普通の幸せ
その日の夜、ベッドサイドのテーブルに飾られた二本のバラを寝転んだまま眺める。
赤いバラは瑞々しい花びらを広げて咲いている。
ルルは料理長に会いに行くと少し前に部屋を出て行ったので、代わりにメルティさんが部屋の隅に控えていた。
バラの花から微かにいい匂いがする。
人から初めてもらった花だ。
ベッドから起き上がって、花瓶に差さったバラを覗き込む。
…………あれ?
花瓶に手を伸ばし、そっとバラを持ち上げる。
茎というか枝というか、その部分には棘がなく、しかし棘があったような跡は残っていた。
少々荒削りだったらしく、残った跡の部分は結構デコボコで、でも棘はきちんと取れていた。
……あ、もしかしてルルが取ってくれた?
昼間、中庭でバラを摘んだ際にごそごそとしていたのはもしかしたら棘を取っていたのかもしれない。
二本とも棘がなく、わたしが触っても怪我をしないようにしてくれたのだろう。
それに気付くと更にバラへの愛着が湧いた。
……バラって元の世界では愛に関係した花言葉が多いって言われていたけど、この世界でもそうなのかな。
そうだとしたらルルはどんな意味をこめてバラをくれたのだろう。
意味は分からないが、きっと良い意味だと思う。
渡してくれた時のルルは笑っていたから。
「でも、かれちゃうんだよね……」
せっかくの綺麗な花もいつかは枯れてしまう。
それが少し残念だ。
出来るだけ覚えておこうとバラを眺める。
そうしていると音もなくベッドの傍に影が降り立った。
メルティさんが身構えたけれど、それがルルだと分かると構えを解いた。
「ただいまぁ、良い子にしてたぁ?」
ベッドの縁に座ったルルに頷き返す。
「うん」
「そっかぁ」
よしよしと頭を撫でられる。
ルルに頭を撫でられるのは好きだ。
大きな手が丁寧に触れる仕草が心地好い。
「りょうりちょうのところに何しに行ったの?」
何となくルルと厨房ってイメージがつかない。
「ん〜?」と間延びした声が返事をする。
「リュシーが自分で食べられるように、食材をもうちょ〜っと小さく切ってってお願いしてきたんだよぉ」
今日まで、わたしの食事は病人食みたいな感じで、スプーンで掬って食べるものか、果物だけだった。
これからは少しずつ普通の食事に変えていくらしい。
それで、わたしが自分で食べられるように、消化が良いように、食材を小さく切ってもらうこととなったそうだ。
「多分、明日からは少しずつ食事内容が変わっていくと思うけど、まずはフォークとスプーンだけで食べられるものにしてくれるってぇ」
「分かった」
この世界のテーブルマナーも知らないし、最初は分からないふりをして、教えてもらおう。
今日まではルルが食べさせてくれたり、小さく切り分けてくれたりしたが、これからは自分で食べられるように頑張らないと。
そう意気込んでいるとルルに頬をつつかれる。
「オレはリュシーに食べさせてあげるの好きなんだけどぉ、このままじゃあリュシーが後で困るからねぇ」
「がんばる」
「うん、がんばってぇ」
ルルの緩い応援に笑い返す。
……綺麗に食べられるようになろう。
そうして、いつか、ルルと一緒に食事をするんだ。
その時に「綺麗に食べられるようになったねぇ」って褒めてもらえるように、頑張るのだ。
* * * * *
翌日から、わたしの食事が変わった。
今まではミルクとパンを煮たものや、柔らかく煮た具材たっぷりのスープだった。
それが今朝の朝食は違っていた。
小ぶりの楕円形のパンに、小さく切り分けられたベーコンが数枚、マッシュポテトみたいなものに、スクランブルエッグに、輪切りにされたウィンナーに、色鮮やかな瑞々しいサラダ、スープは具沢山で、飲み物は温かなミルク。
食べきるのは難しそうだ。
だが、それはリニアさん達も分かっていたようで。
「お好きなものを食べられるだけどうぞ。無理に全て食べる必要はありません。食べられるものをお召し上がりください」
「……のこしていいの?」
「はい。お食事の様子を見て、料理長がお嬢様のお好みや食べられる量を確認いたします」
……お嬢様みたい。
いや、王女なんだっけ。わたし。
テーブルに並べられた食事を見る。
フォークとスプーンが両脇に置かれ、温かな料理が湯気を立てている。
とりあえず最初にミルクを数口飲む。
それから片手にフォークを握る。
持ち方を知らないと分かるように握り拳で掴んで、グサリとウィンナーを刺して口に運ぶ。
……うーん、食べ難い。
口へ入れたウィンナーを噛むと、皮がパリッとして、肉汁が口の中に広がった。
「おいしい!」
思わずルルを振り返る。
ルルが「良かったねぇ」と笑った。
それに頷き返し、今度は野菜を刺す。
どうやら温野菜にソースをかけたものらしい。
あぐ、とじゃがいもらしきものをまず食べる。
……これも美味しい!
