋愛感情を抱いてくれたらいい。
それまでには、ルフェーヴルも自分の中にある感情が育つだろうという予感があった。
死なないために生きるだけの世界で「生きる目的」を見つけた。
リュシエンヌのためならば、少しくらい暗殺稼業を離れて表舞台でのらりくらりと侍従のふりをするのも悪くないと思ってしまった。
「今日は基本文字の練習だけにしようか〜。全部見ないで書けるようになれるかねぇ?」
リュシエンヌの頭を撫でる。
チョコレートのようなまろやかなダークブラウンの髪はサラサラで、少し傷んでいるせいかふわふわで、撫でると頭の形の良さが分かる。
「うん、がんばる。日記たくさんかく」
両手で拳を作って顔をキリッとさせるリュシエンヌにルフェーヴルは笑う。
……ほんと、可愛いなぁ。
* * * * *
それから更に三回ほど書き取りの練習をして、基本文字については覚えられたと思う。
ルルは今日は基本文字を教えるだけのつもりだったらしく、わたしが二十六個の文字を覚えると驚かれた。
「もう覚えたなんてリュシーは頭良いねぇ」
わたしの書いた紙を確認して頷いた。
「これなら教えてもいいかなぁ」
そう言うと、ルルは新しい紙を取った。
そこにサラサラと表のようなものが書かれていく。
「……よし。これ見てぇ」
差し出された紙を受け取った。
……ん? 何だか見覚えがあるような……?
疑問に感じつつ表を見る。
「公用語はさっきリュシーが覚えた二十六の文字を組み合わせて使うんだけどねぇ、これ自体が発音も表しているんだよぉ」
言いたいことは何となく分かる。
じゃあこの表は発音表なのかな?
「……うん……?」
「って言っても分かり難いかぁ。ええっと、とりあえずこの表を覚えちゃえば読み書き出来るようになるよぉ」
「えっ」
……たったこれだけでいいの?!
単語とか意味とか覚える必要がないのだろうか。
「公用語って一番簡単なんだよぉ。この一番上の五つが母音って言って、左から順に『あ』『い』『う』『え』『お』って読むのぉ。基本のこの五つの左側に他の二十一文字を一つか二つ加えて、別の発音にさせるんだぁ。リュシーが今喋ってる言葉は公用語だから発音は出来てるよぉ」
……待って。待って待って!
それってただのローマ字だよね?
えっ、この世界の公用語ローマ字と同じなの?
というか、わたしが今喋ってるのって公用語だったって初めて知った……。
こういうところはゲームの世界みたいなんだ。
呆然とするわたしをルルが覗き込む。
「分かる〜?」
「……うん、分かる」
だから公用語が一番簡単な言葉なんだ。
単語の意味とかがなくて、単純に発音を文字で表している言語だから。
これなら二十六の文字と対応表を覚えられれば、すぐにでも日記が書けそうだ。
「じゃあ一つずつ発音していくねぇ」
ルルが全て読み上げてくれたけれど、表に書かれていたのはまんまローマ字であった。
それにどこか懐かしさを感じる。
全部読み上げてもらったら、わたしが表を真似して書きながら一つずつ発音し、ルルがそれを確かめる。
文字の組み合わせを頭に入れればいい。
何度か表を書き写して覚えるとルルに頭を何度も撫でられた。
「もう覚えるなんてぇリュシーは偉い偉い」
いつもより明るい声にちょっと罪悪感が湧く。
……前のわたしの記憶のおかげなんだよね。
それから言葉を区切ること、伸ばしや濁音、半濁音などの表記、本に多い記号なども教えてもらったが、やはりどれも覚えやすかったのは言うまでもない。




