ルフェーヴル / 兄弟弟子の話
ルフェーヴル=ニコルソンは娼館で生まれた。
没落した男爵家の令嬢が娼婦となり、その女とドルフザーツ=フェザンディエ前侯爵との間の子である。
だがルフェーヴル自身は自分を貴族とは思っていないし、フェザンディエ前侯爵のことはどちらかと言えば嫌っている。
嫌っている理由は単純だ。
自分を利用して王女に近付こうとした。
それが酷く不愉快だったので嫌いなのだ。
だが母親に種をくれたことだけは感謝している。
おかげでルフェーヴルはリュシエンヌに出会えた。
ルフェーヴルは高級娼館で生まれ、五年ほどの間、そこで暮らしていた。
母親はルフェーヴルを生んだことで死んだが、他の娼婦達はルフェーヴルを可愛がってくれた。
何れは娼館の護衛となるか、どこかのゴロツキとなるか。
どちらにしてもまともな職に就くことはない。
ルフェーヴルは金が欲しかった。
その頃、唯一執着していたチョコレートを好きな時に好きなだけ食べられるようになるには金が必要だった。
このままではどうしようもない。
だからルフェーヴルは娼館の主人に何度も願った。
もっと実入りの良い職に就きたい。
金が手に入るならどんな職でも良い。
そして、娼館の主人はルフェーヴルを知り合いのダフという中年の男に預けた。
それが暗殺の師となる人間だった。
ダフは子供達を数人引き取っており、子供達に自分のことを「師匠」と呼ばせた。
師匠は自分の技術を継承する人間を探していたらしく、暗殺の技術を子供達に与えると言った。
その子供の中にルフェーヴルもいた。
師匠の元での生活は厳しかった。
まずは体力をつけるために毎日、くたくたになるまで色々なことをさせられた。
剣術の基本、体術の基本、受け身の取り方、様々な武器の扱い方、足音を立てずに移動する方法、気配を消す呼吸の仕方。
必要な筋力をつけるための運動は全て終えるのに毎日、半日もかかる。
山の中を重石を背負って走ったこともあったし、足元の悪い沼地を一週間も歩かされ続けたこともある。
ただその頃は食事を抜かれることはなかった。
とにかく体力をつけさせられた。
そんな生活を三年させられた。
もう無理だと逃げた子供もいたが、師匠はそんな者には見向きもしなかった。
師匠は無口だが厳しい人間だった。
出来なければ出来るまでやらせたし、体力をつけるための運動には自分も混じってあれこれと指導された。
しかしルフェーヴルにとってはきついけれど、刺激的な日々は案外悪くはなかった。
娼館の一室で無意味に過ごすよりマシだ。
ルフェーヴルはあっという間に周りの子供より頭一つ分、色んな意味で成長した。
子供達の中では一番優れていた。
ルフェーヴルが八歳になると、訓練内容が変わった。
子供達同士で戦わせたり、師匠が相手をしたり、動物を殺すことを覚えさせられた。
年上のくせに兄弟弟子は泣いていた。
ルフェーヴルは何も感じなかった。
それから毒薬についても学ぶようになり、食事にその毒を少量混ぜて摂取させられた。耐性を得るためだった。
様々な毒をルフェーヴルは口にした。
しかも毒を摂取した後も変わらず訓練を受けさせられた。
フラフラになりながらもルフェーヴルは訓練に参加して、毒の名前と種類、どんな見た目や匂い、味がするか、どのような症状が出るかを体で覚えた。
ルフェーヴルが初めて人を殺したのは十歳だった。
洗礼の儀を終えた日、師匠が連れてきた罪人の奴隷だという人間を手にかけた。
ナイフで殺せというので、ルフェーヴルは身動きの出来ないその奴隷の首筋を躊躇いなく切り裂いた。
やはり、ルフェーヴルは何も感じなかった。
喜びも、悲しみも、恐怖も、怒りも。
ただやれと言われたからやった。
それから師匠は子供にそれぞれ別々の教育を施すことにしたようだった。
その頃には残った子供はルフェーヴルを合わせて数名ほどだった。
年上の兄弟弟子は女だったので体を使った籠絡術を、同年代の兄弟弟子は暗器での暗殺術を、年下の兄弟弟子は毒の扱いに長けていたのでその方向での変装術を。
ルフェーヴルには満遍なく全ての暗殺術を。
それから二年が一番苦しかった。
毒の摂取は続けつつ、絶食させられたり、断水させられたり、人間がおよそ不快に感じたり過酷と思う場所へ連れていかれて一人で過ごすよう命じられた。
