豊穣祭(2)
オリヴィエの動きが酷くゆっくりに見える。
衣装の隙間から何かを取り出した。
右手にその何かを握っている。
それがゆっくりと振り上げられた。
銀色の、刃の小さなそれはナイフに見える。
でもあまりにも細身なので、もしかしたら普通のナイフではないのかもしれない。
わたしはそれを見て、近くにいた女の子に手を伸ばす。
そして女の子を突き飛ばした。
位置的に、そのままでは女の子も巻き込みかねない。
オリヴィエがナイフを持ったまま、わたしへ大股で近付き、腕を振り下ろす。
でも不安はなかった。
……だってわたしにはルルがいる。
背後から伸びて来た手に抱き寄せられる。
その手に体を預け、抱き締められる。
ルルのもう片手には小ぶりのナイフが握られている。
どうやらそれで弾くつもりのようだ。
そしてオリヴィエのナイフがルルのナイフとぶつかる直前、目を開けていられないほどの閃光が天上から落ちて来た。
「キャアアアァアアッ!!?」
思わず閉じた瞼の裏まで真っ白になる。
轟音が耳を劈く。
不意にルルの腕の感触が消えた。
ハッとして目を開けると、そこには何故か美しい花畑が広がっていた。
鮮やかな緑に色とりどりの可愛らしい花々。
その向こうにはどこまでも森と青空が広がり、花畑の間を小動物が駆け抜け、空を小鳥が飛んでいく。
一瞬、その美しさに見入ってしまった。
だがすぐに我へ返り、慌てて振り返る。
「……え?」
そこには『わたし』がいた。
まるで鏡合わせのように、リュシエンヌ=ラ・ファイエットが立っていた。
手に小さな花束を持って、佇んでいた。
「初めましてね、わたし」
目の前のリュシエンヌが言う。
どこか高慢な口調だった。
外見はどこからどうみてもわたしそのもので。
でも、その口調は全く違って聞こえる。
そんな高慢な口調を話すのは一人しかいない。
「もしかして、リュシエンヌ……?」
目の前のリュシエンヌが笑った。
「そうよ、わたしはリュシエンヌ。あなたであって、あなたではない、でもあなたの中にいる、リュシエンヌ=ラ・ファイエットよ」
その言葉に衝撃を受ける。
……わたしもオリヴィエと同じ……?
オリヴィエの中にオーリの存在があったように。
わたしの中にリュシエンヌがいたのか。
もしかしてわたしもオリヴィエみたいに、本物のリュシエンヌにつらい思いをさせていたのではないだろうか。
そう思うと体が震えた。
「……あ、ご、ごめんなさい、わたし……」
オーリの手紙を読んで苦しさは知っていた。
自分の体が自分の意思とは関係なく動かされ、自分の望まないことをされる苦しみや悲しみ。
それをわたしも本物のリュシエンヌにさせていたのだとしたら──……。
膝から力が抜ける。
柔らかな草の上に座り込んでしまった。
「謝らないでちょうだい」
だが、リュシエンヌは言う。
「わたしは別に出ようと思えば出られたわ。でも出る必要がなかったから出なかったのよ。あのオーリ? とかいう子とは違って、あなたに負けて出られなかったわけではないわ」
見上げれば、ツンと顔を逸らしたリュシエンヌがいる。
高慢な口調だけれど、ちょっとだけ早口で、すぐに顔を戻すと腰に手を当てて見下ろされる。
「どういうこと……?」
ぽろりと本音が漏れる。
リュシエンヌが呆れたように小さく息を吐く。
まるで我が儘な子供を見るみたいな目だ。
「だから、わたしは自分の意思であなたの中にいたのよ」
「それは分かるよ。ずっと、中にいたんでしょ?」
「ええ、そうよ。あなたが前世の記憶を取り戻した時にわたし達の記憶は二つに分かれたの。それから十一年、わたしはあなたの中からずっとあなたや周りの様子を見て来たわ」
十一年、と呟いてしまう。
きっとオーリもそうだったはずだ。
「つらく、なかったの?」
リュシエンヌが肩にかかった髪を払う。
「全くつらくなかったと言えば嘘になるわね」
「やっぱり……」
「だけど、それはわたしの不甲斐なさを感じてのものよ。あなたのせいではないわ」
バッサリと言い切られて、驚いた。
……わたしのせいではない?
