13日目(1)
* * * * *
まだ夜が明けきらないうちに、ルフェーヴルは後宮に忍び込んでいた。
屋根を伝い、魔法で防護しつつ煙突から建物内へ入り、暖炉から立ち上がるとふらふら散歩でもするかのように歩き出す。
ここが外であったら鼻歌でも歌っていそうな足取りだった。
廊下を抜けて、目的地の物置部屋に着く。
周囲に気配がないことを確かめてから、そっと物置の扉を開けて素早く中へ入る。
今日は天井裏ではなく気分的に扉から入りたかった。
相変わらず埃っぽい部屋の中で、厚手の古びた毛布の塊があり、そこから小さく寝息が聞こえる。
音もなく近付き、屈んで覗き込む。
「……ん〜?」
だが違和感を覚えた。
まじまじと眠るリュシエンヌを見る。
いつもより少し寝息が荒い気がする。
乱れた髪を退かして額に触れようとして、そこに小さな傷とこぶが出来ていることに気が付いた。
……こんなところ、普通打ちつける?
額を覆うように手の平を当ててみれば熱がある。
そこを打っただけではここまで熱が上がるはずがない。
毛布を剥がそうと触れれば眠るリュシエンヌが小さく呻いた。
……左肩が痛いの?
慎重に毛布を剥がし、ワンピースを脱がせてみれば、小さな体には新しい痣がいくつも出来ていた。
特に左肩と両腕は変色している。
それに両肘と左脇腹、両膝も痣がある。
もしやと思い後頭部を触ってみれば、ほんの小さいものだが後頭部に擦り傷があった。
一瞬、殺気が漏れてしまった。
今までの経験上、怪我の具合でリュシエンヌに何があったか理解出来た。
背中には新しい傷がなく、左肩と両腕に集中する痣。両肘と膝に出来た痣は恐らく長時間硬い床につけ、体重がかかっていたからだ。
両肘と膝をつけた、つまり四つん這いの状態を強いられたということだ。
そして額と後頭部にある傷とこぶ。
何かで叩かれたか、重さをかけて、頭を床に打ちつけられたのだろう。
手でやられた場合は髪を掴まれるはずだ。
それならば傷は出来難い。
……もしかして踏みつけられた?
腕の痣は頭を庇おうとしたものだ。
リュシエンヌは体が小さい。
もしも殴ったり叩いたりしたならば一番上の背中に傷が集中するはずだが、腕や左肩の痣が酷いところを見るに、何度もそこを蹴られたのだろう。
左脇腹の痣は薄い。
だが左肩が特に酷く、左肩は全体的に青紫色になってしまっており、これではきっと腕を動かすだけでも痛いはずだ。
下着の肩にかかっている部分をズラしてみれば、腕の付け根の方まで黄色っぽく変色していた。
……痣の具合から見て、昨日か一昨日くらいかな。
日に焼けていないリュシエンヌの細くて白い体に、青紫色の痣は非常に目立つ。
リュシエンヌを起こさないように抱え上げ、布の上に座り、膝にゆっくりと下ろす。
熱で疲れたのか起きる気配がない。
今ルフェーヴルが持っている薬では全身の痣を手当するには量が足りない。
とりあえず重症な肩と、痕を残さないためにも額だけは処置しておかなければ。
まずは髪を避け、額の傷を検分する。
そんなに深くはない。それに自分で洗ったらしく、傷に土や汚れはついていなかった。
当て布と薬を出し、布に薬を染み込ませてそっと額へ貼る。
沁みたのかリュシエンヌの眉が少し寄った。
もぞりと動いた小さな手が額に伸びたので、それを掴んで止め、触れさせないようにする。
すぐにまた規則正しく寝息を立て始めたため手を元の位置に戻し、次に肩へと取り掛かる。
やや大きめの当て布に打撲用の別の薬を染み込ませ、痣の部分を一枚ずつ貼って覆っていく。
小さな肩はあっという間に当て布でいっぱいになった。
触れた肩はかなり熱を持っており、これでは小さな体がそのまま熱を出すのも無理はない。
残った当て布で腕も手当て出来たものの、両肘と膝は薬も布も足りない。
……後で取りに戻らないと。
下着を戻し、ワンピースを着せる。
痛み止めと炎症を抑える薬を取り出したが、飲んで欲しい人物は深く眠ってしまっている。
片腕でリュシエンヌを抱き上げ、もう片手で丸薬を自身の口に放り込み、水も含む。
それからリュシエンヌの口を開けさせ、飲み込みやすいように少し顎を上げさせ、唇を重ねた。
水と薬とを小さな口へ流し込む。
唇を重ねたまま、小さな口へ舌を入れ、喉の奥へ水と薬とを流せば、抱き上げた体が僅かに強張った。
しかし、素直にこくりと水と薬を飲み込んだ。
……よし、これで多少痛みは良くなるかなぁ。
唇を離せば飲み込み切れなかった水がリュシエンヌの小さな口の端から零れたので、指で拭ってやる。
……ちっちゃな口だねぇ。
かさついた唇に指先で触れると口が開く。
どうやら喉が渇いてるらしい。
ルフェーヴルは水筒に口をつけると、少なめに口に含み、リュシエンヌと唇を重ねる。
「ん、ふ……」
水を流せば雛鳥のように飲む。
何度かそれを繰り返せば、小さな口からほうっと安堵の息のようなものが漏れた。
……これだけ飲ませれば大丈夫でしょ。
水筒を仕舞っているとリュシエンヌの口がもごもごと動く。
……あれ、まだ足りなかった?
