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幻の少年  作者: まきの・えり
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長身ハンサムで将来性の全くない少年の明日は?

1.深夜の徘徊


 どうも、いつも、誰かに見張られているような気がする、と山浦聖は思った。

 聖は、深夜徘徊コンビニ少年である。

 髪は金髪のロングヘアー。

 学校に行っていれば、この四月で、高校二年生になるはずだ。

 中学二年生の時に転校した中学で、別にこれといった理由なく不登校になり、卒業アルバムには、名前と花壇の写真が載っている。

 本人は知らなかったが、教頭と担任が、卒業証書と花壇の写真以外、一枚も写真の写っていないアルバムを持って、両親に会いに来て、無事卒業となった模様だ。

 深夜徘徊は、中学の時の昼夜逆転生活の後遺症だろう。

 いつ起きて、いつ寝ようが、深夜徘徊しようが、両親は何も言わなくなっていた。

 聖自身も、内心、何とかしないとどうしようもない、と思ってはいても、同じような生活を続けるうちに、今日に到ってしまった。

 月日の経つのは、特に、何もしていないと、早いものなのだ。

 髪型とか服装には、誰に会うわけでもないのに、いつも気を使っている。

 ロングヘアーは、深夜やっている美容院が無いせいだし、黒くて長い髪は幽霊みたいなので、一度ブリーチしてみると、案外気にいったので、定期的に、ブリーチするようになった。

 服は、たまに顔を合わせる母親が、小遣いと一緒に差し入れてくれている。自分の趣味は無いので、それを適当にアレンジして着ている。

 しかし、まともに人と接する機会のない生活を送っているので、自分の姿恰好が、一体、他人から見て、どうなのか、ということはわからない。

 道行く人が、全員自分を睨んでいる、と思った時期もあったし、自分が透明人間みたいだ、と思った時期もあった。

 今度の誰かに見張られている気がする、というのも、気のせいかもしれない、と思おうとした。

 しかし、何となく、誰かの視線を感じてしまう。

 ふっと振り返っても、誰もいない。

 そんなことが、一週間ばかり続いた。

 どうも気味が悪いけれど、習慣になっているので、深夜にコンビニ巡りをするのはやめられない。というか、聖にとっては、それが、唯一の社会生活だったのだ。

 いつものように、コンビニで漫画を立ち読みしていると、誰かが隣に来た。

 あんまり近づかれると鬱陶しいので、少し横に移動すると、同じように移動してくる。

 以前、変な趣味の親父に、同じような接近の仕方をされたことがあったので、漫画を棚に戻して、パン売り場に行くと、同じように着いてくる。

 パンを選んでいるフリをして、見てみると、小太りのはげた親父が、同じように、パンを選ぶフリをしている。

 コンビニには、暖房が入っているとはいえ、床に落ちるほどの汗をかいている。

 見ていて、気の毒になるぐらいだが、聖は、油断はしなかった。

「すみません」と相手は、蚊の鳴くような声で言った。

「はあ?」と聖が、少し大きな声を出すと、ビクッとして、前よりも汗が吹き出してきたようだった。

 へえ。汗って、はげ頭から出てくるんだ、と聖は、新しい発見をしたような気がした。

 汗というのは、額から出て来るものだと思っていたが、額よりもっと上の方から流れてきている。

「山浦聖君ですね。私、あの、中学の時に同級だった渡辺美穂の父親です」と相手は、タオルみたいなハンカチで汗を拭いながら言った。

 渡辺美穂と言われても、聖には、何の覚えもない。

「あの、一度か二度、お宅まで、一緒に学校に行こうと誘いに行ったことのある」

 そーいえば、そんなこともあったような気がする。男女三人ぐらいが、何度か、家にまでやってきて、「一緒に学校に行こう」と言っていた。

「私、その渡辺美穂の父親です」

 聖は、困惑した。だから、何だというんだろう。

「決して、怪しいものではないんで」

「はあ」と答えるしかない。

 渡辺美穂の父親は、ポケットから名刺入れを取り出して、聖に渡した。

 国何とかという、漢字の多い会社の名前があって、『課長 渡辺健三』と書いてあった。

「こんな深夜に失礼なんですが、是非、お願いしたいことがありまして、お待ちしていたようなわけで」と深々と頭を下げた。

 参ったな、と聖は、思った。

 社会経験が少ないので、こういう場合、どういう顔をして、何を言えばいいのかがわからない。

 渡辺健三の方も、今まで出会ったことのない種類の若者を前にして、どういう風に話していいのかわからずに、内心、非常に困惑していた。

 その困惑が、したたり落ちる汗となって表れたものだろう。

 部下であるとか、得意先相手なら、いくらでも話すことがあるのだが、金髪のロングヘアーの若者となると、その得体の知れなさに、異星人を相手にしているような、今まで自分の立っていた大地が、ポッカリと穴を開けたような、恐怖心と心許なさを感じる。

 健三は、課長とは名ばかりで、昨年の移動で、リストラ予備軍と陰で呼ばれている資料室勤務になってしまった。同じように、五十を過ぎた係長と一緒に、毎日、資料の整理に明け暮れている。そんなことは、会社にとって、何の役にも立たないことは、百も承知だったが、いかにも働いているというところを、見てもらいたかった。

 誰に?