そういう場所ではまともな食事も口に出来ない。
腹を壊したが泥水だって啜った。
微量ながら毒があると分かっていながら木の実や食べられる植物を口にして飢えを凌いだ。
動物だって殺したし、必要とあらば賊紛いのことだってした。生きるためならまさに何でもやった。
最後の二年間はまともな生活は出来なかった。
その間にも人を殺す術を叩き込まれた。
何人も人間を殺した。
人間を殺すことは苦ではなかった。
ルフェーヴルは他者に共感することがなく、他者を自分と同じ人間と認識することがなかったから。
師匠の下でルフェーヴルは暗殺者として技術を磨いた。
そして十二歳の時、師匠はルフェーヴルに正式に暗殺の依頼を請け負ってきた。
そこから二年、十四歳までルフェーヴルは師匠が受けた依頼をこなした。
どれも楽な依頼ではなかった。
ルフェーヴルがギリギリこなせる難易度の依頼ばかりだった。
他の兄弟弟子も同じような感じであった。
途中、年上の兄弟弟子は仕事でミスをして死にそうになり、ルフェーヴルが看病したこともある。
年下の兄弟弟子は仕事で失敗して殺された。
……オレは死にたくないなぁ。
生きることに希望があったわけではない。
だが、死にたいわけでもない。
ルフェーヴルは淡々と仕事をこなした。
十四歳になると師匠は「もう教えることはない」とルフェーヴルを半ば追い出すように闇ギルドへ渡した。
そこでルフェーヴルは初めてアサドと出会った。
闇ギルドに加入し、十四歳からは一人前の暗殺者として依頼を請け負うことになった。
初めて自分で受けた依頼の報酬でルフェーヴルは数年ぶりに好物のチョコレートを買って口にした。
菓子にしてはかなり高値だったが。
師匠のところでの暮らしに比べたら、暗殺者の仕事というのは思いの外、簡単だったし、それなりに刺激的で退屈しない日々であった。
その中でベルナールとも繋がりを得た。
ベルナールは暗殺よりも間諜の仕事が多かった。
しかも金払いがよく、あまりあれこれ言ってこないので、ルフェーヴルとは相性が良い雇い主だ。
だから自然とルフェーヴルもベルナールの仕事を優先して受けた。
暗殺の仕事をして、休日に僅かなチョコレートを口にして、スキルで人目につかないようにしながら生活する。
それがルフェーヴル=ニコルソンという暗殺者の暮らし方だった。
それで特に不満はなかった。
あの日、一人の少女と出会うまでは。
ベルナールの依頼を受けて王城に潜り込み、後宮の様子を探っていたあの日。
スキルで姿も気配も隠していたはずのルフェーヴルは一人の幼い子供にあっさりと見破られた。
子供の名前はリュシエンヌ=ラ・ヴェリエ。
王家の第三王女にして、王妃とその子供達に虐げられ続けた哀れな、けれど不思議な雰囲気を持つ子供。
ルフェーヴルはその不思議な子供に惹かれた。
自分のスキルを見破られたのは初めてだった。
そして、その子供からは自分と似た何かを感じた。
ルフェーヴルにとっては、初めて、同じ人間と出会ったような、そんな気分だった。
子供はルフェーヴルを驚くほど簡単に信頼した。
暗殺者に命を預けるなんて、どうかしている。
けれども、ルフェーヴルはそれに喜びを感じた。
後宮でひっそりと会い続け、そしてクーデターの際に連れ出し、ルフェーヴルはその子供の傍にいることを決めた。
子供はリュシエンヌ=ラ・ファイエットとなり、新王家の養子となり、たった一人の王女となった。
暗殺者として日陰で生きてきたので、最初はかなり落ち着かなかった。
侍従兼護衛として過ごしながら、リュシエンヌをとにかく構い倒しながら、ルフェーヴルは己の幼い頃を思い出していた。
ルフェーヴルがリュシエンヌにしたことは、全て、娼館でルフェーヴルが娼婦達にしてもらったことばかりだった。
まだ上手くフォークやスプーンを扱えない時には食べさせてもらったし、何度か抱き締められたり、抱えられて移動することもあった。
今思えば娼婦達も構いたがりだったのだろう。
ルフェーヴルはリュシエンヌに出来る限りのことをした。
リュシエンヌはまるでルフェーヴルしか頼る人間がいないのだという風にルフェーヴルに傾倒した。
腕の中の存在が自分のものだということにルフェーヴルは心地好さを感じた。
ベルナールを脅して子供の未来を手に入れた。
十一年は長い。