「でも、わたしはずっとあなたの体で好き勝手に過ごしてきたんだよ?」
責められて当然だ。
だけどリュシエンヌが顔を背ける。
「それはそうだけど、違うのよ」
その声は先ほどよりか少し柔らかい。
「わたしは、表に出たのがあなたで良かったと思ってるの。もしわたしが出ていたら、きっとあなたの記憶の中のリュシエンヌになっていたから」
「わたしの記憶を覗いたの?」
「覗いたというか見えてしまったのよ。わたしだって望んで見たわけじゃないわ」
「そっか、ごめん……」
不機嫌そうに琥珀の瞳を眇められてつい謝罪の言葉が口をついて出た。
オーリと同じでリュシエンヌもわたしの記憶を共有してしまったのだろう。
……まあ、でも、見られて困ることはないと思う。
「それはともかく、わたしはあなたの記憶で本来のリュシエンヌの未来を知ったのよ。信じられる? お兄様に切られたり、ロイド様に自領に監禁されたり、修道院に送られたり、わたしの人生散々じゃない!」
リュシエンヌの怒りはごもっともだ。
「そうだね、後宮でもあんなに虐げられていたのに、更に養子先でも冷たくされたら性格も捻くれるよね」
「それはわたしの性格が悪いと言いたいの?!」
「あ、ごめん、原作のリュシエンヌだったらって話だよ。今のあなたは原作とは違うんでしょ?」
「当然でしょ! あんな馬鹿みたいな女と一緒にしないでちょうだい!!」
リュシエンヌが頬を膨らませて横を向く。
それにもう一度「ごめんね」と謝れば、まだ不満そうながらもこちらを向いてくれた。
原作のリュシエンヌよりも苛烈さがない。
本物のリュシエンヌだけど、本人の申告通り、やっぱり性格は少し違うようだった。
「どうして出て来なかったの?」
このリュシエンヌには親しみが湧く。
「さっきも言ったでしょ? わたしが出たら原作のリュシエンヌみたいになりそうだったのよ。あなたがお兄様やルフェーヴルと仲良くなってるのを見た時、正直凄く嫉妬したの。同じ『わたし』なのに、どうしてそこにいるのはわたしじゃないのって」
そう言ったリュシエンヌが俯いた。
座り込んでいるわたしからは顔が見えていて、唇を噛んだ表情はとても悔しそうだった。
それでもわたしの視線に気付くとリュシエンヌは悲しそうに微笑んだ。
「でも同時に分かっていたの。わたしじゃダメなんだって。お兄様やルフェーヴル、みんなが好きなのは『あなた』であって『わたし』ではないのよ」
不謹慎かもしれないが、儚げで美しい笑みだった。
「原作の記憶も見て、あなたの行動を見て、わたしの出る必要はないって思ったわ。むしろわたしが出ることでわたしは破滅してしまう」
「わたしの記憶を見たあなたならそんなことにならなかったんじゃない?」
リュシエンヌが首を振る。
「いいえ、わたしはリュシエンヌ=ラ・ファイエット。あの苛烈で愚かでどうしようもなく身勝手な部分は確かにわたしの中に存在するのよ。あなたの目を通して何度もそれを思い知らされたわ」
困ったように眉を下げたリュシエンヌが肩を竦めた。
「それにあなたを通じてわたしは幸せだったわ。お兄様もお父様も、リニアもメルティも、誰もがわたしを愛してくれて、唯一の人と心が通じ合う喜びも知った。わたしの十一年間は喜びや幸せに満ちた時間だったわ」
そしてリュシエンヌが、大事なものを抱え込むように両手でそっと自分の胸を押さえた。
本当に幸せそうにリュシエンヌが笑う。
「ありがとう、わたし。あなたのおかげでわたしはあの酷い未来を回避出来たのよ」
「でもあなたの十一年を奪った」
「違うわ。わたしがあなたに託したの。ルフェーヴルやお兄様との関係を見て、きっとあなたなら変えられると思ったから」
……何故だろう。
涙があふれ出してくる。
目の前のリュシエンヌも泣いていた。
「この手を取って」
リュシエンヌがわたしへ手を差し出す。
白くて、細くて、折れてしまいそうだ。
「十一年見てきて思ったの。あなたこそがリュシエンヌ=ラ・ファイエットになるべきだって」
「……この手を取ったら、あなたはどうなるの?」
「今度こそ、わたしはあなたと一つになるわ」
それは、つまり、目の前のリュシエンヌ=ラ・ファイエットの意識はわたしと完全に同化して、もう彼女の意識はなくなってしまうということか。