 会社という組織に。というより、自分自身にかもしれない。


2.極秘指令

 そんな健三に、上司から極秘指令が下った。

『年齢十六才、美形で長身の将来性の全く無い男子』を探せ。

「求人広告でも打ちますか」と言った健三に、上司である金平部長は、チッチッチと言いながら、人差し指を左右に振った。

「極秘だ。このことは、大平専務と私と君だけの秘密だ。私も、全部は知らされていないし、大平専務も同じぐらい何も知らない。とにかく、一ヵ月以内に、そういう男子を探し出してくれ。一ヵ月は、出社しなくても、有給扱いとする」

 ガーン、一ヵ月の自宅待機か、と健三は思った。

 いよいよ、リストラか。

「ここだけの話だが、私にも訳がわからん。専務もわからんと言っておられた。美形で長身までなら、芸能プロダクションに行けば、掃いて捨てるぐらいいるだろうが、将来性が全く無いとなると、どこから手をつけていいのかわからない。全ては、君の双肩にかかっている。うまくいけば、定年までに部長も夢ではないぞ」

 うまくいかなければ、クビか、と健三は思った。

 部長に頼み込んで、毎日出社させてもらうことにして、探すのはその後に決めた。

 家族の手前、毎朝出勤しなければ、まずい。

 若い時期、営業畑で、社長表彰さえされたことのある身、足で探せば、と各種芸能プロダクションや俳優養成所に通ったが、十六才で、長身でハンサムな男性は、全員、前途有望だった。

 そりゃあ、そうだろうな、と己の容姿と引き比べて考えた。

 ホストクラブとかにも通ってみたが、十六才はいなかった。いたかもしれないが、見抜けなかった。

 一週間が経つ頃には、部長に首尾を尋ねられる毎に、ビクッとするようになった。

 二週間を過ぎると、資料室に来る足音を聞いただけで、ビクッとした。

 三週間目には、自分から、出社せずに探す旨を、部長に伝えた。連日首尾を尋ねられる緊張に耐えられなくなったのだ。

 家族の手前、毎朝、同じ時刻に家を出て、駅から電車に乗った。近所の誰が見ているか、わかったものではない。

 知り合いに連絡を取り、色々な高校をチェックして、父兄のフリをして授業参観に出席したり、道行く高校生に声をかけて、怪しまれたりした。

 確かに、どの高校にも、長身で美形の男子生徒はいたが、将来性が無いと思われる生徒はいなかった。

 悩める十六才になって、パソコンの若者のチャットルームにも出没したが、『どうよ』『いけいけ』みたいな会話についていけず、オタオタするうちに、出入り禁止になったりした。

 四週間目、とうとう、最終ラウンドに入ってしまった。

 自宅にはかけないでくれ、と部長に懇願しているお蔭で、携帯には始終電話がかかってくる。出ないと自宅にかけられるのはわかっているので、毎朝、毎晩、ネチネチとした質問に答えなければならない。

