学院祭までの練習
* * * * *
「え、皿洗い、ですか?」
夕食後、時間を置いてからリュシエンヌはルフェーヴルとリニアを引き連れて宮の厨房を訪れた。
リュシエンヌが厨房に現れることは、実はそれほど珍しいことではない。
時折、ルフェーヴルのためにお菓子を作りに来る。
それはファイエット邸にいた時と変わらなかった。
しかしお菓子作りのためだ。
決して皿洗いのためではない。
料理長も困惑した表情を見せた。
「ええ、学院祭でわたしのクラスは喫茶店をやることにしたのだけれど、食器の片付けを覚えたいの」
「……リュシエンヌ様も食器洗いをされるおつもりで?」
「そうだよ、そうしないと食器も足りなくなるから」
料理長が何とも言えない顔をした。
王女が食器を洗うなんて聞いたことがない。
「あ、学院祭が近くなったら軽食作りを教えて欲しいんだけど、学院へ来てもらっても大丈夫?」
だが当の本人は全く事の重大さを分かっていない。
「それは構いませんが……」
料理長は思わず、リュシエンヌの背後にいるルフェーヴルとリニアを見た。
何とかしてくれと目で訴えてみたものの、リュシエンヌの夫であるルフェーヴルは微笑を浮かべたままだし、侍女長のリニアは黙って控えるだけだ。
顔を戻せば申し訳なさそうな顔の王女がいる。
「迷惑なのは分かってる。ごめんなさい。でも、使い終わった食器を持って帰って来て、それをみんなに洗わせるのは申し訳なくて……。どうしてもダメ?」
綺麗な琥珀の瞳に見つめられて、その後ろの二人の無言の圧力に押されて、料理長は小さく息を吐いた。
「分かりました、スカラリーメイドの纏め役に話をしてみましょう。洗い場が空いている時間を確認しますので、明日、ご連絡いたします」
料理長のその言葉にパッとリュシエンヌの表情が明るくなる。
そうすると後ろの二人の圧が消えた。
「ありがとう!」
その嬉しそうな表情に料理長は、仕方ないな、と苦笑した。
十二歳から成長を見守っている王女の、その屈託のない笑顔はとても珍しい。
普段の王女は淑女らしく微笑んでいることが多い。
しかし、この厨房でお菓子を作っている時のリュシエンヌはとても楽しそうで、屈託のない笑顔も昔はよく見せてくれた。
その頃と変わらない明るい笑顔だ。
王女達を見送った料理長は呟く。
「とりあえず、明日中に木製の食器を一通り買い揃えておかないとな」
王女が初めての皿洗いで怪我をしないように。
最初は木製の食器を練習台にしよう。
* * * * *
翌日、リュシエンヌは厨房に現れた。
夕食後の食器を洗い終えた後の、少し遅い時間であったが、それでもその表情は明るいものだった。
後ろには相変わらずルフェーヴルとリニアがいる。
リュシエンヌは大変シンプルなワンピースを身に纏い、濡れても良いようにエプロンもしっかりつけている。髪もきちんと纏めてあった。
もはやメイド服と変わらない格好だ。
それを見たルフェーヴルが「かわいいメイドさんだぁ」としばらく妻を猫可愛がりしたのは別の話である。
「王女殿下にご挨拶申し上げます。スカラリーメイドを纏めております、エイナ=クライスラーでございます。本日より王女殿下へのご指導を担当させていただきます」
リュシエンヌよりいくつか年上だろう女性が礼を執る。
それにリュシエンヌは頷いた。
「よろしくお願いします。……初めてでも、食器洗いは出来るかな……? お皿を割ったらごめんなさい」
不安そうなリュシエンヌにエイナは微笑んだ。
「大丈夫でしょう。本日は木製の食器をご用意いたしました。まずはこちらで練習をして、問題なければ陶器の食器、そして銀器に移る予定です」
「触ってもいいですか?」
「はい、どうぞお手に取って確認なさってください」
並べられた木製の食器を示されて、リュシエンヌが訊くと、エイナは頷いた。
リュシエンヌはそっと木製の食器に触れる。
街の屋台でたまに見かけるやつだ、と気付いたリュシエンヌがルフェーヴルを見上げれば、ルフェーヴルも食器の一つを手に取った。
