13日目(2)
その後もルルの膝の上で過ごした。
高い位置にある小窓からは、気付けば夕日が差し込んできて、部屋の中をオレンジ色に染めていく。
いつもならばルルは用事が済むと姿を消してしまうけれど、今日はわたしが起きてから、ずっとここに居てくれている。
せっかく良い雰囲気だったのだが、わたしのお腹の虫がグルルルゥと大きく鳴いたので、ルルが声もなく笑って、少し恥ずかしかった。
でもルルはビスケットの残りがあるかどうか聞き、わたしを毛布の上に降ろすと奥の机まで取りに行ってくれて、戻ってくるとまたわたしを膝の上に乗せた。
わたしはルルに見られながら食事をすることになった。
固いビスケットにかじりつくわたしをルルは目を細めてニコニコと眺めていた。
ビスケットにかじりつくと当たり前だが喋ることは出来なくて、しかしルルも特に何か話すことを期待していたわけではないらしく、穏やかな沈黙がわたし達の間に落ちる。
「そういえばぁ、その肩の怪我はいつやられたのぉ?」
ちみちみと食事を続けていたわたしは指を二本立てて見せた。
それにルルが触れる。
「昨日?」
一本目の指に触れたので頷く。
二本目の指にも触れる。
「昨日の、昨日?」
それにまた頷いた。
ルルが不満そうに一瞬眉を寄せ、だけど、すぐに目尻を下げた。
「リュシエンヌは二日も我慢したんだねぇ」
また、よしよしと背中を摩られる。
「でもそれも明日で終わりだよぉ」
「あした?」
「そう、明日ぁ」
……明日クーデターが起きるってこと?
思ったよりも早いことに若干驚きつつ、でもそれ以上にホッとした。
この虐待生活からやっと抜け出せる。
「リュシエンヌは明日、外が騒がしくなっても部屋から出ちゃダメだよぉ? ……ん〜、そうだねぇ……」
ルルが物置部屋を見回した。
「あ、あの大きなクローゼットの引き出しに隠してあげるから、オレが来るまであの中でジッとしていられる〜?」
指差されたのは物置部屋にずっと放置されている大きなクローゼットだった。
引き出しも一つ一つがかなり奥行きや横幅、高さがあるので、小柄なわたしなら仰向けになっていれば十分隠れられそうだ。
「あそこに入るの?」
「そうだよぉ、怖〜いオジサン達が来るけど見つからないように静かにしていられる?」
それってクーデターに参加する兵士達のこと?
「うん。でも、わたし、引き出ししめられないよ?」
「それはオレがやってあげるぅ。夜になったらあそこに入れておくから、オレが来るまで寝てると良いよぉ」
さすがにそこまで神経図太くない。
……と、思う。多分。
だけどルルが迎えに来てくれるなら安心だ。
知らない人について行くのも、抱えられるのも嫌なので、やっぱりルルがいい。
頷けば、ルルに頭を撫でられる。
それに安心したのか、元々怪我のせいで疲れていたのか、ビスケットをかじりながらウトウトと船を漕いでしまった。
首がかくんと下がることでハッと目が覚めるけれど、やっぱり眠くてすぐに眠りに落ちかける。
それでも何とかビスケットにかじりついていたが、するりと大きな手がそれを持っていった。
パキ、バキ、ザリ、と固いものが砕ける音がした。
「リュシエンヌ、口開けてぇ」
言われた通りに口を開ければ、サラサラと何かが入ってくる。
……あ、ビスケット……?