 最早、これまで、もう、無理だ、家族に訳を話して、会社を辞めよう、と思いかけた時だった。

「あなたからも言ってやってくださいよ」と妻が言った。

「うちの門限は、十時なんですよ。それが、美穂ったら、このところ、帰って来るのが、十一時、十二時。二十歳なら、まだしも、まだ十六なんだから」

 その後も、妻は、何かいっぱい話していたけれど、健三の耳には、同じフレーズが聞こえていた。

『まだ十六なんだから』

『まだ十六なんだから』

『まだ十六なんだから』

 そうか。美穂は、十六才だったのか。

「ね、あなたからも、きつく言ってくださいね」

「わかった」と健三は言った。

 そうか。美穂は、十六才だったのか。

 子供のことは、全部、妻まかせにしてきたので、自分の娘の年も実は知らなかった。

 顔を合わせることも滅多に無い。たまに、顔を合わせても、健三は、娘には完全に無視されている。

『チビ、ハゲ、デブ、足クサイ、あー、イヤ』と娘に思われていることを、健三は知らない。

 妻と娘が、健三の容姿をネタにして、笑い転げていることも、ずっと会社人間だった健三は知らない。

 人間、知らないということは、幸せなことである。

 健三が知っているのは、『オレは、妻子を養ってやっている。オレが会社で働いてやっているお蔭で、家族は幸福なのだ』という思い込みだ。

 今回のリストラの危機が無ければ、健三は、まだまだ幸せな男であり続けただろう。

 ウオッホン、と娘の部屋の前で、大きな咳払いをして、ドアをノックした。

 健三には、妻に頼まれて娘に説教する父親という大義名分があり、また、もしかしたら、会社からの極秘指令に役立つ情報が得られるかもしれない、という名目もある。

 が、今まで、娘と話したことも無ければ、娘の部屋に入ったこともない。

 ノックをしたとたんに、はげた頭から、汗が滝のように流れてきた。

 洗面所からタオルを取ってきて、汗を拭う。

「だれー?」という非常に不機嫌な娘の声がした。

「お父さんだよ」と我知らず、猫撫で声を出してしまった。

「何なのー?」

「ちょっと、美穂と話がしたいと思って」と言いながら、滝のように流れる汗に困惑する。

 こんなに汗をかいたのは、生まれて初めてのことで、部長に首尾を聞かれても、これほどの汗は出なかった。

「明日にしてよー」と言われ、ことばを失う。

 会社に、「明日にしてよー」という語彙は無い。

「頼む、美穂、お父さんと話をしてくれ」といつの間にか、懇願口調になっていた。

 なぜか、目の端に滲んだ涙を、ささっとタオルで拭った。

「何なのよー、一体」と言いながら、あー、ありがたい、娘の部屋のドアが開いた。

 なぜか、胸がドキドキした。

 禁断の処女地に踏み込んだ探検家は、恐らく、この時の健三と同じ気分を味わったものだろう。

「お父さん」と言われて、健三は、ドキッとした。

 娘から、そういう感情をこめて呼ばれたのは、生まれて初めてのことだった。

「泣いてたの?」

「い、いや……そういうわけじゃ」と言いながら、わあっと泣いてしまった。

 自分でも、訳がわからない。

 男が涙を見せる時は、親が死んだ時だけだ、と聞いていたもんだが。まだ、両親は健在だ。

 タオルを持っていて、正解だったかもしれない、と健三は、涙を拭きながら思った。

「ごめんね」と娘が言った。

「お父さんが、そんなに、心配してるなんて、思って無かったから。私さあ、バスケのマネージャーやってるじゃん」と娘に言われても、健三は知らない。

 何か甘い匂いのする娘の部屋で、ベッドの端に腰掛けながら、健三は、娘の話を聞いていた。

「で、コンパやったりの幹事とかもするわけよ」

 うんうん、と健三は、会社で上司に対するのと同じ反応をした。

「今期、うちのガッコ、準優勝までいったのね。で、お祝いコンパが続いてたの。お母さんは、ああいう人だから、門限厳守って言うんだけど、やっぱ、付き合いってもんがあって、中々、うちの門限十時ですから、私、ここで帰りますって、責任上、言えないわけよ。わかる?」

「わかるよ」と健三は言った。

 いやー、わかり過ぎる。

「ふーん。お父さんが分かってくれるとは思わなかった。会社でも、そんなことあるわけ?」

 いやー、よくぞ聞いてくれた。あり過ぎるぐらいある。

「当たり前だよ、仕事なんだから」

「だよねー? お母さんて、働いたことがないからかもしれないけど、全然、そういうのって、わかってないじゃん。電話ぐらい入れられるでしょ、とか。私、帰りますって、言えるでしょ、とか」

 健三は考えた。

 これは、部長と専務の意見が違った場合の、自分の対処の仕方だ。

「お母さんは、美穂のことが心配なんだよ」

『専務は、部長のことを気にかけてるんですよ』

「わかってるんだけどさー。何か、一々うるさいんだよねー」

「どうでもいいんだったら、うるさく言ったりしないよ」

『部長を目にかけてるから、うるさく言ったりするんですよ』

「だよねー」

「そうだよ」

 健三は、内心、ホッとした。会社での対処の仕方が、家庭でも役に立つとは、今の今まで知らなかったからだ。

 その後、会社での場合同様、娘は、散々、バスケット部の不平不満を言い続けたが、健三は、「そうか、そうか」「それは、大変だな」「わかるな、その気持ち」と聞き続けていた。

「ちゃんと、お母さんにも説明してよね」と娘に言われて、「わかった、ちゃんと説明する」と請け負った。父親の仕事、ここで終了。

「じゃ、お休み」とドアに向かいながら、途中で、振り向いた。

 これは、昔、毎週見ていた刑事ドラマの応用だ。

「あ、それはそうと」と健三は言った。

「お父さん、今、仕事で、美形で長身で、将来性の全く無い十六才の男の子を探しているんだけど、美形で長身はいても、将来性の全く無い子ってのが、どこ探してもいないんだよ。今、これで、参っててね」と言ってから、付け加えた。