ソースはまったりとしているがほんのり甘く、何となく玉ねぎみたいな味がした。
次に人参、それからブロッコリーと野菜を口に入れる。
どれも三つほどに切り分けられていて食べやすい。
次に具沢山のスープだ。
これも肉と野菜がたっぷり入っている。
コンソメみたいな匂いと色合いだ。
フォークでグサッと目についた野菜を刺す。
……これは玉ねぎ?
肉と一緒に玉ねぎらしき野菜が刺さる。
汁が垂れなくなってからぱくりと口に入れる。
見た目よりも優しい味だ。
どれも味付けは薄めだ。
スープの具をいくつか食べたら、今度はパンに手を伸ばす。
ふんわりしたパンはまだ温かくて、かじりつくと小麦とバターの香ばしい匂いがする。
「リュシー、ジャムもあるよぉ」
ルルが小瓶を示した。
「ジャム?」
「そう、これはオレンジかなぁ」
瓶を開けたルルが小さなスプーンを突っ込み、中身のオレンジ色を掬い、わたしの持っていたパンにぺたりと塗った。
そこをかじるとオレンジの甘みと微かな苦味、柑橘系のいい匂いが舌の上に広がる。
口の中いっぱいにパンが入っているので喋ることは出来ないが、ルルを見上げれば「美味しいでしょ〜?」と訊き返された。
それに何度も頷いた。
オレンジのジャムは皮も入っているようだけど、それが更に香りを強くしてくれて、きっと砂糖をたっぷり入れて作ったものなのだろうと分かるほど甘くて。
……幸せの味がする……。
ルルがまたジャムをたっぷりつけてくれた。
そのおかげかパンはあっという間に食べられた。
それからフォークを持って、ベーコンを刺す。
一切れ食べる。
……美味しい、けど、ちょっと脂っぽいかも?
これはあまり食べたいと思えなかった。
美味しいが肉の脂が口の中にべったりとくっつくみたいだ。それに塩気が強い。
ミルクを一口飲んで口の中の脂を流し込む。
次にサラダだ。
ドレッシングは既にかかっていて、フォークでザクザクと刺して食べる。
さっぱりしたドレッシングは意外と青味を抑えてくれて、シャキシャキとした葉野菜の食感を楽しみながら食べられる。
それからは温野菜、ウィンナー、スープ、サラダの順に食べていったが、思ったほどは食べられなかった。
それでも今までのわたしにしたらよく食べた方だ。
満腹だけど、美味しそうなので食べたくて、でもやっぱりもう入らなくて未練たらしくフォークを手放せずにいたわたしの手にルルが触れた。
「もうお腹いっぱいなんじゃない?」
指摘されて項垂れる。
「もっと食べたいけど、もう食べられない……」
「リュシーにしては沢山食べたけどねぇ」
「おいしいから」
ルルの手がわたしの手からフォークを取った。
「でもこれ以上は気持ち悪くなっちゃうから、終わりにしようねぇ?」
「……うん」
あんなに美味しいものを残すなんて……。
下げられていく食事をつい目で追ってしまう。
正直、お昼もあれの残りでもいいくらいだ。
でもお昼はお昼できっと別の食事が出るんだろう。
きっとお昼の食事も美味しいに違いない。
だから朝はもうこれで良しにしよう。
そう思って、未練を断ち切る。
「お嬢様、いかがでしたでしょうか?」
片付けを終えたリニアさんに問われる。
「おいしかったです」
「それは良うございました。何か苦手なものはありませんでしたか?」
「ううん、どれもおいしいです。……でも、うすいお肉はおいしいけど、ちょっとベタっとして、たくさん食べられないです」
「ベーコンですね。かしこまりました。次からはもう少し量を減らすか、あっさりと食べられるように料理長にお伝えします」
リニアさんが納得した風に頷いた。
「あの」
「はい、いかがいたしましたか?」
わたしが声をかけるとリニアさんは穏やかな声で訊き返してくれる。
メルティさんもそうだ。
だからこの二人はあまり怖くない。
「おいしかったですって、りょうりちょうに……」
尻すぼみになったわたしの言葉にリニアさんがにこりと微笑み「必ずお伝えします」と頷いた。
このお屋敷に来てから、出される食事は全部美味しかった。
本当は顔を合わせて自分の口で言いたい。
だけど他の使用人はまだ怖い。
せめて伝言だけでもと思ったわたしの気持ちをリニアさんは気付いてくれたみたいだった。