「……る、る……」
ピタリとルフェーヴルの動きが止まる。
起こしてしまったのかとリュシエンヌの顔を見たが、規則正しい寝息である。
……あ、寝言かぁ。
何故かいつの間にか止めてしまっていた息をルフェーヴルはホッと吐いた。
「大丈夫、オレはここにいるよぉ」
毛布で包み直し、リュシエンヌの額の、こぶがないところへ唇を押し当てる。
眠っている間に薬を取って来よう。
そうして今日は傍にいよう。
……こんなことした奴が誰なのかも聞き出さなきゃいけないしねぇ。
眠るリュシエンヌを毛布の山に戻した後、ルフェーヴルは薬を取りに物置部屋を後にした。
* * * * *
翌朝、部屋がかなり明るくなった頃に目が覚めた。
いつもより眠くて、目をこすりながら起き上がると、頭の上に何かが乗った。
何だろうと顔を上げれば、そこには、会いたかった人物がいた。
「おはよぉ」
その間延びした声にわたしは思わず飛びついた。
「ルル……!」
結構な勢いで抱き着いたのに、ルルはしっかりとわたしを抱き留めてくれた。
左肩が痛かったけど、そんなこと、今はどうでも良かった。
三日ぶりにルルに会えて嬉しかった。
言った通り、また会いに来てくれた。
言葉に出来ないくらい嬉しくて、切なくて、でもどうしようもなく安心したのだ。
「リュシエンヌは甘えん坊だねぇ」
ルルがおかしそうに笑う。
「オレに会えなくて寂しかった〜?」
うん、と頷けばギュッと抱き締められる。
ルルが「オレも〜」と言うので同じように抱き締め返すと、笑ったのか微かに揺れた。
でも体中に違和感を覚えて動きが止まった。
ペタペタと触ってみれば、服越しに、左肩や腕などに当て布がされていることに気付く。
「ルル、きずの手当てしてくれた?」
聞けば「そうだよぉ」と頷かれた。
だから昨日より痛くないのか。
「ありがとう」
ギュッとより一層強く抱き着く。
ルルに頭を撫でられる感触がした。
それが心地好くて思わず頭を擦り付けると、ルルの動きが一瞬止まり、更に頭を撫でられる。
「そうだ、まだ両肘と膝の手当てが済んでないんだよぉ。してもいーい?」
「うん」
ひょいとルルはわたしを持ち上げる。
胡座をかいた足の上に横向きに乗せると、まずは膝の方の手当から始まった。
汚れを払い、布に薬を染み込ませて、それを膝にぺたりと貼った。
痛みはなくて、少しだけヒンヤリとする。
……ああ、膝も痣になってたんだ……。
ルルに手当てされて初めて気が付いた。
痩せ細ったリュシエンヌの小さな膝小僧は薄っすら青く変色している。
両膝にぺたりぺたりと当ての布がされる。
痣のせいで熱っぽいのか薬のほんのりと冷たい感触が気持ち良く、微かに香る薬の青臭さも悪くないような気さえした。
それから膝に包帯を巻かれる。
どう見ても新品のそれは買ったばかりに見える。
次に腕を取られて肘に布が当てられた。
ぺたぺたと躊躇いなく貼られるが、雑さはなく、丁寧で、こちらの傷に障らないように優しい手付きの手当だった。
「ルル、ありがとう」
そう言えばルルはふっと目を細めた。
「どういたしましてぇ」
肘にも包帯が巻かれた。
不思議なもので、ルルが手当してくれたと思うと痛みが随分と和らぐような感じがする。
気のせいかもしれないが。
手当が終わった後もルルの膝から降ろされることはなく、ゆっくりと顔に触れた手の指が頬を摩る。
「もう、おしごとおわった?」
「終わったよぉ」
すり、すり、と頬の表面を指が滑る。
手袋越しなので感触なんて分からないだろうに、ルルはわたしの頬を確かめるように、時々ぷにっと指で押す。
特に意味もないが、それに合わせてぷくりと頬を膨らませれば、ルルが声もなく笑った。
抱き上げられて、頬同士がくっつけられる。
……ルルの頬っぺたってツヤツヤ。
重なった頬に思わず頬を寄せると同じように頬が擦り寄せられる。