「見つからないと、クビにするって、上司に脅かされてるんだよ」

 ハハハ、と笑ったけれど、自分でも、その笑い声は、虚ろに聞こえた。

 自分でも、自分の置かれてる状況の超暗黒場面を見てしまったような気がして、これ以上は耐えられない気持ちになった。

 考えるのも怖いが、最悪、会社を辞めれば、すむことだ。

「じゃ、お休み」と娘に言った時、健三は、精神的ブラックホールに飲み込まれようとしていた。

「ちょっと待ってよ、お父さん」と美穂が言った。

「それって、お父さんだけじゃなく、私やお母さんにとっても大事なことじゃないの?」

 健三は、ことばを失った。

 妻子を食わせてやっている、と内心思ってはいても、妻子にとっても、そのことが重大な問題である、とは思ってもみなかった。

 健三だけでなく、日本の男性全般の傾向かもしれない。

 自己評価が異常に低いのである。

 自分の評価を仕事や会社の評価だけに委ねているせいか、家庭での自己評価は異常に低い。

 それが、『食わしてやっている』『養ってやっている』という態度に出るのだろう。

「美形で長身で、将来性の全く無い十六才の男の子ね。それって、この世に絶対に無いものを探せという宿題に近いわよ」と娘に言われ、健三は、シミジミと『その通りだ』と思った。

「いいんだよ。そんなものは、無いというのは、散々わかったから」と健三は言った。

 別に聞かれている訳でもないのに、健三は、自分のここ三週間の苦労を娘に語る羽目になった。

 三週間前の健三なら、そんなことは、死んでも妻子に話す男ではなかったのだが。

「ふーん。それは、無理よ。何かをやろうとしている子とか、学校に行っている子には、将来性はあるわよ。しかも、長身で美形なら、周囲が放っておかないしね」

「だよねー」とここ一時間のうちに、部長以上の上司になってしまった娘に、健三は、相槌をうった。

「けど、不登校の子は、別よね」と娘は言った。

 娘が、しばらく考えを巡らせているのを、健三は、部長が考えを巡らせている時のように、黙ってじっと待っていた。

「中学の時に、いたよね、一人。美形の卵みたいなヤツ。私、委員長と一緒に、二回ほど行ったことがあるよ、その家に。背は……そんなに高く無かったけど、今は、どうかは知らないけど、ま、気になるヤツではあったよな」

 健三は、死刑の判決を聞くような気持ちで、その次のご神託を待った。

「やーねー、お父さん。卒業アルバム見る?」

 うんうん、と健三は頷いた。

 花壇が写っていた。

 これでは、美形かどうか、判断ができない。

「学校も、ひどいことするよね」と娘が言い、健三は、うんうんと頷いた。

「山浦聖って名前だったんだね。何か、美形がどうこう言う前に、とっても綺麗な子だったような気がするよ」

「ありがとう、美穂」と健三は言った。

「頑張って、お父さん」と言った娘の美穂が、心の中で、『でも、今は、お父さんに似た頭や体型になってるかもよ、その時はごめんね』と思っていることまでは、健三は知らなかった。いや。知る必要も無いことだが。

 その翌日から、目標を一点に絞った健三の探索が始まった。

 山浦聖が、誰かに見張られているような気がした時と、一致する。

 渡辺健三が、家の二階に天体望遠鏡を設置し、双眼鏡を首から下げ、山浦聖の行動全般を調べ始めたからだ。

 山浦聖は、まれに見る美形だった。しかも、娘の知っている中学時代からは、確実に背が延びている。

 長身で美形。

 しかも、登校拒否児。

 毎夜毎夜、深夜徘徊する生活。

 正に、将来性、まったく無し。

 昔人間である渡辺健三にとって、これ以上将来性の無い人間は、想像もつかなかった。

 一体どうするんだ、学校にも通わないで。

 人様の起きる時間には、何をしているのかわからないが、人様の寝ている深夜の二時三時になって、活動を始める。 

 しかも、四軒のコンビニエンス・ストアを順番に徘徊。

「それは、有望だな。その調子で頑張れ」

「はい。これ以上の人材は、まず、どこを探してもいないと思われます」と部長との携帯電話での会話にも、弾みがついた。

「専務も、その線で押せと言っておられる」

「は。この線で押します」

 と答えながら、奇妙な違和感も生じた。

 極秘指令。

 誰かはわからない人物からの極秘指令。

 それを、専務が受け、部長に流した。それを自分が受けた。

 極秘指令。

 急に、自分が、スパイ映画の主人公になったような気がした。

 いや、そうではない。

 スパイ映画の主人公は最後まで死なないが、主人公でもない自分は、極秘指令を全うした瞬間に、消されるのではないか。

 いやいや。今は、自分の首が繋がることだけを考えよう、と健三は思った。

 山浦聖の行動パターンは把握できたが、後は、どうやって接触するかだ。

 そして、ハゲ頭から大汗をしたたり落とす、前述のコンビニでの場面となったわけだった。


3.平和な日々の終焉


「こんな深夜に失礼なんですが、是非、お願いしたいことがありまして、お待ちしていたようなわけで」と健三は、深々と頭を下げた。

「お願いって言われても……」と聖は困惑したままだ。

 健三も、深々と頭を下げながら、次はどうしたらいいのか、と超高速で考えていた。

 部長は、即車に乗せてから、携帯で連絡しろと言っていた。

 車は、コンビニの横に泊めてある。

「まず、車でドライブでもしながら、お話させていただきたいと思うのですが」

 聖は、手にした名刺を見ている。

『車でドライブ……何かやばいかもしれない。ホモ親父だったら逃げられない』と内心考えている。中学の時に同じクラスの女生徒の父親だとは言っても、会ったのは初めてで、どういう趣味をしているのかまでは、わからない。

