それぞれの決意
* * * * *
深夜、月が西へ傾き始めた頃。
ベッドの中にいたオリヴィエ=セリエールことオーリは目を覚ました。
むくりと起き上がり、ベッドから出ると、すぐに部屋を出て隣の控えの間に向かう。
そこにはメイドが一人いた。
よく見る気の弱い、けれど命令に忠実なメイドだ。
「手紙は届いてる?」
オーリの問いにメイドは頷き、すぐに手紙を持ってきた。
それを受け取ったオーリは部屋へ戻った。
お礼を言いたいが、普段のオリヴィエの態度を考えると急に使用人に礼を言うのはおかしいので、いつも言えずにいた。
今日は荒れていない部屋の中。
椅子に座り、机の上に置いてあったペーパーナイフで慎重に手紙の封を開ける。
同時に手紙からふわりと甘く優しい花の香りが漂ってくる。
……香水の匂いかしら?
心安らぐその香りに束の間、オーリはうっとりと心を和ませた。
手紙に香水を使用するなんて思いもしなかった。
手紙の送り主の姿を想像して、華やかだけど優しく甘いその匂いは彼女にとてもよく合うと思った。
それから、改めて手紙に視線を落とし、そっと便箋を取り出した。
しつこくない程度にほのかに漂う香水の匂いに背を押されるように手紙を読み出した。
決して短い手紙ではない。
でも、オーリは何度もそれを読み返した。
……王女殿下……。
手紙には近況報告とオーリを気遣う言葉が綴られており、オリヴィエの時と区別するためにも自分のことは名前で呼ぶようにとまで書かれていた。
「…………リュシエンヌ、さま……」
恐れ多いと思う気持ちと、久しぶりに誰かの名前を呼ぶことが出来た喜びとで、オーリは胸が熱くなるのを感じた。
オリヴィエの目を通して見ていたので、最近、王女殿下と王太子殿下、その周囲の人々に迷惑をかけていないことは分かっていた。
それはオーリの精神的な負担を減らしてくれた。
逆にオリヴィエの精神的な負担は増えたようだ。
今日のオーリが自分の意思で出てくることが出来たのも、恐らくオリヴィエが精神的に疲れているからだ。
オリヴィエにとって、他のご令嬢とのお茶会や勉強、慈善活動への参加などは相当な精神的負担になっている。
外では良い子に振る舞っているが、自宅では癇癪を起こすことが増えた。
それが使用人達に申し訳ないとオーリは思う。
オリヴィエの使用人に対する傍若無人な振る舞いは元からだが、最近はいっそう酷くなっていた。
「いけない、早くお返事を書かなくちゃ……」
こうして夜の間にオーリが起きていると、翌日、オリヴィエは体のだるさを感じるのだ。
意識が分離していても体は同じ。
夜中に長時間起きているとオリヴィエに怪しまれる可能性がある。
オリヴィエはオーリと違い、もう一つの人格、つまりオーリの存在を知らない。
出来る限りオリヴィエに気取られてはいけない。
オーリの存在を知った時、きっとオリヴィエはオーリの存在を許さないだろう。
何故ならオリヴィエは自分こそがヒロイン・オリヴィエ=セリエールと思っているから。
オーリが本物だと知ったらどのような行動をするか、長年見てきたオーリにすら想像もつかなかった。
引き出しから便箋と封筒を取り出す。
便箋も封筒も減ったら補充されるので、数枚なくなったところでオリヴィエは気付かない。
ペン立てからペンを取り、インク壺に先を浸して、オーリはまず挨拶の言葉を便箋に綴っていく。
色々と書きたいことがあるけれど、とにかくオリヴィエの行動と現在のその結果について、王女殿下にご報告申し上げなければ。
オリヴィエの計画は上手くいっている部分と上手くいっていない部分がある。
悪い噂を払拭するために積極的に社交の場に出て、良い子を演じているけれど、一度流れた噂はなかなか消えずに残っていた。
特に『家では我が儘放題』だとか『使用人に暴力を振るう』だとか、真実である噂は全く消える気配がない。
オリヴィエが態度の悪い令嬢だとか、慈善活動も出来ない子供だとか、そういう噂はオリヴィエの行動により薄れつつあるが、オリヴィエ=セリエールの悪評はいまだ根強く残る。
それがオリヴィエを苛立たせている。
以前よりかは評価が良くなったが、それでもまだ悪評の方が大きいのだ。
お父様とお母様はオリヴィエが真面目になったことで、心を入れ替えたと思っているらしい。