リュシエンヌには違いが分からなかったが、そこにあるものは木製の食器の中でも高価な部類のものだった。
削って作られたそれは全て、表面が滑らかに加工してあり、使用する人間が怪我をしないように配慮されている。
それに屋台で使用されているものよりもずっと厚みがあって頑丈だ。
手が滑って落としても、ヒビが入ったり割れたりすることはないだろう。
「リュシエンヌ様、さあ、どうぞこちらへ」
そうしてエイナに案内されて、リュシエンヌは洗い場へ足を踏み入れた。
広いそこには誰もいなかった。
他のスカラリーメイド達は既に下がっている。
だから、ここにいるのはリュシエンヌとルフェーヴル、リニア、そしてエイナだけである。
「こちらで食器を洗います」
そこには大きなシンクがいくつかあった。
壁には厚みのほとんどない棚が備わっている。
大きなシンクのうち、三つには水が貯めてあった。
「では、まずはここまで食器を運びましょう」
「はい」
脇に置かれていたサービスワゴンを使うように言われたので、それを押しながら先ほどの部屋に行き、リュシエンヌは木製の食器をワゴンへ載せた。
一人で出来るようになるためにも、ルフェーヴルやリニアは黙って見守るだけだ。
ちなみにルフェーヴルもリニアも皿洗いは出来る。
ルフェーヴルは幼い頃に師の下で生活していた時に、殆どが当番制であったため、嫌でも一通り家事は出来るようになった。
リニアは幼い頃からファイエット邸で働いており、実はスカラリーメイドからだったのでその仕事が身についている。
リュシエンヌが慣れない手つきで食器をワゴンへ載せるのを、リニアが内心ハラハラしながら眺めていた。
逆にルフェーヴルは微笑ましく眺めていた。
リュシエンヌは前世の記憶もあって、崩れない食器の重ね方、分け方は出来ていた。
サービスワゴンを押して洗い場へ戻る。
運ばれてきたワゴンを見て、エイナは驚いた。
新人にこの仕事を任せると大抵はめちゃくちゃに積んだり、バラバラに載せたり、その結果、バランスが崩れて食器を落として破損させてしまうことがある。
けれども、リュシエンヌはきちんと食器を同じ形の物に分けているだけでなく、平たい皿は下に、その次に深皿を乗せてと崩れ難い積み方をしてあった。
「運んだ食器に食べ残しがあった場合、こちらのゴミ入れに捨てます」
端の方にあったゴミ箱の蓋を開けて、エイナが食器の一つとフォークを手に取ると、器から食べ残しを捨てる仕草をする。
それを真似てリュシエンヌも器とスプーンを持ち、ゴミ箱へ捨てる仕草をした。
ぎこちない手つきのそれにルフェーヴルとリニアが、微笑ましい、という顔をする。
「食べ残しを片付けたら食器洗いに移ります」
移動するエイナの後をリュシエンヌが追う。
「第一に、ここで食器を水に浸します」
一番右端のシンクには水が貯めてあった。
エイナが持っていた食器とフォークを水に浸し、水の中で軽く汚れを落とすように動かした。
それを見たリュシエンヌも同じ動きをする。
「第二に、ここで食器を洗います。一旦食器をこの中へ置いて、そちらにあるスポンジに石鹸を擦りつけて泡立ててみましょう」
「分かりました」
二人ともシンクの中に食器を置く。
そして水を切ってあったスポンジを手に取り、水に浸すと、近くに置いてあった固形の石鹸をそれへ擦りつける。
更に水を含ませて両手で揉むようにスポンジをくしゃくしゃにして泡立てた。
そのもこっとした感触にリュシエンヌが少しだけ口角を引き上げた。
「泡立ったら、このスポンジで食器を洗います。しっかり泡立ててあれば、強く擦る必要はありません」
エイナがやってみせ、リュシエンヌが真似する。
リュシエンヌは酷く懐かしい気持ちだった。
前世では食器を洗うなんて何度もしていたことで、今、ここにきて、それを思い出していた。
久しぶりなので多少ぎこちないが、食器を落とさないようにしっかり持って、スポンジで丁寧に擦る。
スプーンも同様に擦る。
持ち手まで綺麗にした。
エイナは頷くと、食器を持ったまま横へズレる。
「第三に、ここで泡を落とします。ここはサッと潜らせる程度で、ある程度泡が落ちれば大丈夫です」