「車は、ちょっと」と言ってみた。

「酔うもんで」というのは、嘘だ。

 話なら、ここでもできる。

 と見ている間に、またも、ハゲ頭から汗がしたたり落ち始めた。

 健三は、困惑の極致だ。どうすればいいのかわからない。

 聖は、その大量の汗を見て、やはり、やばい親父に違いない、という確信を深めていった。

 そして、健三が汗を拭っている隙に、脱兎のごとく走り去り、自分の家に逃げ帰った。

 自分の部屋に辿り着くと、ハーハー言いながら、ベッドに倒れこんだ。

 あー、危ない親父だった。

 が、ホッとしたとたんに、一日の唯一の楽しみであるコンビニ巡りを邪魔された怒りが込み上げてきた。

 聖は、近所に四軒ある各コンビニで、雑誌や漫画を立ち読みし、ゆっくり店内を見て回った後、カレーパン、ポテトチップス、野菜ジュース、コーラをそれぞれの店で買って、家に帰ってから、音楽を聞きながら食べるのが楽しみなのだ。

 カレーパン君、ポテチ君、ベジ君、コーラ君という風に、自分なりの名前をつけているコンビニエンス・ストア達。

 あー、腹が立つ、と思ったとたん。

 ピンポーン

 というインタフォンの音がして、ビクッとして、ベッドから飛び上がった。

 時計を見ると、午前四時、普通の人間が、人様の家を訪問する時間ではない。

 アイツだ、あの変態親父に違いない。

 怖いぞ。どうすればいい、と部屋の中を歩き回ったが、何の知恵も浮かばない。

 無視だ。無視していたら、帰っていくだろう。ところが。

 ピンポーン

 聖は、また、飛び上がった。怖すぎる親父だ……

 健三の方は、まさか、突然逃げられるとは思っても見なかったので、一瞬、コンビニ内で、茫然自失状態に陥った。

 コンビニの外に出て、即部長に電話したが、さすがに、午前四時前には、部長は寝ている模様だ。

 パニックに陥りそうになったが、突然、家は突き止めてある、という考えが浮かんだ。

 そうだ。家は突き止めてあるんだ。

 で、健三は、山浦家まで行って、インタフォンを鳴らしたというわけだった。

『こんな真夜中に非常識』なことをしている意識などはない。

 聖の方は、寒さだけでなく、怖さに身体が震えてきて、パジャマに着替えると、頭から布団をかぶってしまった。

 明日から、オレはどうなるんだろう、もう外に出られないかもしれない、と思うと、目の端から一筋涙が流れていた。

 聖の平和な日々は、ここで幕を下ろしてしまった。

 インタフォンの音は、数えていると、十八回鳴っていた。

 十八回目で、二階から階段を降りてくる足音が聞こえた。

「聖ですよ、お父さん」という母の声が聞こえている。

 今しも、聖の両親が揃って、インタフォンに向かっているところだった。

 すぐに玄関を開けようとする母を父が止めた。

「いや、待て」

 そして、聖の部屋のドアを開けて、聖が寝ていることを確かめた。

「聖は寝ているみたいだぞ」

「まあ、こんな時間に、一体誰なんでしょう」

「どこかの酔っぱらいかもしれんな。ちょっと、お前、出てみろ」と父は言った。

「いやですよ。お父さん、出てくださいよ」

 しばらく夫婦で押し問答を続けたあげく、覚悟を決めた父が「はい」とインタフォンに出た。

 その時には、渡辺健三は、ガックリと肩を落として、車で家路についた後だった。

 車を使わなくても、ごく近所だったが、「車に乗せろ」という部長の指示があったので、車を使ったまでのこと。

 朝早く起きて、会社に行ったフリをしてからの深夜の尾行で、疲れ切って、すぐに寝てもいいようなものだったが、健三は、目が冴えて眠れなかった。

 台所に行って、グラスに氷を入れると、ウイスキーを並々と注いで、グイーッと飲んで、ゴホゴホッとむせた。

 健三は、ビール党で、滅多なことでは、ウイスキーが減ることはない。

 部下を大勢引き連れて、ネオン街を回った、景気の良かった頃の自分を思った。

 今では、部下と言っても、同じくリストラ最前線の係長だけ。その唯一の部下すら、今はいない。一人きりで、将来性の全く無い若者を追い回している。

 頭の中にあるカレンダーに、また一つ×印が増え、とうとう残り時間は、あと三日になってしまった。

 曜日の観念などは無くなってしまっていたが、頭の中のカレンダーを見ると、明日は土曜で、明後日は、日曜だった。

 いや、もう土曜になってしまっている。

 ウイスキーの残りを飲み干す頃、ほどよい酔いが回ってきていた。

 こっそりと家の電話線を抜き、携帯の電源もオフにした。

 遅くまで寝て、夜行動する予定だ。部長からの電話で邪魔されたくはない。

 床についてからも、しばらくは悶々としたが、やがて、健三は、深い眠りについた。


 可哀相なのは、夜まで寝ていたので、布団を被ってはいても、寝るに寝られない山浦聖

だ。

 夜明けまで、ベッドで転げ回ったあげく、ガバッと起き出した。