実際のオリヴィエは欲望のためだけに、良い子のふりをしているだけだ。
……お父様とお母様まで騙すなんて許せない。
オーリはふつふつと湧き上がる怒りを何とか溜め息と共に吐き出した。
精神的負担が大きくなるとオーリの意識を保つのが難しくなる。
今は少しでもそれを減らして、自分が出てくる時間を増やすことが目的である。
「…………良し」
手紙を書き終えたオーリはインクが乾くのを待った。
ふと思い出して、引き出しを開ける。
そこにはレアンドルからの手紙が仕舞われていた。
……レアンドル……。
今、レアンドルはオリヴィエのせいで非常に危うい立場にいる。
婚約者がいる男性が他の女性とこっそり手紙のやり取りをするだなんて、浮気と思われても仕方がないことだ。
しかもレアンドルからの手紙には友人以上の感情が読み取れて、オーリは悲しくて、それ以上につらかった。
レアンドルの婚約者に申し訳なくて、オーリのふりをしてレアンドルに近付いたオリヴィエが羨ましくて、レアンドルにオリヴィエを諦めて欲しくて。
オリヴィエのせいでレアンドルの立場が悪くなっているのは明白で、それが何よりもつらい。
オーリはレアンドルのことが好きだ。
だがその気持ちは許されないことだと理解している。
それなのにオリヴィエは全くレアンドルのことを考えておらず、自分を想ってくれている相手を利用して、その想いに応えるわけでもないくせにいつまでも引き留めるような態度を見せている。
オリヴィエが「レアンドルの気持ちには応えられない」と言えば良いだけなのに。
「そうだ、私がそれを書けばいいんだ……」
もう手紙を送らないで欲しいと。
もう関わらないで欲しいと。
そう、告げれば良い。
オーリは震える手でまたペンを取ると、泣きそうになるのを我慢しながらレアンドルへの手紙を綴った。
……これで彼が解放されるなら……。
たとえ自分との繋がりが絶えたとしても構わない。
オーリの気持ちよりも、レアンドルの未来の方が大切だから。
手紙を書き終えたオーリはインクを乾かして封筒に入れ、封をすると、メイドに二通の手紙を託した。
部屋に戻り、ベッドへ寝転がる。
オーリは唇を噛み、枕をギュッと抱き締めた。
……もっと早くこうすれば良かった。
レアンドルとの繋がりを断ちたくないという我が儘のせいで、レアンドルの立場を更に悪くしてしまった。
……一番最初に別れの手紙を出すべきだった。
オリヴィエは不審がるかもしれないけれど、レアンドルは手紙を見ればもうオリヴィエと関わらないだろう。
そうなるように冷たい文面で書いた。
こうすることしかオーリには出来なかった。
* * * * *
レアンドルは届いた手紙を呆然と見下ろした。
手元には家紋の入っていない封蝋がされた封筒と、一枚の便箋がある。
それはオリヴィエからのものだった。
手紙はこれまでの優しい文面とは違っていた。
挨拶もなく、そこにはレアンドルとの関係に疲れたからもう自分と関わらないでくれという内容が冷たい文面で書かれていた。
いわく、オリヴィエは目が覚めた。
婚約者のいるレアンドルと、婚約者やムーラン伯爵家の人々の目を盗んで連絡を取り合っていることに罪悪感を覚えていた。
これまではそれでも友人と思っていた。
だが、レアンドルからの手紙には友人以上の感情があるように見受けられた。
自分はそれに応えることは出来ない。
このような関係はレアンドルの婚約者にも申し訳なく、自分も罪の意識で苦しいので、もう互いに関わるのはやめようという内容だった。
つい先日届いた手紙では「友人なのに会えないなんておかしい」「一緒に話せなくて寂しい」と書いていたのに。
レアンドルは手元の手紙を見て、ふと、違和感を覚えた。
それが何なのか確かめるために再度手紙を読み直し、違和感の正体に気が付いた。
慌てて、今までオリヴィエから送られてきた手紙を引っ張り出した。
そして便箋を見比べる。
便箋も封筒も同じものだが、今までオリヴィエから届いたものと、今回届いたものは、字体が少し違っていた。
今までオリヴィエから送られてきた手紙の文字は丸みがあり、所々バランスが崩れていて、筆圧が強い。
対して今回届いた手紙は同様に丸みを持っているが、こちらは丁寧に書かれているのかバランスの悪い文字はなく、あまり筆圧も強くない。
……違う人間が書いたのか?
