歌姫と練習
「王女殿下、今お時間よろしいでしょうか?」
そう声をかけてきたのは音楽の授業の教師だった。
丁度授業を終えて教室に戻るところだ。
特に急ぐ用事もないので頷いた。
「はい、大丈夫です」
お兄様とロイド様、ミランダ様も待っていてくれるらしい。
「実は、秋の豊穣祭で学院から出ていただく歌姫の一人にリュシエンヌ様はどうかという話が出ているのです」
「わたしが、ですか?」
「ええ、リュシエンヌ様はとても歌がお上手ですので」
お兄様達もそれに表情を明るくする。
……うーん。
豊穣際について聞いてみると、今回、学院側からは二人の歌姫を出す予定らしい。
豊穣祭では街で選ばれた歌姫も出るそうだ。
歌姫と言っても、豊穣祭で女神の賛美歌を歌うだけなのだけれど。
……原作ではヒロインちゃんが、お兄様ルートで出ていたっけ。
「もう一人の歌姫は誰ですか?」
音楽の教師が答える。
「一年のオリヴィエ=セリエール男爵令嬢です」
……歌、上手いんだ。
歌姫は歌さえ上手なら選ばれる。
だから、現実世界ではお兄様ルートに入るとか関係なく、歌の上手い生徒が出ることとなる。
「もしリュシエンヌ様がよろしければ、歌姫として出ていただきたいのです」
彼女が出るなら、わたしも出よう。
「そういうことでしたら喜んでお受けいたします」
お兄様ルートではヒロインちゃんが賛美歌を歌って女神の加護を受ける。
原作とは違う流れだが、もしかしたら加護を受けてしまうかもしれない。
そうなった時、オリヴィエの対抗馬となれるのは同じく加護を持つわたしだけだろう。
音楽教師が嬉しそうに「では、これからは放課後に練習いたしましょう」と言う。
恐らくオリヴィエも来るだろう。
顔を合わせる機会が増えそうだ。
「リュシエンヌ、大丈夫なのか?」
教室に戻る道すがら、お兄様に問われる。
「あの男爵令嬢も選ばれたのだとしたら、顔を合わせることになるが……」
「はい、その可能性があると思ってお受けしました」
オリヴィエの性格を考えると、選ばれたことで鼻が高くなるだろう。
その鼻をへし折るつもりもあって受けたのだ。
「私も放課後に付き合おうか?」
お兄様の申し出はありがたいが、首を振る。
「いいえ、しばらくは護衛騎士を一人連れて来るので大丈夫です。練習の間はルルには隠れてもらいますので」
「あら、ニコルソン子爵は一緒には行きませんの?」
「件の男爵令嬢はルルのことが好きなんです」
「まあ……」
ミランダ様が口に手を当てて驚いている。
「この間のこともありましたから、てっきりアリスティード殿下にご執心なのかと思っておりました」
「どうやら私に近付けば、ルフェーヴルにも近付けると考えているようなんだ」
「よく分かりませんわね……?」
それに関してはお兄様とロイド様も頷いた。
ルルのルートについて聞けなかったので詳しいことは不明だけれど、わざわざお兄様の婚約者であるお義姉様に近付いたことを考えると、お兄様ルートがルルと関係するのかもしれない。
でもこの世界は現実なのだ。
確かにお兄様とルルは親しい間柄だが、お兄様と親しくなったからと言ってルルと縁が繋げるとも限らない。
……ただ、ルルの登場は学院卒業後と言っていた。
つまり、ファンディスクは原作のゲームのエンディング後の話ということになる。
もしかしたら、お父様がルルを雇ったように、お兄様がルルを雇う可能性もある。
今のルルはお兄様に雇われる気はないみたいだけど。
そういう時間軸もあるのかもしれない。
「でもニコルソン子爵に懸想するなんて……。しかもそのご様子ですと諦めていらっしゃらないのでしょう?」
ミランダ様が困ったように頬に手を当てる。
「そうだね、王女殿下の夫にそういう目的で近付こうとするなんて不敬だよ」
「全くですわ」
それが分かってもらえたら苦労しないのだが。
「エカチェリーナ様からも話の通じない方だったとお聞きしましたわ。……リュシエンヌ様、手紙にも書きましたが遠慮なく私をお使いください」
ミランダ様の言葉に頷き返す。
「ありがとうございます、ミランダ様」
ロイド様とお兄様が申し訳なさそうな顔をする。