 いい考えが浮かんだのだった。

 それは、聖の全生活改造計画だった。

 いや、まだ決断はできない。今までの心地好い生活には、未練がたっぷりとある。

 あの親父は、会社員だ。ということは、朝は会社に行っているに違いない。

 コンビニ巡りを早朝に変更すればどうだろう。

 聖は、土曜日曜は、会社が休みだなどと考えもしなかった。また、健三が、現在、すぐ近所の家で寝ていることも、全然知らない。

 服を着替えると、聖は、鏡でじっくり自分を見ながら、髪を整え、コロンをつけた。

 恐る恐る、玄関のドアを開けて、辺りを見回したが、あの親父の姿は無い。

 昨日の夜の続きから始めるつもりだ。

 明るい朝の光に目が眩みそうになる。

 道行きながら、あの親父の出現のせいで、失ったものが大きいことに気がついた。

 夜の闇の落ち着きが、朝には消え失せて、どこかざわざわとした感じがする。

 コンビニで、漫画を読もうとしても、夜中ほど面白くないし、朝の光の中では落ち着かない。

 仕方無く、最初の店で、カレーパン、ポテトチップス、コーラを買った。

 愛用の野菜ジュースは、ベジ君にしか置いていないが、徐々に人通りが増えてきて、ベジ君まで行く気が起きなかった。

 家に帰って、自分の部屋で、音楽をつけたが、夜中から明け方までは、しっくり来る音楽が、変によそよそしく聞こえた。

 カレーパンを食べ、コーラを飲んだら、何か、優雅な晩餐という感じではなく、ただの朝メシという味気なさだ。

 それに、問題があった。

 夜行性の生活を送っている限り、家族と顔を会わす機会は滅多に無いが、この時間帯では、冷蔵庫をあさるにも、トイレに行くにも、家族と顔を会わすことになる。

 オレは、今、地獄を見ている、と聖は思った。

 聖は、想像の中で、あのハゲ親父を、グウで殴り倒した。ハゲ頭を靴で踏んだ。

『やはり、殺すしかないか』と聖は思った。

 友達のいない聖は、想像力が発達している。というか、自分の想像力しか相談相手がいない。

 包丁で突き刺す。これは、何となく、血が出たりして怖い気がする。

 猛獣の檻の中に親父を入れて、猛獣の餌にする。問題は、檻の鍵をどうやって、手に入れるかだ。

 崖から突き落とす。しかし、適当な崖のあるところは知らない。


4.美穂と真由


 と、その時。

 ピンポーン

 というインタフォンの音に飛び上がった。何て、しつこいヤツだ。

「はい」という妹の声がする。妹の声を聞くのなんか、何年ぶりだろう。

「さあ」と妹が答えている。

「ちょっとお待ち下さい」と大人びたことを言っている。

 コンコン、とドアをノックする音がして、妹が顔を出した。

 お互いに、しばらく顔を見合っていた。

 妹は真っ赤になって、「あのー、中学の時の渡辺さんていう女の人が来てるけど」と言った。

 聖も、少し赤くなった。

 兄妹揃って、同じことを思っていた。

『大きくなったなー』

 妹は、兄がハンサムなことに驚き、兄も、妹が美人になっているのに驚いた。

 渡辺って、あの親父が言っていた中学の時の同級生か、と聖は思った。

 妹が、物問いたげな顔で立っているので、仕方無く、玄関まで出て行った。

 中学の時の顔は思い出せなかったけれど、玄関先に立っている女子を見ると、何となくこんな顔をしていたような気もした。

「山浦君? 渡辺です。覚えてる?」と渡辺美穂が言った。

 美人ではないけれど、悪い感じの女子ではない。

「うん」と聖は、答えた。まさか、女の子に対して、「覚えてない」というわけにはいかない。

「山浦君、背、高くなったね」と美穂。

 別に父親に頼まれた訳でもなかったけれど、我が家の平和と経済が、山浦聖にかかっているとなると、美穂もじっとしていられない気持ちだった。

「そうかな」と聖。

「百八十はないよね。七十五ぐらい?」と美穂は、バスケ部の誰彼を思い浮かべながら、尋ねた。

「さあ」

 聖には、自分の身長がどれぐらいなのか、計ったことがないから、よくわからない。

「歩きながら、話そうか」と美穂が言った。

 何か、正面から話していると、顔が赤くなっていきそうだった。

 胸は、変にドキドキしているし。

 バスケ部にもハンサムが揃っていたけれど、こういうタイプのハンサムはいない。

 眉毛は太く、目が大きい。しかも、金髪のロングヘアーが、少しウエーブしていたりする。

 正に、少女漫画から抜け出してきた王子様。

「私ね」と言っていると、何か告白でもしているような気になってしまう。

 いかん、いかん。

 父の仕事の件が優先。我が家の安泰が優先、と自分に言い聞かせる。

「少し前だったかな。父が仕事のことで大変だってのを、初めて知ったのよ。背が高くてハンサムな十六歳の男性を探しているっていうの。ところが、全然見つからない。一ヵ月以内に見つけないと、仕事を辞めさせられるらしいの」