粉々に砕けたそれが口の中に入り、唇に硬いものが触れ、少量の水分が流れてくる。
もぐもぐと砕けたビスケットを口の中で噛んで、水で飲み下し、また粉が入ってきてを数回繰り返す。
最後に入ってきた粉は苦かった。
青臭くて、苦くて、ちょっとエグくて、まずい。
「痛み止めと炎症を抑える薬だよぉ」
水が容赦なく入ってきたのでそれも飲み込む。
そうしてコロンと何かが口に落ちる。
「ちゃんと飲めて偉いねぇ」
甘くて、香ばしくて、ほろ苦くて、美味しい。
前にもらったのと同じチョコレートだった。
口の中で溶けていく甘さに、薬の苦味で強張っていた体がふにゃりと緩む。
……もう、ねむ……ぃ……。
落ちてくる瞼に抗うことは出来なかった。
* * * * *
足の上でリュシエンヌが眠りに落ちる。
体勢が崩れてしまわないよう腕で支えると、当たり前のように小さな体が擦り寄ってくる。
……あ、食べかけ。
微かに開いたリュシエンヌの口の中に、与えたチョコレートが溶けきらずに残っていた。
唇を指で触るともにょもにょと口が少しだけ動き、しかし食べ終わる前にまた口の動きが止まる。
……なんだろうなぁ、この感じぃ。
リュシエンヌはルフェーヴルがいなければまともな食事も出来ず、少し目を離すと怪我を負い、まるで生まれたての鳥の雛みたいにルフェーヴルに懐いている。
ルフェーヴルからしたら手がかかる子供だ。
しかしながら、それが嫌ではない。
むしろルフェーヴルにとってはその『手がかかる』点に好ましさすら感じる。
この手の中にリュシエンヌの命運があり、こちらの言動に喜んだり寂しがったりする姿はとても素直で分かりやすく、でもだからと言って自分の境遇を悲観している風でもない。
小さな唇を開けさせるとチョコレートはなくなっていた。
無防備に開いているそこへ指を入れ、狭い口内の内側を覗き込んで確認する。
……ん〜、まだ荒れてるねぇ。
舌は大分良くなってきたようだが、頬の内側などはただれたままだ。
拷問の一つに、罪人に煮え湯──つまり熱湯だ──を飲ませるというものがある。無理やり口をこじ開けて、そこに沸騰した湯を注ぎ、それによって口内や食道といった体の内側を傷付けるもので、相当な痛みがある。
リュシエンヌがされたのはそれに等しい。
こんなに柔らかくて薄くて弱い皮膚では、最初の一口目から火傷で痛んだだろう。
それも濃く煮出した紅茶なんて渋くて飲めたものではないというのに、熱湯で淹れられたそれをリュシエンヌは飲み切った。
そこはルフェーヴルも純粋に凄いと思った。
もしルフェーヴルがあんなものを出されたら、テーブルごとそれを出した相手に蹴り返している。
リュシエンヌの口から指を離した。
……甘い匂いがする。
暗殺者として臭いのする物は今まで控えていたが、今日くらいは良いだろう。
どうせこの後は依頼主の元に戻るだけだ。
ルフェーヴルは自身も一粒だけチョコレートを口に放り込み、小首を傾げた。
……甘いけど、いつもより甘いかも?
仕事の依頼のない日にたまに食べるチョコレートは、実はルフェーヴルの好物でもあった。
怪我をして食欲がなくても、死ぬほどまずい薬を飲んでも、仕事で苛立つことがあっても、チョコレートだけはルフェーヴルを癒してくれる。
それだけは他の何にも代え難い。
……あ〜、そっかぁ。
ふっと頭に浮かんだことに納得した。
小さくて、茶色くて、力や熱を加えたらすぐに潰れたり溶けたりしちゃうけど、食べると甘くて、少し苦味があって、独特な香りがして、不思議とクセになる。
……リュシエンヌってチョコレートっぽい。
ちっちゃくて、茶色くて、ルフェーヴルよりずっとずっとか弱くて、接してみると素直で可愛くて、可哀想で、ルフェーヴルだけを見つめる琥珀の瞳は宝石みたいで、不思議と構いたくなってしまう。
一度味を知ってしまったら忘れられない。
たとえ離れても、そのうち食べたくなる。
一緒にいると心が穏やかになれる。
ルフェーヴルは納得すると同時に、自分の好きなチョコレートみたいなリュシエンヌを自分のものに出来ることに喜びを感じた。
きっと砂糖を入れたら入れただけ甘くなる。
自分好みのチョコレートになるかもしれない。
……今でも十分好みだけどねぇ。
甘くて甘くて美味しいチョコレートに出来上がったら、それをルフェーヴルは大事に大事に守り、ゆっくり味わう。
「……絶対にオレだけのものにしないとね」
たった一粒だけの大事なチョコレート。
ルフェーヴルは毛布の山から一枚だけ抜き取り、それを机の上へ敷いてリュシエンヌを一度そこへ寝かせる。