そのまま手を伸ばしてルルの首に抱き着く。
ルルの存在を確かめて安堵の溜め息が漏れる。
大きな手がわたしの背にそっと触れる。
「ねえリュシエンヌ、その痣、どうしたのぉ?」
よしよしと背中を摩られる。
そうすると自然と体の力が抜けた。
「けられたの」
「誰にぃ?」
「……おうじょさまたち」
ルルは「そっかぁ」と相変わらず緩い口調で応えたけれど、何故だか背筋がゾクリとした。
思わず身震いしたわたしをルルが抱き締める。
子供体温のおかげか、わたしの方が、ルルよりちょっとだけ体温が高いらしい。
「痛いの我慢して偉かったねぇ」
ルルの言葉に顔を上げる。
「えらい?」
「そう、リュシエンヌは頑張ってて偉いよぉ。良い子だねぇ〜」
掻き分けられた前髪の間から、ちゅっと額にキスが落とされる。
ちゃんと額のたんこぶや傷は避けられていた。
もう一度「良い子ぉ」と肩口に抱き寄せられる。
ルルの声はとっても落ち着く。
低くて、柔らかくて、明るくて、だけど変に感情がこもっていない。
でも触れてくる手が、見上げた先の灰色の瞳が、優しく触るから、細められるから、縋りつきたくなってしまう。
まるで「頼っても良いんだよ」と言ってくれているみたいで。
触れられると、その瞳で見つめられると、何だかそれだけでぼうっとしてしまう。
……わたしがルルを好きだから?
「……ルル、わたしね」
ルルが「うん」と相槌を打つ。
「ルルがすき。だいすき。一番すき」
ルルの灰色の瞳が細められる。
「オレも、リュシエンヌが好きだよぉ」
ふるりと心が震える。
「ほんと?」
「本当」
ルルの顔が降りてきて、ちゅ、と前髪を避けた額に柔らかくて少しカサついた感触が触れた。
驚くわたしを他所にルルは何度か額に唇を当てては離し、最後にふふっと笑った。
「……ルル……?」
顔が離れるとルルが目細めた。
「オレのはこーいうのをいつか唇にしたいって意味での好きだけど、リュシエンヌは嫌じゃない?」
瞳を覗き込まれて、わたしは首を振った。
……全然嫌じゃない。
それどころかすごく嬉しい。
「いやじゃない。わたしも、同じだと思う」
「思う?」
「……初めてだからわからない」
誰かを好きになるのは、リュシエンヌは初めてで、この表現し難い感情は上手く言葉に出来ない。
でも今のキスは全く嫌じゃない。
ルルからしてもらえて嬉しかった。
……好きな人とのキスってこんなに幸せで、心地好くて、心がぽかぽかするんだ。
「でもね、ルルのことはだいすき」
手を伸ばしてルルの両頬に触れ、そのまま首を伸ばしてルルの額に自分の唇を押し付けた。
顔を離すと、ルルがにっこりと綺麗に笑った。
「なら良いよ」
キスというには拙かったかもしれない。
だけどルルが喜んでくれているのが伝わってきて、わたしも嬉しくなる。
「やくそく、守ってくれてありがとう」
ルルが首を傾げた。
「約束なんてしてたっけ?」
「また来るって言ってくれたの」
「あれは約束とは違うんだけどねぇ、まあ、リュシエンヌがそう思ったならそれでもいいかなぁ」
ルルにとっては何気ない言葉だったのかもしれないが、わたしにとってはとても大事な言葉だった。
あの言葉があったから、会えなかったこの三日間も耐えられたし、痛いのだって我慢出来た。
ルルがいなかったら今回はさすがに泣いていたと思う。
それくらい肩の痣は痛くて、我慢するにも限界があった。
「大丈夫、これからはずぅーっと一緒だよぉ」
何よりも欲しい言葉だった。
それだけでわたしは、きっとこの先に辛いことがあったとしても頑張れる。
ルルがいてくれるなら足掻いてみせる。
……絶対にリュシエンヌの死から抜け出してやる。
わたしを必要としてくれる人が、好きだと言ってくれる人がいる限り、わたしは原作に抗ってみせる。
……だから、お願い。
ルル、ずっとわたしの側にいて。
その代わりにわたしの全てをあげるから。