だが、過ぎてしまえば長いようで短い日々だった。
師匠のところでの暮らしの方が長くつらいような気さえした。
リュシエンヌに前世の記憶があると言われた時、ルフェーヴルはなるほどと納得した。
他の人間と雰囲気が異なる理由が分かった。
リュシエンヌ自身も自分は違うと感じていたのかもしれない。
ルフェーヴルはリュシエンヌに前世の記憶があろうとなかろうと関係なかった。
自分が気に入ったリュシエンヌがリュシエンヌであればそれだけで十分だった。
リュシエンヌと婚約した。
婚約者として堂々とエスコート出来るようになったのは純粋に嬉しかった。
そこから、ルフェーヴルはリュシエンヌと一緒に色々なことを経験した。
友人など不要だと思っていたルフェーヴルにも、いつの間にかアリスティードという同志のような、友人のような存在が出来た。
十一年はあっという間だった。
あっという間に婚姻し、気付けば式を挙げていた。
十一年前、ルフェーヴルは闇で生きていた。
それなのに今は光の中で生きている。
自分には眩しいと思っていたその場所で。
「……人生、何があるか分からないもんだよねぇ」
光差す世界でリュシエンヌと共に在る。
ルフェーヴルはその幸福を知ってしまったのだ。
* * * * *
「お帰りなさいませ、奥様、旦那様」
夫の声に合わせてヴィエラは頭を下げた。
「お帰りなさいませ」と他の使用人達と声を合わせて、この屋敷の主人たる若い夫婦を出迎えた。
ヴィエラ=ラジアータは異国生まれだった。
浅黒い肌に豊満な体つきの妖艶な女だ。
…………外見だけならば。
その中身は実際には気弱で泣き虫な女である。
そうしてこの、住み始めて一年ほど経つ屋敷の主人であるルフェーヴル=ニコルソンとは同じ師に暗殺術を習った兄弟弟子であった。
「ただいまぁ」
緩い口調は相変わらずだった。
顔を上げて、久しぶりに兄弟弟子を見る。
悔しいけれど男にしては美し過ぎるほど綺麗な顔立ちの兄弟弟子が、幸せそうな笑みを浮かべて、自分の隣にいる女性の腰を抱いている。
兄弟弟子のあんな表情は初めて見た。
それに、あれほど誰かに触れているのも。
「長らく、大変長らくお待ち申し上げておりました。ようやく奥様のお顔を拝見することが出来て、このクウェンサー、喜びでいっぱいでございます。何とお美しい方なのでしょう」
美しい女とくればすぐに粉をかけたがるのが夫の悪い癖だ。
近付いた夫に兄弟弟子が笑顔で殺気を向ける。
「それ以上近付いたら殺す」
それに思わず全員が反応してしまった。
ここに雇われている者達は皆、闇ギルド経由で紹介された者ばかりだ。
つまりは誰もが何かしら戦闘に長けている。
兄弟弟子の剥き出しの殺気につい反応してしまうのも無理ははなく、ヴィエラですらつい、隠し持っていた暗器に手を伸ばしかけてしまった。
夫が両手を上げて一歩下がった。
「冗談ですよ、旦那様」
「次にオレの前でリュシーを誘惑したら、たとえ冗談でも許さないからねぇ?」
「……カシコマリマシタ」
さすがに闇ギルド一位、二位を争う暗殺者の殺気を受けて、夫の顔色が悪くなっている。
それに内心で呆れつつヴィエラは視線を動かした。
兄弟弟子の連れて来た奥様は、何と真っ白なウェディングドレスを着たままだった。
兄弟弟子も白いタキシード姿である。
王都から頑張れば一日ほどで着ける距離だが、まさか結婚式の後にそのまま直行してきたのだろうか。
奥様が顔にかかっていたヴェールを自分で上げた。
ヴィエラはそこにあった琥珀の美しさに、しばし、ぼうっと見入ってしまった。
線の細い顔立ちにややたれ目のパッチリした瞳はまるで宝石の琥珀をはめ込んだように美しく、光をキラキラと反射させている。
スッと通った鼻に小さな血色の良い唇。
透き通るように白い肌には薄く頬紅がされ、大人びた綺麗な、でもどこか可愛らしさのある顔立ちの女性だった。
その琥珀の瞳が細められ、奥様が笑う。
「ルル、そんなに怒らなくてもわたしはルルしか見えてないから大丈夫だよ?」
柔らかで聞き心地の良い声だ。
兄弟弟子の殺気などまるで気にもしていない。
その言葉に兄弟弟子が蕩けるような笑みを浮かべ、自分の妻へ顔を向ける。
同時に一瞬で殺気が収まった。
「分かってるよぉ。でも気に食わないんだよねぇ」
「ふふ、気持ちは分かるけどね。わたしもルルに言い寄る女の人がいたら『近付くな』って思うから」
