12日目
翌朝、左肩の痛みで目が覚めた。
起き上がって襟の隙間から手を入れて肩に触れてみると、かなり熱を持っていた。
痛み止めが入ったあの薬の飴は昨夜、最後の一つを食べてしまった。
熱っぽいせいか喉が渇く。
毛布から立ち上がり、部屋の扉を開ける。
廊下を歩き井戸を目指す。
誰にも会わずに井戸へ辿り着き、痛む左肩を我慢して水を汲んだ。
桶から水を飲む。
……冷たい。
思っていたよりも喉が渇いていたらしく、普段よりも沢山飲んだ気がする。
周りを見回し、誰もいないことを確認してワンピースを脱いだ。
……うわあ、すごいことになってる……。
肩の痣は一晩で青紫へと変化していた。
小さな左肩全体が変色していて、これでは痛いのも当たり前だなと納得する。
他にも腕や足にも痣がある。
これらを全部冷やすのは難しい。
空を見上げれば気持ち良いくらいの快晴だ。
これなら濡れてもすぐに渇くだろう。
水の残った桶を何とか持ち上げて、ざぱりと頭から水を被る。
冷たいけれど、それが火照った体に心地好い。
もう一度水を汲み直して頭から被る。
下着もびしょ濡れだけどまあいい。
桶を戻し、引っ掛けておいたワンピースを掴んで日当たりの良い場所へと移動する。
その辺の低木にワンピースをかけて、下着の水気を絞り、芝生の上へ座り込む
今日は少し風があるが、日が暖かいので、多分風邪を引くことはないと思う。
ついでに髪の水気も絞る。
吹く風が体を撫でていくとヒンヤリする。
熱を持った部分は冷たさを感じるのも一瞬だけど、それでも濡れた体が日の光で蒸発したり風が当たったりすれば多少は冷えるだろう。
体が乾いたら部屋に戻って今日は寝て過ごそう。
…………。
膝を抱えて目を閉じる。
…………ルルに会いたい。
たった二日しか経っていないのにもうずっと会えていないような感じがする。
胸にぽっかりと穴が空いたようなあの虚しい気持ちは日に日に大きくなっている。
寂しくて、悲しくて、切なくて、不安で。
あの手に頭を撫でられたい。
間延びした声で「リュシエンヌ」と呼んで欲しい。
灰色の瞳が細められる様を見たい。
……またギュッと抱き締めて欲しい。
気付けば自分の唇に触っていた。
……わたしの唇カッサカサだ。
それもそうか、とガッカリする。
手入れなんてしてないし、部屋からあまり出ないようにするために極力トイレの回数を減らそうと水分も控えているし、食事だってきちんと摂れていない。
肌や唇がカサカサなのは当然だった。
……それなのにルルはキスしたんだよね。
……ダメだ、ルルのことを思い出すと嬉しさと同時に寂しさがこみ上げてくる。
目を閉じたまま日差しを浴びる。
風が髪を揺らす。
静かな時間がゆっくりと流れていく。
ルルに会えないと一日一日が長く感じる。
……クーデターももうすぐだ。
この虐待される日々もあと少し。
そうしたらリュシエンヌは新王家のファイエット家の養女となり、王女に相応しい暮らしを送ることになる。
ここを出てもルルは会えると言ってくれた。
だから、その後の心配はあまりない。
……なるようにしかならないかあ。
ふう、と小さく息を吐く。
そのまま体が乾くまでわたしは日に当たって過ごした。
* * * * *
リュシエンヌに会わないまま三日目になった。
それに伴い、ルフェーヴルの機嫌は少しずつ降下していったが、依頼主のベルナールはそれに触れなかった。
触れていたらルフェーヴルが「他の奴に仕事回してぇ」と押し付けていたことだろう。
だが残念ながらそうはならなかった。
それ故にルフェーヴルは今日も王の監視という非常に退屈でつまらない仕事をこなしている。
眼下に広がる光景を天井裏から頬杖をついて眺め見る。
今は丁度昼時で、今日は珍しく食堂に王と王妃、それから第一王女、第一王子、第二王女、そして側妃と第二王子と王族が全員揃っている。
揃いも揃ってゴテゴテと着飾り、ただでさえ煌びやかな食堂内で、更に目が痛くなりそうである。
「今日はわたくしの我が儘を聞いていただきありがとうございます」
どうやら王妃がこれを望んだらしい。