 さすがに『将来性が全く無い』というのは、付け加えなかった。

 聖は、どうしていいのかわからずに、聞いているだけだ。

 道行く人達が、自分達をジロジロと見ていくのが、気になってもいる。

 もしかすると、自分にどこか変なところがあるのかもしれない。

「で、私、十六歳と言えば、と思って、山浦君のことを思い出して、中学の時の同級生に、背が高いかどうかわからないけど、ハンサムな子がいるって、教えたのよ」

 犯人は、お前だったのか、と聖は思った。

 で、あの親父は、変な接近の仕方をして、インタフォンを十八回も鳴らし、そのお蔭で、下手をすれば、もう少しで、殺人犯になってしまうところだった。

「父に会った?」

「昨日、会った」と聖は、不機嫌に答えた。

「で?」

 で? と言われても、答えようがない。

 そりゃあ、聖は言ってやりたかった。

「お前の親父の変態的な行動のお蔭で、オレは、一日の唯一の楽しみのコンビニ巡りがパーになって、悲惨な目に会ったんだ。お前の親父なんか、会社をクビにでも何でもなって、ビルから飛び下りて、ペッタンコになったらいいんだ!」

 が、実際には、何も言わなかった。

「そっか。断られたんだ。何か夜中に帰って来て、台所でガチャガチャして、今日は、寝てるし、変だと思った」

 ここまで言われると、聖も言うことにした。

「オレ、凄く怖かったんだ。だって、真夜中のコンビニで、車に乗ってお話しようなんて言うんだぜ。そりゃあ、断るよ」

 その上、家にまで来て、インタフォンを十八回も鳴らしたというのは言わなかったが。

「えー。そんなこと言ったの? バカ親父だね」

 アハハハ、と美穂が笑ったので、仕方なく、聖も笑った。

「だって、変な趣味の親父かと思うよ、そんなこと言われると」

「えー! うちのお父さんを、ホモだと思った?」

 アハハハハハ、と美穂は、一人で大笑いしていた。

 笑い死にするんじゃないか、と聖が心配になったぐらいだ。

「アハハ、アハハ、アー、アハハ」と涙まで流している。それをタオルみたなハンカチで拭っている。

 それを見て、聖は、ハゲ頭から流れ落ちる汗を連想してしまった。

 やはり、親子だ。

 しかし、こんなお日様の照り輝いている中を歩くのは、本当に何年ぶりか。

 数えてみたら、三年半ぶりだ。

 しかも、と、ふと聖は思った。

 オレは、女の子と歩いている!

 まだ、笑いの発作の余波に取りつかれている渡辺美穂を見ていると、想像していたようなロマンチックなものではなかったが。

 美穂は、美穂で、内心、焦っていた。

 笑っている場合じゃないのに、どこかツボにはまってしまったように、笑いが止まらない。この状態は、非常に苦しい。何とかして欲しい。

 この超美形の前で、こんなのは、凄く恥。

 ウフー、ウフー、と断末魔の笑いの余波の声を上げながら、美穂は、公園のベンチを指差した。このままでは、笑い倒れてしまう。

 この二人の後を、つけている人間がいた。

 聖の妹の真由だ。

 真由自身、なぜ、後をつけているのか、自分でもわかってはいないが、突然目の前に現れた超ハンサムな兄を、今日来たばかりの女に連れて行かれることに、理由無く腹が立っていた。

 真由から見ていると、二人は、物凄く楽しそうに笑い合っている。

 それは、ちょっと許せない気がした。

「私のお兄ちゃんよ!」と言いたかったが、もちろんそんなことも言えず、こそこそと後をつけているばかりだった。

 今しも、二人は、公園のベンチに腰を下ろした。

『きっと、エッチなことをするに違いない!』と真由は思い、そんなことになったら、どうしよう、と途方に暮れた。


5.部長と専務


 ちょうどその頃、渡辺健三は、部長に叱責されている悪夢にうなされながらも、何とか睡眠を保っており、何度、健三の携帯に電話をかけても繋がらず、自宅にかけても繋がらない金平部長は、ちょっとしたパニック状態にあった。