「そんな……」
それは彼女に取っての死なのではないだろうか。
しかしリュシエンヌは首を振った。
「わたしは消えるわけではないわ。あなたと一つになって、わたしの幸せを得るのよ。あなたにとってはもしかしたら今までよりも感情的になってしまうかもしれないけれど、ね」
そう茶化すようにリュシエンヌが言う。
「あなたが幸せなように、わたしも幸せになりたいの。あなたはわたし。わたしはあなた。あなたの愛する人は、わたしの愛する人でもあるの」
「あなたもルルを?」
「ええ、でもルフェーヴルが愛称を許したのはあなたよ。わたしではない。でもわたしも彼に愛されたいのよ。あなたが愛したい、愛されたいと思うようにね」
ギュッと胸が苦しくなる。
わたしはあなたで、あなたはわたし。
わたしの気持ちとあなたの気持ちは同じもの。
でも今のままではリュシエンヌはわたしではない。
だから一つになりたいのだ。
「だから、お願い。わたしを受け入れて」
そう言ったリュシエンヌの瞳が不安そうに揺れる。
わたしは苦しい胸を我慢して笑った。
涙が止まらない。
「分かったよ、わたし」
そうしてリュシエンヌの手を取った。
眩しい閃光に包まれる。
耳元で「ありがとう……」とリュシエンヌの声がした。
ふっとルルの腕の感触が戻ってくる。
そして女性の柔らかで、けれど厳かな声がした。
オリヴィエ=セリエールの悪しき魂は別たれた。
魂は永久に戻ることはないでしょう。
全ては悪しき魂の行い。
オリヴィエ=セリエールに罪はありません。
閃光がパァッと光の粒になって弾けた。
同時に、目の前に二つの影が座り込んだ。
どちらも気を失い舞台に倒れている。
一人はオリヴィエ=セリエールだった。
そしてもう一人は黒髪に黄色味を帯びた肌の、彫りの浅い顔立ちの少女だった。
弾けて消えた光と共に、胸の中が不思議な充足感と喜びと、少しの喪失感でいっぱいになる。
気付けば泣いてしまっていた。
「リュシエンヌ様、大丈夫ですか?!」
珍しくルルが大きな声を出した。
それに半ば呆然としながら頷き返す。
「うん、大丈夫……」
わたしに怪我がないか確かめたルルに、きつく抱き締められる。
「良かった……!」
本心からの声だった。
抱き締められた体から体温が伝わってくる。
それに段々と現実感を取り戻していく。
そっとルルを抱き締め返せば、更に強く抱き締められた。少し苦しいほどの抱擁だった。
騒めきが耳に飛び込んでくる。
「今のは何だ?」
「まるで空から降ってくるような声だったわ」
「もしかして女神様のお声か……?!」
人々が顔を見合わせる。
すると、大司祭様が震える声で言った。
「おお、今のは女神様のお声で間違いありません! 女神様が御神託をなされたのです!」
その言葉に騒めきが一層強くなる。
人混みを掻き分けて誰かが舞台へ近付いてくる。
そしてその人物が舞台へ上がってきた。
魔法式が展開されて、その人物を包み込むと、長い黒髪が風に舞った。
「……お兄様」
わたしの呟きにハッとルルの腕の力が弱まった。
「どうか落ち着いて聞いて欲しい! 私はアリスティード=ロア・ファイエット! この国の王太子である!」
突然の王太子の登場に人々が驚いた顔をする。
だが大司祭様が頷いたので、人々は「本当に王太子殿下が?」「どうしてここに?」と首を傾げた。
「今、女神様がおっしゃられた通り、ここに倒れているオリヴィエ=セリエールには悪しき魂が取り憑いていた! だが、今、女神様のお力でその魂はオリヴィエ=セリエールより引き離された!」
それにわたしも倒れている黒髪の少女を見た。
この国の人種とは明らかに違う外見だ。
アリスティードが手を振ると、数名の騎士達が気絶している黒髪の少女を拘束し、連れて行く。
「この悪しき魂は王家に叛意を持ち、私の婚約者を貶めようとしただけではなく、ここにいる王女にも危害を加えようとした! 皆もそれは目撃していただろう!」
お兄様の言葉に街の人々が頷いた。
舞台の床にはナイフが落ちている。
オリヴィエが、いや、黒髪の少女が落としたものだ。
「女神様は体の自由を奪われた、無関係なオリヴィエ=セリエールの魂を救うために、悪しき魂を引き離したのだ!」
大司祭様の目が煌めいた。