王が「うむ」と頷きながら、チラリと王妃の胸元を見た。
三児の母とは言えど、王妃はいまだ美しく、女性的で豊満な胸をこれでもかとコルセットで押し上げており、色に耽った王がそこに目を引かれるのは仕方のないことだった。
側妃も美しいが、王妃ほど女性的な体型ではなく、王が側妃と床を共にしたのは片手で数えられるくらいだ。
それもあってか琥珀の瞳を持つ第二王子を生んだというのに側妃は後宮でも王族の中でも、あまり発言力がない。
第二王子は王妃を見てから少し顔色が悪い。
それはそうだろう。
何度も毒殺されかけているのだから王妃に対して怯えるのも無理からぬことだった。
そんな第二王子を王妃の子供達はニヤニヤと笑いながら見るだけで、声をかける気配はない。
「何、家族で食事というのも良いものだ。普段は忙しい身でな」
「ええ、ええ、国王でいらっしゃいますもの。お忙しいのは当然ですわ」
政に全く興味のない王の言う言葉ではない。
王妃も、王が色に耽っているばかりだと知った上で、あえて知らないふりをしている。
しかし恐らく内心では怒り狂っているだろう。
自尊心の高い女なので、側妃ですら良い顔をしなかったというのに、妾を何人も侍らせていることを知って何とも思わないわけがない。
それでも国王だからと我慢しているだけだ。
第二王子を暗殺したら、もしかしたら王も暗殺するかもしれないが、それは叶わない未来となる。
「それにしても大きくなったな、我が子達よ」
王が王女達へ目を向ける。
王女達は無邪気な笑顔を浮かべた。
「はい、お父様。私達、最近魔法を習い始めました」
「時々、的を使って魔法を当てる練習もします」
「私は風魔法が得意です!」
第一王女、第一王子、第二王女がハキハキと答える。
王はそれに何度か頷いた後に第二王子へ視線を向けたが、第二王子は俯いた。
「も、申しわけありません。僕はまだ、うまく魔法が使えておりません……」
「そうか」
王はどこか呆れたような、失望したような声で一言そう言うと、また王妃や王女達との会話に戻っていく。
第二王子の横に座る側妃が唇を噛み締めている。
せっかく琥珀の瞳を持つ王子を生んだのに、その王子は運動も苦手で魔法も不得手なのかあまり上達せず、出来るのは勉強くらいのものだった。
……まあ、でもその鬱憤を側妃も第二王子も周りの侍女やメイドに当てつけ、贅沢な暮らしを続けているが。
側妃はリュシエンヌの存在を知らない。
広い後宮の中で側妃と第二王子が動ける範囲は狭く、リュシエンヌは彼女達と正反対の位置に押し込まれていることもあり、出会うことはない。
もしも側妃がリュシエンヌの存在を知っていたら黙ってはおかなかっただろう。
リュシエンヌが側妃に殺されたかもしれない。
それが分かっているから王妃はリュシエンヌの存在を側妃に黙っているのだろう。
王はもしかしたらリュシエンヌの存在すら忘れているかもしれないが、王妃があえて話題に出さないことで、忘れさせている可能性もある。
王と王妃、その子供達が楽しそうに談笑している中で、側妃と第二王子は黙ったまま食事を続ける。
途中で退席することも出来ず、話にも混じれず、憐れではあるけれども、側妃も第二王子も国庫を食い潰している原因の一端だ。
……王子を連れて実家に戻れば良かったのにねぇ。
そうすれば、クーデターに巻き込まれることもなかっただろう。
しかしもう遅い。
明後日、クーデターが決行される。
既に門番や兵士の半数近くは貴族派に属し、クーデターを起こした際にこちら側の兵士を城内へ入れる手引きをすることになっている。
王の身辺を警護する騎士は実は少ない。
現王が即位して以降、その行いに耐え切れずに辞めていった者が多かったのだ。
そうして気分屋な王族の近くに寄りたいと思う者も少なく、どうしても近衛が減る。
残った者達が何とか回している状況だ。
忠誠心などない者達ばかりなのでクーデターが起こればあっという間に逃げ出すだろう。
天井裏を移動して別の部屋へ向かう。
厨房近くの配膳室に人影があった。
……ふぅん?