「ごめん、私達も手助け出来たら良かったんだけど……」
「いいえ、ロイド様とお兄様は近付かない方がいいでしょう。お気持ちだけで十分です」
「すまないな……」
お兄様が悪いわけではない。
* * * * *
その翌日から練習が始まった。
音楽室へ向かうと音楽教師のウィンター先生が既に待っていた。
オリヴィエはまだ来ていないらしい。
護衛騎士は壁際に下がった。
バタバタと足音が聞こえてくる。
「遅れました!」
ガラッと勢いよく扉が開かれた。
「セリエール男爵令嬢、淑女たるもの走ってはなりません。扉も静かに開けるように」
「はぁい」
ウィンター先生に注意を受けてオリヴィエが首を竦めて返事をし、室内にいるわたしに驚愕の表情を浮かべた。
それにわたしは挨拶のために礼を執る。
「ご機嫌よう、セリエール男爵令嬢」
「……ご機嫌よう、王女殿下」
わたしの礼に思うところがあったのか、同じように挨拶を返してくる。
それにウィンター先生が満足そうに頷いた。
「さあ、歌姫が揃いましたので練習を行いましょう」
感じる視線に気付かないふりをする。
ちなみに、ルルはずっとわたしの横にいたりする。
スキルで姿を消しているだけで、わたしから離れたわけではない。
ルルいわく「会うと鬱陶しそうだから隠れてるよぉ」とのことだった。
どうやら前日の、あのオリヴィエとの話し合いの場で自分を見つけられなかったことでルルはオリヴィエへの興味が完全に失せたようだ。
元より「興味って言ってもリュシーの敵だからって意味だけどねぇ」ということだった。
当のルルは暇そうに自分の爪を眺めている。
ウィンター先生に言われてオリヴィエがわたしの横にやや離れて立つ。
ウィンター先生がピアノの前へ座った。
「では、まずはセリエール男爵令嬢から、賛美歌を歌っていただきます。その後に王女殿下にもお願いいたします」
「はい」
「分かりました」
先にオリヴィエが歌うことになった。
ウィンター先生がピアノを弾く。
賛美歌の曲が流れ出す。
女神への賛美歌は美しい曲だ。
透き通る穏やかな和音がどこか優しげで、厳かで、耳に残る音なのだ。
オリヴィエが息を吸う。
そしてピアノに合わせて高く澄んだ可愛らしい声が音楽室に響く。
……さすがヒロインちゃんの声。
ソプラノの澄んだ声は少女らしいものだ。
その声で歌われる賛美歌は伸びやかで、初々しく、まだ大人になりきれていない少女特有の清廉さがある。
これはなかなかに、と思いつつルルを見るけれど、ルルは声も出さずに欠伸をこぼしている。
……本当に全然興味ないんだなあ。
そのうち飽きて座り込んでしまいそうだ。
わたしは黙ってオリヴィエの歌に耳を傾ける。
性格はともかく、歌は確かに上手い。
賛美歌は一番から三番まであり、最後に高音の伸びが入って終わる。
最後まで伴奏を終えたウィンター先生が拍手をする。
わたしも拍手をしたが、オリヴィエに面白くなさそうな顔で視線を逸らされた。
……素直に凄いと思ったんだけどな。
「ありがとうございます、セリエール男爵令嬢」
そしてウィンター先生は何やら手帳にメモを行う。
それが終わると今度はわたしを見た。
「次は王女殿下、お願いいたします」
「はい」
今度はわたしの番だ。
ウィンター先生が伴奏を始める。
わたしの声はオリヴィエほどのソプラノではないけれど、先生に選ばれたのだから、自信を持って歌おう。
歌うために深く息を吸った。
* * * * *
リュシエンヌの歌う番になり、ルフェーヴルは爪を眺めるのをやめた。
オリヴィエ=セリエールの歌も確かに上手い。
けれど、心に響かない。
ただ歌を正確になぞっているだけ。
どこか自分に酔ったような歌い方なのだ。
ルフェーヴルからしたら別に、という感じだった。
だがリュシエンヌが歌うとなれば違う。
ピアノの伴奏が流れてくる。
リュシエンヌがすぅっと息を吸い込んだ。
そして、その唇から賛美歌があふれ出す。
オリヴィエ=セリエールほどのソプラノではないが、耳に柔らかく響く、落ち着いた艶のある声だ。
非常に伸びやかで、裏返ることもなく、時に高く、時に低く、しっかりと音程が取れている。
何よりリュシエンヌの歌には感情がある。