「リュシー、お腹苦しくなぁい?」
ルルの言葉に頷いた。
「ちょっとだけ。でも、いいの。たくさん食べもの食べたの初めてだから、うれしい」
「それならいいけどねぇ」
ルルがわたしを抱き上げてソファーに移す。
本当は朝食の前に身支度を済ませるのだけれど、わたしは服を汚してしまうかもしれないと思うと、可愛いワンピースドレスに着替えられなかった。
だからわたしはまだ寝間着のままだ。
リニアさんとメルティさんがドレスを手にやって来て、ルルが姿を消すと、着替えが始まる。
二人がかりで座っているわたしから寝間着を脱がせ、代わりに被るようにワンピースドレスを着させられる。
形を整えるためにちょっとだけ腰の部分が絞られるけれど、わたしの体を圧迫するほどではない。
袖や裾、襟を整えられる。
足は包帯を巻いているので素足のままだ。
服を整えられるとどこからともなくルルが現れる。
着替えたわたしを抱えてドレッサーの前の椅子へ下ろすと、ブラシで丁寧に髪を梳いてくれる。
髪はブラシで何度も梳かすと艶が出る。
だから、朝は時間をかけて髪を整える。
これはルルのお仕事らしい。
着替えを手伝わない代わりに髪はルルがやる。
「今日は何をしようか〜?」
わたしの髪をブラシで梳きながらルルが言う。
誰かに髪を梳かしてもらうのは気持ちいい。
「あのね、文字のべんきょうしたい」
読み書きが出来ないのは困るから。
「まだ歩き回るのはダメだし、それなら動かないからいいかもねぇ」
「……ルル、おしえてくれる?」
「いいよぉ」
忙しいかな、と思いながらも聞いてみたら、あっさりと教えてもらえることになった。
「と言うか〜」とルルが続けた。
「読み書きはオレが教えるつもりだったしぃ?」
意外な言葉に鏡越しにルルを見る。
「そうなの?」
「そうだよぉ。やっぱり最初は公用語かなぁ。それが出来るようになったら、他の言葉も教えてあげるねぇ」
「ことば、たくさんあるの?」
「うん、今は公用語が主流だけど、それぞれの国の言葉があるんだぁ。大丈夫、どこの国の言葉も大体公用語に似てるから〜」
……もしかしてルルってそのそれぞれの国の言葉を話せて、読み書き出来るの?
チラと見れば「オレは公用語以外にも周辺の国の言葉も話せるし、読んで書けるよぉ」と答えた。
「ルルすごい」
「まあ、仕事で必要だから覚えたんだけどねぇ」
「そうなんだ」
後宮に忍び込んだりしていたし、暗殺者の仕事以外にも、間諜とかもしていそう。
……そっか、そういう時に忍び込んだ先で文字が読めなかったら情報を集められないからルルは学んだのか。
この国の周りにいくつ国があるか知らないけど、控えていたリニアさんとメルティさんが目を丸くしたので、それなりに数があるんだと思う。
……ルルは何でも出来てすごい。
「あと、貴族の食事のマナーと教養もそれなりに教えられると思うよぉ。いきなり知らない人間に教わるよりか、ある程度覚えてから教えてもらった方がいいんじゃな〜い?」
つい、ほうっと息が漏れる。
「ルル、何でもできるね」
「そう?」
「そうだよ、ルルすごいよ」
振り向けば、ルルがキョトンとする。
それから嬉しそうに笑った。
「そっかぁ、オレってばすごいんだぁ」
すぐに両手で顔を正面に戻される。
でも、どこかルルは上機嫌だった。
それからいくつかルルに教えてもらうことを話し合って決めて、そうしているうちに時間はあっという間に過ぎていった。
「はい、綺麗になったよぉ」
何度も何度もルルが梳いてくれたおかげでわたしの髪はツヤツヤでサラサラだ。
あったかいベッドで目を覚まして、朝食を食べて、自分の服に着替えて、大好きな人が傍にいる。
そんなの普通のことかもしれない。
だけどわたしにとっては普通のことが幸せだった。
……ルルと出会えてよかった。
ルルと出会えてなかったら、きっとわたしは原作のリュシエンヌみたいになっていたかもしれない。
大切にされたくて、大切な人が欲しくて。
でも誰にも相手にしてもらえなくて。
……わたしは原作のリュシエンヌじゃない。
「ありがとう、ルル」
振り返ってルルに笑いかけた。