しかし見たところ、使われている封筒や便箋だけでなく、インクも同じもののように思える。
……一体、どういうことだ?
しかし今回届いた手紙には、レアンドルも考えさせられる部分が大きかった。
レアンドルはオリヴィエに自分の想いを伝えたことはなかったが、何度も手紙のやり取りをして、親しくなっていく中でその気持ちは強くなっていった。
出来る限り友人らしく振る舞って手紙を書いてきたけれども、オリヴィエが読み取れるほど、分かりやすくなってしまっていたのだろう。
いつかやめなければと考えていた。
そして、今がその時なのではないだろうか。
もしこの手紙がオリヴィエの書いたものでないとしたら、誰かが書いた警告とも受け取れる。
レアンドルとオリヴィエの関係を知っている。
この関係を終わらせろ、という意味だ。
もしこのまま続けたら、レアンドルだけでなくオリヴィエにまで何らかの害が及ぶかもしれない。
……それはダメだ。
これまでの関係はレアンドルの我が儘で続いてきたものであり、優しいオリヴィエはそれに付き合ってくれていただけだ。
責を負うのはレアンドルだけでいい。
「……俺が悪いんだ」
手紙には今後一切、手紙を送らないように書かれていた。
学院でも会っても関わりを持たないともあった。
「それに、殿下に言われていたな……」
婚約者と良好な関係を築け。
婚約者を大事にしろ。
不義理な行いはするな。
父と同じことをアリスティード殿下は言っていた。
今まで、レアンドルはそれを理解していながら、意図的に無視していた。
どうしてもオリヴィエとの関係を、繋がりを、断ちたくなかったから。
……でも、もう決めなければ
オリヴィエから届いた手紙を全て纏めると、机の奥へ放り込んだ。
「申し訳ありません、殿下……」
……俺の我が儘に付き合わせて。
それでもレアンドルはオリヴィエ=セリエールを忘れることは出来そうになかった。
手紙には、もし自分が話しかけたとしても気の迷いなので対応しないで欲しいと綴られていた。
その手紙を強く握る。
レアンドルの頬に一筋の涙が伝い、それに気付くと乱暴に袖口で拭う。
「俺に泣く資格なんてない」
殿下があれほど何度も言葉を重ねていたのは、多分、レアンドルとオリヴィエの関係を知っていたからだと今なら分かる。
婚約者にも酷いことをしていたのだ。
責務は果たした、なんて、とんでもない。
婚約者として最も重要なことをレアンドルは守らなかった。
……だからフィオラ嬢は俺に冷たいのだ。
彼女が何を考えているのか分からないのも当然だ。
レアンドルは婚約者を知る努力をせず、上辺だけ婚約者として振る舞い、全く彼女に関心を持たなかった。
「……そういえば、最初の頃はそうじゃなかったよな……」
フィオラ嬢はもっと表情豊かで、よくレアンドルに話しかけていたし、婚約者を知ろうとしていた。
それに不義理な行いをしたのはレアンドル自身だ。
何もかも、レアンドル自身の行いが返って来ただけである。
……明日、殿下と父上、フィオラ嬢に謝ろう。
許されなくても。叱責されても。
レアンドルに出来るのはそれだけだ。
決別の手紙をただ黙って眺め見た。
レアンドルは茨の道を進むと決めたのだった。
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