リュシエンヌがルフェーヴルのために歌ってくれる賛美歌は、いつも、喜びと慈愛に満ちていた。
そして今回の歌もそうだ。
その表情は柔らかく、楽しげだ。
艶のある声が幸せそうに賛美歌を歌う。
聴き慣れた心地好い歌声にルフェーヴルは目を伏せ、それに聴き入った。
この歌声を聴くと安心する。
誰よりも近くでこの声を聴いていたいと思う。
ふと視線を上げれば、横にいたオリヴィエ=セリエールが呆然と突っ立って歌うリュシエンヌを見る。
……そうだ、オマエとは違うんだよ。
リュシエンヌの方がずっと上手い。
歌姫として選ばれたことを誇っているのだろうが、それはこの学院の中で特に歌が上手いというだけだ。
そこに歴然とした差があることを知ればいい。
オリヴィエ=セリエールがギリリと歯を食いしばり、拳を握る。
歌っていたリュシエンヌと目が合った。
ふんわりと嬉しそうな笑みが浮かぶ。
きっと、自分も今、同じような笑みを浮かべていることだろう。
ルフェーヴルは歌うリュシエンヌを眺めた。
壁際に控えている騎士も歌に耳を傾けている。
この歌声がルフェーヴルは大好きなのだ。
* * * * *
歌い終え、伴奏が終わると先生が拍手をする。
先生だけでなく控えていた騎士まで手を叩いた。
「ありがとうございます、殿下。素晴らしい歌声でした」
そしてウィンター先生が手帳にメモを取る。
チラと横目に見ればルルが拍手のふりをしていた。
灰色の瞳が幸せそうに優しく細められる。
手帳にメモを取り終えたウィンター先生が顔を上げ、わたし達を見た。
「セリエール男爵令嬢はソプラノの少女らしい清涼な歌声が良いですね。もう少し歌に強弱をつけるともっと美しく聴こえるでしょう。それと伸びが少々足りません。息継ぎをする場所も直しましょう」
「……はい」
先生の言葉に一瞬ムッとしながらもオリヴィエは頷いた。
次に先生はわたしを見る。
「殿下は音程も歌声もはっきりしていますね。ただ歌い始めは良いのですが、後半は少し声がか細くなってしまうので、そこを直していきましょう」
「分かりました」
確かに歌っていると伸びの後半が少し苦しい。
それは息が続かないせいだ。
つまり、声量を維持するために息を長くさせる必要がある。
……腹式呼吸、だったっけ?
もっとお腹に力を込めて、お腹から歌うようにしなければいけないかもしれない。
「では今度は二人一緒に歌いましょう」
ウィンター先生の言葉に頷いた。
それから、二人一緒に歌ったり、交互に歌ったりして問題点を更に見つけていく。
歌いながら気付いた点がある。
「殿下は歌う度に少し歌の雰囲気が変わりますね」
そうなのだ。
自分でもこれまで気付かなかったけれど、自分の歌声を聴きながら歌っていて思ったのだ。
……わたし、結構気分屋な歌声だ。
「最初の歌は何を思って歌いましたか?」
先生の言葉につい笑みが浮かぶ。
「夫のことを思い出しておりました」
「ではその後は?」
「兄や父、いつもお世話になっている人達です」
「なるほど、だから違ったのでしょう。最初の歌が最も良かったので、今後はそのようにお願いいたします」
「分かりました」
ルルを想って、ルルのために歌う。
それが一番良いと言ってもらえて嬉しい。
横のルルもニコニコしている。
たとえオリヴィエに睨まれていたとしても。
それから更に一時間ほど練習をして、その日は終わった。
オリヴィエは礼をして出ていったけれど、どこか苛立った様子であった。
……そんなにわたしと一緒は嫌なのか。
すぐに出るとオリヴィエに追いついてしまうので、先生にいくつか歌のことで質問をしてから、騎士とルルを伴って音楽室を出た。
生徒会室に向かう途中でお兄様に会った。
「何もなかったか?」
心配する言葉に苦笑する。
「騎士も先生も、もちろんルルもおりますから」
「そうか」
「はい。……帰りましょう、お兄様」
「ああ」
お兄様の視線が騎士とルルに向かう。
どうやらルルはスキルを解除したようだ。
振り向けば、ルルに腕を差し出される。
その腕に自分の手を預け、エスコートしてもらいながら帰宅の途に着く。
これからは練習の日々になる。
豊穣祭まで後一月半だ。