「そうだよねぇ」
兄弟弟子が嬉しそうに奥様の頭にキスをする。
……あんなことする奴だったっけ。
ヴィエラの知っているルフェーヴル=ニコルソンという人物は情の欠片もない人間だ。
可愛らしい小動物だろうが、恐ろしい大型の動物だろうが殺せと言われれば殺す。
人間ですら顔色一つ、表情すら変えずに殺す。
そしてどんな時でも貼り付けた笑みを浮かべ、いつでもフラフラへらへらした態度で掴み所がない。
ヴィエラが初めて動物を殺して血の臭いに吐き戻して泣いた時も、横でただ突っ立っていた。
ヴィエラが初めて人を殺した後も、泣いているヴィエラに平然と「どうやって殺した? オレはねぇ……」と自分の殺人を一方的に話すような奴で。
ヴィエラが任務に失敗して毒を受けて死にかけた時も、看病と言いつつ、苦しむヴィエラを貼り付けた笑みを浮かべたまま、ただただ見ているだけだった。
だからヴィエラはこの兄弟弟子が少し苦手だった。
何を考えているか分からない。
人間らしさを感じられない。
不気味な人間。非情な暗殺者。
……そのはず、だったんだけど……。
「リュシー疲れたでしょぉ? 部屋で休む?」
「うん、でも、ルルも一緒に休憩しよう? 朝から式の支度をして疲れたでしょ?」
「うん、オレも疲れたよぉ」
聞いたこともない、甘えた声がする。
暗殺者が疲労を見せることはない。
そもそも兄弟弟子は師の訓練で、何時間でも同じ体勢でいることの苦しさや疲労に関して慣れているはずだ。
狭い天井裏などで何時間も過ごすこともある。
疲労など苦ではないはずだ。
妻を抱き寄せる兄弟弟子はべったりとくっついており、その姿は、ヴィエラの知る兄弟弟子とは別人にしか見えない。
「使用人の挨拶は明日でぇ」
兄弟弟子の言葉に夫が頷いた。
「かしこまりました」
「後はよろしくぅ」
兄弟弟子が妻の腰を抱いて屋敷の奥へ向かう。
ヴィエラは少し間を開けてそれについて行く。
何せ、ヴィエラは奥様の侍女であり護衛としても雇われているのだ。
目の前で幸せそうに話している兄弟弟子を思わず、じっとりと半眼で見てしまう。
この兄弟弟子はヴィエラが夫と結婚した時、祝いの言葉を述べるどころか「暗殺者が結婚〜? する意味なくなぁい?」と悪気なくだろうが言ったのだ。
あの時の言葉を聞かせてやりたいとヴィエラは思う反面、幸せそうなそれを壊したくないとも思う。
暗殺者の人生というのは基本、孤独だ。
その職業柄、特別親しい相手など、自分の弱点となる存在を作ることもない。
だが、この兄弟弟子は見つけたのだ。
たとえ弱点になってもいいと思えるほど、愛おしいと、大事だと思える存在を見つけてしまった。
……しかもよりによって王女様だなんて。
とんでもない人物が、これまたとんでもない人物を引き寄せたものだ。
そして凄腕の暗殺者に抱かれて幸せそうにしている王女もまた、かなり大物だろう。
見たところ、兄弟弟子の一方通行という感じでもなさそうだ。
「リュシーはこの屋敷から出なくていいよぉ。欲しい物があったらオレか侍女に言えば手に入れてくるしぃ、食べたいものがあったら好きなだけ食べていいしぃ、苦しいドレスも無理に着なくていいからねぇ?」
兄弟弟子はかなり執着しているらしい。
正直、いくら愛する人と言えどもここまで執着されたら逆に恐怖を感じる。
奥様がそれに耐えられるとは思えない。
幼い頃は虐待されて育ったらしい王女だけれど、それからは大事に大事に育てられてきたのだ。
こんな、依存のような執着をどう思うのか。
だが奥様である王女は朗らかに笑った。
「うん、欲しい物や食べたいものがあったらルルに言うね。でもルルに綺麗な姿を見てもらいたいからドレスは着るよ」
「そっかぁ」
「ルルも何も言わずにいなくなっちゃダメだよ? わたし達は夫婦なんだから」
「分かってるよぉ。どこかに出掛ける時はきちんとリュシーに報告するしぃ、出来るだけ食事も一緒に摂るしぃ、ずっと一緒にここで暮らしてぇ、死ぬ時も一緒だよぉ」
「それならいいの」
前言撤回、奥様も似たような気質のようだ。
……なるほど、お似合いね。
何はともあれ、幸せそうな兄弟弟子夫婦の後ろをヴィエラは気配を消してついて行く。
新しい主人達は一癖も二癖もありそうだった。
* * * * *




