悪夢の中で / 世界の狭間
* * * * *
ガツンと首が絞まる感触で目が覚めた。
一瞬息が詰まったが、しかし、強制的に送られてくる空気によってそれはすぐに解消される。
視界いっぱいに白い天井が広がっていた。
見覚えのない天井に訝しむ。
……ここは、どこ……?
そこまで考えて記憶が甦る。
自分はさっきまで『光差す世界で君と』の世界にいて、悪役でありヒロインの邪魔をするリュシエンヌ=ラ・ファイエットにはめられて、処刑されたはずだった。
首を絞める縄の感触は生々しいほど残っている。
足場が消える浮遊感も覚えている。
顔にかけられたボロボロの袋の、擦れてチクチクと肌に触れる感触だって思い出せる。
それなのに、見知らぬ場所にいる。
状況が把握出来なくてぼんやりとしていると、シャッと何かが擦れる音がした。
視界の端で薄黄色が揺れた。
そちらへ視線を向ければ中年の女性が立っていた。
その女性は黒髪で、肌は黄色味を帯び、彫りの浅い顔立ちをしていた。
女性はこちらを見ると驚いた顔をする。
「 、目が覚めたのっ?!」
女性が駆け寄ってきた。
鬱陶しいと思って逃げようとしたが、何故か体が全く動かない。
「ああ、良かった……!」
女性がナースコールを押した。
頭上から「どうしましたか?」と声がする。
それに女性が喜色混じりの声を上げる。
「看護師さん、 が目を覚ましたんです!」
その声に「すぐに参ります」と返事があった。
女性はこちらを見ると微笑んだ。
「もう大丈夫よ、 。ここがどこだか分かる?」
……分かるわけないじゃない。
二度瞬くと女性が泣きそうな顔をする。
「ここは病院よ。あなた、同級生の子に突き飛ばされて電車とぶつかったのよ。覚えてない?」
……突き飛ばされて、電車に……?
ザァッと全身の血の気が引く。
頭の中に思い起こされるのは十数年前の記憶。
友達との遊びでやった罰ゲーム。
別のクラスの明らかに根暗そうな男子に告白をするというのもので、自分はそれをやった。
そして学校からの帰り道。
駅で電車を待っている時に背中を突き飛ばされた。
落ちる時に振り向いたら、告白してやった男子がそこにいて、自分へ向かって両手を伸ばしていた。
……まさか、ここは元の世界なの?
……うそ、ありえない! 何で?!
叫びたくても口には何か管みたいなものが入れられており、そうでなくとも、自由に口を動かすことも出来なかった。
女性が誰かの手を握っている。
……いや、あれは私の手……?
しかし握られている感触は一切ない。
混乱しているとガラリと音がした。
視線を動かせば、白衣を着た医者だろう男性と看護師らしき女性がいた。
医者は近付いてくると声をかけてきた。
「 さん、聞こえますか?」
前半がよく聞こえなかった。
二回瞬きをする。
目の前に指を差し出された。
「指を目で追ってください」
左右に動く指を目で追う。
「立てた指の数だけ瞬きをしてください」
そう言って指を三本立てた。
だから目を三回瞬かせた。
今度は一本。
だから一回。
それから手を握られたり、足を動かされたりしたけれど、全く感覚はなかった。
まるで自分のものではないかのように感覚という感覚が一切感じられない。
触られているということすら分からなかった。
「ここがどこだか分かりますか? 病院です。はいなら瞬きを一回、いいえなら二回してください」
一回だけ瞬く。
「 さんは電車と接触しましたが、奇跡的に一命を取り留めました」
もう一度瞬く。
「 さんはこちらに入院して二週間ほどが経ちました。今、ご自分がどのような状態にあるか分かりますか?」
二度、瞬いた。
医者の目が一瞬揺らめいた。
「…… さんは一命を取り留めました。手術も最善を尽くしましたが、事故の影響で恐らく体に障害が残ってしまうと思われます」
医者の言葉に呆然とする。
「時間はかかりますが少しずつリハビリをすれば、以前ほどではなくとも、動かせるようになる部分もあるでしょう」
視界が滲む。
自分が泣いているのだと理解するのにしばらくかかった。
涙で視界が歪むのに、それを自分の手で拭うことも出来ず、傍にいた中年の女性にハンカチで拭かれる。
女性の顔を見て、ようやく思い出した。
……お母さん……。
「ああ、でも が生きていてくれて良かった……」
母親が泣く。
……良かったって、何が……?