シンクの水に食器を潜らせる。
「更にもう一度、水で洗います」
次のシンクでは、もう少し丁寧に水に潜らせる。
「最後に水魔法で濯いだら、目の前の棚に食器を置いて水を切ります」
エイナは水魔法を展開して手から水を出すと、食器を洗った。
それからその手をリュシエンヌの方に動かしてくれたので、リュシエンヌもそれで食器を洗った。
そして目の前の棚に置く。
「ある程度水が切れたら、布で丁寧に拭きます」
濡れた手をハンカチで拭く。
それから、エイナから渡された布でリュシエンヌは今置いた食器を引っ張り出し、丁寧に、食器の裏や隙間まで拭って水気を取った。
それをエイナは満足そうに眺めた。
動きはぎこちないけれど、リュシエンヌの動きは丁寧で、こちらが注意しなくても、色々と気を付けているようだった。
エイナがあれこれと口を挟む必要もない。
「それでは残りの食器をお任せしてもよろしいでしょうか?」
「はい、大丈夫です」
そうしてリュシエンヌだけが洗い場に立つ。
まずは全ての食器を最初のシンクで軽く濯いで、汚れを落とし、次のシンクの中へ重ねていく。
それが終わったらスポンジで石鹸を泡立てて、食器を一つ一つ丁寧に洗う。
その後、手である程度泡を切ってから、二つのシンクにチャプチャプと食器を浸して泡を落とす。
そして最後のシンクの中に重ねていく。
「お水をお願い出来ますか?」
「かしこまりました」
エイナが魔法で水を出す。
リュシエンヌはそれで食器を洗っていく。
洗った皿は棚へ置いて水を切った。
全ての食器を洗い終えると、リュシエンヌはハンカチで手を拭き、それから皿用の布で水を切った食器を丁寧に拭っていく。
裏も表も水気が残らないように。
フォークの隙間やスプーンの内側も。
全ての作業を終えると、空いている場所に食器を重ねて置く。
「どうでしょうか……?」
恐る恐る問うリュシエンヌにエイナが頷いた。
「問題なく作業は出来ておりました」
重ねられた木製の食器を手に取ったエイナが確かめる。
汚れもなく、水気も拭き取られ、種類別に分けてあった。
大丈夫だと頷けば、リュシエンヌが安堵する。
「良かった」
それにエイナだけでなく、ルフェーヴルとリニアも小さく拍手を送った。
「おめでとうございます」
「とてもお上手でした」
「ええ、初めてとは思えません」
三人の言葉にリュシエンヌがえへへと照れ臭そうに笑った。
「本日の練習は以上でございます。明日もまたこちらへお越しいただけますでしょうか?」
「はい、今日はありがとうございました」
「リュシエンヌ様もお疲れ様でございます」
エイナとリュシエンヌが互いに礼を執る。
それから、木製の食器を棚に納めてリュシエンヌはルフェーヴルとリニアを伴い部屋へ戻った。
その後、文化祭までリュシエンヌは食器洗いの練習を毎日続けた。
最初の三日で木製の食器を卒業し、五日目で陶器の食器を洗えるようになった。
銀器も洗えるようになったけれど、磨くのにはかなり苦戦した。
銀器の磨き方は宮の執事に教わった。
そのおかげでリュシエンヌの食器洗いの腕はグングンと上がっていき、文化祭の頃には、一人で問題なく食器を片付けられるようになる。
それを見守っていたルフェーヴルが、後にアリスティードにこう漏らしていた。
「リュシーには何もしなくて良いよぉって言ってたけどぉ、たまにはああいう慣れないことを一生懸命やってる姿もかわいくてありかなぁ」
惚気を聞かされたアリスティードが呆れた顔をしたのは言うまでもない。
リュシエンヌの食器洗いは学院祭まで続き、その間、必ずルフェーヴルはリュシエンヌに付き添った。
段々と手慣れて、動きの早くなっていくリュシエンヌの成長をルフェーヴルは眺め続けたのだった。
学院祭後はさすがの王女も我が儘は言わなかった。
ただ、その後はお菓子作りをしても、リュシエンヌは「自分が使った物だから」と片付けまで参加するようになるのだった。
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