それから先ほど選んだクローゼットに向かい、扉からは死角となる一番下の位置にナイフで拳大ほどの丸い印をつけ、風魔法でその丸の部分を切り抜いた。
指で内側に向かって押せば、クローゼットの中にゴトンと切り抜いた部分が落ちる。
下の引き出しを全て開け、切り抜いたものと埃を取り払って綺麗にする。引き出しを押し込むと壁と引き出しの穴が繋がる。これで空気穴は出来た。
二つある引き出しの内側部分の壁を切り、一つの空間にしたそこへ、次にリュシエンヌが使っていた毛布を引き出しの中に敷いていく。
最後にボロボロのクッションを置き、机の上で眠っているリュシエンヌの元へ戻る。
リュシエンヌを毛布で包み、その胸元にルフェーヴルがいつも持ち歩いている水筒とビスケットの入った包みを入れておく。
これなら途中で喉が乾いたり空腹になることもないだろう。
整えた引き出しの中にリュシエンヌを仰向けに寝かせる。
無駄に大きなクローゼットで良かった。
おかげでリュシエンヌが横になっても余裕がある。
「おやすみぃ。……明日迎えに来てあげるから、良い子で待ってるんだよぉ?」
そっと長い髪を中へ仕舞ってやり、左右の引き出しを同時にクローゼットへゆっくりと押し込んだ。
空気穴もあり、水も食事もあり、それなりに空間もある。
飲ませた痛み止めは眠くなる作用もあるので、もしかしたら明日はギリギリまで起きないかもしれない。
ルフェーヴルは物置部屋の扉を開け、廊下へ出る。
風魔法で物置部屋の埃を軽く舞い上がらせて、リュシエンヌの生活していた痕跡を誤魔化しておいた。
* * * * *
夢を見ている。
夢の中で、これは夢だと理解するのは不思議な気持ちだった。
わたしは宙の少し高い位置にいて、眼下には色とりどりの可愛らしい花が咲く庭が広がっている。
その庭の中、可愛らしい白いレースの縁のパラソルの下には、やっぱりこれまた可愛らしい丸テーブルと椅子が二脚あった。
テーブルの上には色鮮やかで美味しそうなお菓子があり、二人分のティーカップが置かれていた。
椅子には二つの人影が座っている。
一つは女の子だろう。
後ろ姿しか見えないけれど、艶のあるダークブラウンの髪に柔らかなレモンイエローの可愛らしいドレスを着ている。
女の子の手には皿があって、茶色のクッキーが数枚そこに並べられていた。
女の子の向かいに座る青年が皿に手を伸ばす。
ひょいとクッキーを一枚摘み、サク、とそれを一口食べる。
……もしかして、ルル?
柔らかな茶色の髪に、切れ長の灰色の瞳を細めて嬉しそうにクッキーを食べたのは見覚えのある綺麗な顔だった。
「……どう? 美味しい?」
女の子がどことなく不安そうな、それでいて期待のこもった声でルルに聞く。
クッキーを食べ終えたルルが頷いた。
「うん、美味しいよぉ。リュシエンヌは料理も出来るんだねぇ」
「そんなことないよ、教えてもらったから作れたの。でもルルに美味しいって言ってもらえて嬉しい」
「オレのために作ったから〜?」
あ、女の子はわたしなんだ?
ルルが茶化すように言う。
女の子、わたしは素直に「そうだよ、ルルに食べて欲しかったから頑張ったの」と頷いた。
それにルルが目尻を下げてふっと笑った。
「良い子良い子」
伸びた手がわたしの頭を撫でる。
子供扱いはそろそろやめて欲しいけど、でも、ルルに頭を撫でてもらうのは好きだから嫌だとも言えなくて。
結局、嬉しくてそれを受け止めてしまう。
そんなわたしの気持ちが手に取るように分かった。
「これ全部食べてもいーぃ?」
ルルがわたしの頭から手を離して、わたしの持っていた皿を指差した。
それにわたしが頷き返す。
「もちろんいいよ!」
「ありがとぉ」
ルルはわたしから皿を受け取るとテーブルに置き、一枚一枚時間をかけてゆっくりと食べていく。
わたしはそれが嬉しくて、紅茶を飲みながら、ルルがクッキーを食べる姿を飽きもせずに眺めている。
ルルが最後の一枚をわたしの口元へ差し出した。
「リュシエンヌにもご褒美ぃ」
差し出されたそれにパクリとかじりつく。
サク、とほどよい食感の音がする。
チョコを混ぜたクッキーは、チョコの香りと甘み、焼き上げた香ばしさでとても美味しそうだ。
ルルの手からクッキーを食べるわたしを、今度はルルが微笑を浮かべて眺めていた。
ルルとわたし以外は誰もいない。
穏やかで、和やかで、何も邪魔するもののない、二人の幸せな世界。
夢だと分かっているからこそ、切なくて、そうなったらいいのにと思いながら景色が霞んでいった。
* * * * *