こんな、身動き一つ取れない体なのに?
医者はリハビリで動けるようになる部分もあると言われたが、それは絶望的だと理解していた。
感覚がないのにリハビリなどしようがない。
「この子が生きているだけで幸運です」
……あの世界に戻りたい。
あれが夢なのか現実なのか分からない。
でも夢でもいい。
動かない体は呼吸さえ自分でままならない。
こんな現実より、ずっといい。
悪役に手を出さなければ、今もまだあの世界にいられたのだろうか。
こぼれた涙を自分で拭うことも出来ない。
そこは地獄に他ならなかった。
* * * * *
あれから一年が経った。
相変わらず入院したままだ。
リハビリをしようにも感覚がなくて、体も動かず、言葉を発することも出来ない。
ただ自分で呼吸と、食べ物を飲み込むことだけは出来る。
しかし咀嚼は出来ず、流動食しか食べられない。
体も動かせず、排泄から入浴まで、全て人の手を借りなければならず、最初の頃にあった羞恥心はなくなっていた。
母親も父親も頻繁に会いに来る。
けれどもその表情は暗い。
生きているだけで良いと言っていたが、指一本動かせない娘に絶望している風だった。
時折身支度を整えてくれるが、鏡の中の自分は痩せこけ、とても美人とは言い難かった。
……オリヴィエはあんなに可愛かったのに。
……あの世界ではあんなに贅沢出来たのに。
思い返すのはあの世界のことばかりだった。
真っ白な部屋で刺激もなく、季節も感じられず、一日一日を横になって過ごすのは精神的につらい。
たまに看護師や両親が車椅子で外に出してくれるけれども、動くことすら出来ず、気温などもほぼ分からない。
表情もまともに動かせない。
まるで人形になってしまったようだ。
それにどうしてか自分の名前が思い出せない。
自分の名前が書かれているはずの、部屋のネームプレートも何度見ても読むことが出来なかった。
そして他の人間が口に出しても聞こえない。
そこだけ無音になる。
……わたしの名前は何だっけ。
思い出そうとしても、思い出せるのはオリヴィエ=セリエールというあの名前だけ。
それなのに鏡に映る自分は全く違う姿で。
あの世界で十六歳まで生きたのに。
そこから反転するかのごとく、こちらの世界に戻され、それからはずっとこの世界だ。
色褪せた世界は酷く退屈で。
体は外からの刺激を受け付けない。
どんなに周りの人が触っても感じない。
マッサージもリハビリも、触られた感触がなく、自分の意思で動かすことも出来ない。
暑い寒いですら分からないのだ。
これこそが夢なのではないかとすら思う。
……そう、悪い夢だ。
あの世界で処刑されたのもきっと夢だ。
……本当の私はきっと男爵家のベッドで寝ているだけ……。
そうとでも考えなければ正気でいられない。
いや、もう自分が正気なのかも分からない。
……どうでもいいから、誰か助けて。
この地獄はいつまで続くのだろうか。
自分の名前すら分からず、動くことも、喋ることも、感情を表すことすら出来ない体。
その黒い瞳は茫洋と天井を眺める。
彼女の両親は今日も見舞いに訪れる。
自ら死ぬことすら許されない世界。
そこから、衰弱死するまで何年も、その天井を眺めることになるのだった。
それが彼女の両親の願いだったから。
* * * * *
「あなた、何がしたかったの?」
真っ白な空間に声が響く。
白い空間に白い椅子、白いテーブルがある。
その上に人の頭ほどの水晶が置かれていた。
そこには学院生活を送る琥珀の瞳の少女が映っている。
「何って、ただのゲームだよ」
「面白かったでしょ?」と別の声が言う。
白い椅子には美しい女性が座っていた。