こそこそとその人影は王の食事に何かを混ぜると、逃げるように配膳室を出て行った。
……あのメイド、なぁんか見覚えあるかも。
天井裏から降りるとルフェーヴルは王の分の食事だけ、わざと銀のフォークを使い、料理の端の食材をテーブルクロスでぽとりと落としてから皿へ置いた。
銀が変色したので毒だ。
クーデター前に死なれても困る。
ルフェーヴルが天井裏に戻ってすぐ、使用人がやって来て、王の分の皿に置かれた銀食器が変色していることに気付くと慌てて厨房へ駆けて行った。
多少不審がられるかもしれないが王が死ぬよりかは良いだろう。
料理人がやってきて空の皿を見て「新しい料理を用意しろ!」と急いで新しいものを用意させる。
「誰かがつまみ食いしようとしたのか? ……でも銀が変色したからビビって食わなかったんだな」
いい具合に勘違いしたようだ。
……王の監視ってのも楽じゃないねぇ。
毒味はしてあったようだが、その後に混ぜるということはそれなりに城内のことを知っている者の行いだろう。
……リュシエンヌの父親だから今回のことはオマケにしといてあげようっと。
騒がしい配膳室から離れて食堂の方へルフェーヴルは戻って行った。
* * * * *
体が完全に乾いたのでわたしは物置部屋へ戻ることにした。
そこら辺に引っ掛けていたワンピースを着て、髪を外へだしながら建物へ歩いて行く。
そっと扉を開けてなかへ入り、何度も通い慣れた道を通って部屋へ辿り着いた。
これだけでもう体が熱っぽい。
肩の痛みのせいか食欲も湧かない。
毛布の上に転がり、一応毛布に包まった。
熱いような、寒いような、なんとも言えない感じを我慢して目を閉じる。
……ルルが戻る前に良くならなきゃ……。
きっとルルなら心配してくれるだろう。
痛み止めや薬もくれるかもしれない。
でも、ルルに頼ってばかりじゃダメだ。
それに迷惑ばかりかけて、もし嫌われたらと思うとちょっと怖い。
王妃や王女達にどう思われても構わないし、気にしないけど、ルルにだけは嫌われたくない。
……わたし、やっぱり重症だなあ。
ルルがいなくて寂しいのに、ルルのことを考えていると嬉しくて、胸が温かくなる。
ルルのことを考えている間は寂しさが薄れる。
改めてルルのことを思い出す。
名前はルフェーヴル=ニコルソン。
わたしにはルルという愛称を教えてくれた。
暗殺者で、多分年齢は十代半ばから後半で、綺麗な顔立ちの男の子。
食べ物や痛み止めの薬、飴をくれたり、手当をしてくれたり、助けてくれる。
間延びした緩い口調だけど怖い時もある。
かっこよくて優しい、不思議な人。
……暗殺者に優しいって変かな?
でもわたしにはそんな風に接してくれる。
どうしてか気になるが聞けない。
……仕事のためとかだったら嫌だ。
だけど後宮を出ても会えると言ってくれたから、仕事のためだけじゃないと思いたい。
……ううん、そうじゃない。
ルルに会えるなら仕事でもいい。
大切なことは「ルルと会うこと」だから。
もちろん、ルルが自分の意思で会いに来てくれるのが一番嬉しいけど、そうでなくても嬉しい。
わたしに会ってもいいと思ってくれるなら。
それだけで十分。
それにルルは二、三日来ないけど、二度と会えないわけじゃない。
今日で三日目だからきっと明日は来てくれる。
そう思えば今夜くらい耐えられる。
体を丸めながら目を閉じる。
……明日は会えるよね、ルル。