黄金色の長く艶めく髪に、琥珀のようなややオレンジがかった金色の瞳をした女性は神の一人だった。
黄金の女神が眉を寄せる。
「全く面白くないわ」
行儀悪くテーブルに座った人物、銀髪に淡いグレーの瞳の男性が「あれ〜?」と小首を傾げた。
黄金の女神の世界の人間に別の魂を無理やり入れたのは、この男神だった。
「上位神が寄越した魂だから絶対面白くなると思ったんだけどなぁ」
「だからってわたしの加護を授けた人間にまで入れないでちょうだい」
「でも、そのおかげで君の加護を受けた人間は悲劇のループから外れたでしょ? 良かったじゃん」
「それはそうだけど、そういう問題ではないわ」
黄金の女神が溜め息をこぼす。
「とにかく、もうこういうことはしないで」
女神の世界は同じ時間を何度も繰り返していた。
それは、加護を授けたある少女のためだった。
だがその少女はどうしても幸せになれない。
何度繰り返しても、不幸になる。
その行い故に加護が外れてしまう。
その少女は女神にとって特別だった。
だから何とかしたかった。
しかし必要以上に神が人間の世界に干渉することは許されておらず、これまでの少女は不信仰で、神託も与えられなかった。
それをこの銀の男神が捻じ曲げた。
自分達より上位の神の世界から譲り受けたという魂を、勝手に黄金の女神の世界の人間に移してしまった。
けれども、そのおかげで少女の人生に変化が訪れた。
「分かった、分かった、もうしないって。あと代わりに君の世界からいくつか魂もらって上位神の世界に移したから」
「いつの間に……」
「あ、怒らないで? やれって言われたんだよ〜」
銀の男神が全く悪いと思っていなさそうな様子で言い、テーブルから降りると振り返る。
「それじゃ、また来るね」
そう言って時空を切り開いて去っていった。
銀の男神が消えると黄金の女神が水晶を見る。
そこには、琥珀の瞳の少女が、灰色の瞳の青年と身を寄せあって眠っている姿が映し出されていた。
「……わたしの気も知らないくせに」
加護を与えた少女は女神によく似ている。
その横にいる青年は男神によく似ている。
女神も男神も同じ時に生まれた神だった。
それもあって、昔からずっと一緒にいた。
こうしてそれぞれに世界の一つを任されるまでは。
「せめて、この世界の中の『わたしの娘』くらいは『あなたの息子』と結ばれてもいいじゃない」
琥珀の瞳の少女には女神の力の欠片を混ぜた。
灰色の瞳の青年には男神の力の欠片を混ぜた。
でもどうあっても二人が出会うことはなかった。
特別な少女はその特異性か、どんな人生を送っても幸せな結末にはなれない。
だが、今回は違った。
上位神から譲られたという魂。
それらのせいで世界に変化が現れた。
そして少女と青年は出会った。
二人は女神の望む関係になった。
「……良かったわね、リュシエンヌ」
女神は水晶に触れ、微笑んだ。
何度繰り返しても悪夢から抜け出せなかった少女。
今度こそは幸せな人生を歩んで欲しい。
「……でも彼にこんな一面もあったのね」
ルフェーヴル=ニコルソン。
銀の男神の力の欠片を持ったこの人物は、女神の欠片を持ったリュシエンヌと同様に、男神の性質も受け継いでいる。
いつか、わたしに見せてくれるかしら?
水晶を撫でながら女神は思う。
彼女は男神を愛している。
生まれて、目が合った瞬間から、ずっと。
彼だけを愛している。
「でもやっぱり今回のはやりすぎだわ」
惚れた弱みというやつで、腹は立っても男神に本気で怒ることが出来なかった。
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