 携帯には、健三から電話があった形跡がある。が、その後、音信不通だ。

 大平専務からは、早朝から、例のハンサムはどうなったか、という電話が、頻繁にかかってきている。

 余すところ、今日を入れて、三日しかない。

「渡辺君が、車を用意して、Xに接近する直前まではわかっているんですが」と部長にわかるのは、そこまでだ。

 山浦聖は、この二人の間では、『X』と呼ばれている。想像力豊かな本人が聞けば、少し喜ぶかもしれない。

「それでは、何かね。君は、X計画を全部、渡辺君まかせにして、自分では何も動いていないということかね」と言われると、部長には返すことばが無い。

「専務、あんただって、私に押しつける以外、何もしてないじゃないですか」と言えたら、気分はスッとするだろうが、会社での立場が危うくなる。

「私の落ち度でございます。渡辺君が自信を持っていたので、全面的にまかせてしまいました」

「わかっているなら、何とかしたまえ」

「今すぐ、渡辺宅に参ります」

「よかろう」

「けど、専務、昨夜、渡辺君に聞かれて困ったのですが、Xを車に乗せるのはいいとして、車は、どこに向かえばよろしいのでしょうか」

「何を言っているんだ。会社に決まっているだろう」と言うと、専務からの電話は切れた。

 金平部長は、専務も知らないのか、と内心、溜め息をついた。深夜に、会社は開いていない。また、会社のどこに連れて行けというのだろう。

 これは、下手したら、未成年の誘拐事件に発展するかもしれない。

 相手が、いくら、将来性が全く無い人間にしてもだ。

 金平部長は、暗い気持ちで、渡辺健三の家に向かって、車を発進させた。

 行くも地獄、行かぬも地獄の気分だ。

 しかも、今日は、会社の休みの土曜日だ。

 たまには、家族サービスでもしないと、家の中に、ますます居場所が無くなってしまう。

 金平部長も、自分が休日にいなくなると、渡辺一家同様、家族が非常に喜んでいるなどと、知るよしもなかった。

 しみじみと、知らないというのは、幸せなことなのだった。


 さて、公園である。

 ベンチに座った、山浦聖と渡辺美穂、それを離れたところから見張っている聖の妹の真由。

 ようやく笑いの発作の収まった渡辺美穂は、今度は、シクシクと泣き始めた。

 困惑するのは、山浦聖だ。

 もう、昨日から今日にかけて、三年余の平和な日々が嘘だったかのような激動の時代に突入してしまった観がある。

 神様、どーか助けてくださいという気分に陥っている。

 女の子のことは、様々な角度から想像はしたけれど、そんな想像は、全部、嘘だった、ただの妄想、と現実に言われているみたいだった。

 理解不能。解読不能。応答願います。応答願います。

「うっう。ごめんね、山浦君」と美穂も、今日の自分が理解できない。

 突然、今まで知らなかった自分が顔を出し、ドキドキしたり、笑ったり泣いたりしている。

 また、離れたところから見張っている聖の妹の真由にとっても、目の前の事態が理解できずに、途方に暮れていた。

 自分の見ている限りでは、お兄ちゃんは、何もエッチなことはしていない。

 なのに、さっきまで笑っていた女が、突然泣いている。

「付き合ってください」

「ごめんなさい」

 というような展開が、この短時間で起こったのだろうか。

 真由には、それしか考えられない。

 何だ、そーか、と思うと気が抜けて、こんなバカなことをしていても仕方がない、それにおなかがすいた、と思って、家路についた。

「山浦君、うちまで送ってくれない?」と美穂が言った。

「う、うん」と聖。まさか、ここで、いやとは言えない。

 そこで、二人で公園のベンチから立ち上がって、美穂の家に向かうことになった。

 美穂は突然無口になり、聖も別に話題は無い。

 そして、渡辺健三の家に猛スピードで向かっていた金平部長の車が、健三の家の前に着いたのと、美穂と聖が着いたのとが、正に、奇跡としか言いようの無いほど、ピタリと一致した。

 健三の家の前に車を止めて降りてきた金平部長。

 美穂を家にまで送ってきた聖。

 これは、天が与えた、信じられないような偶然の一致だったが、金平部長は、健三の家のインタフォンを鳴らすのに忙しく、美穂と聖は門の前で別れ、この天の与えた奇跡の恩恵は、誰も受け取らなかった。

 一番気の毒だったのは、ようやく悪夢を離れて熟睡できたとたんの渡辺健三だったろう。

 まさか、その悪夢が、我が家にまで来るとは、夢にも思っていなかった。

 美穂は、自分の部屋に入って、ぼうっとしたままだったし、インタフォンの応対に出た母親は、ビックリ仰天して、健三を叩き起こし、まだ、半分以上夢の世界の住人の健三は、悪夢そのものと対面することになった。パジャマ姿のままで。


6.発端


 さて、ここに一人の老人がいた。

 息子に養われている老人である。

 息子は、会社の経営者だ。長年、父を見てきたので、父のようにはなりたくない一心で、ここまで来た。

 老人は、本当に売れない作家だった。

 売れない作家というよりも、作家未満といった方がいい。

 まず、賞を取ったことはない。

 雑誌に掲載されたこともない。

 本が出版されたこともない。

 書くことで食べたことがない。

 結婚する前は、両親に養ってもらい、結婚した後は、妻に養ってもらった。

 妻が死んだ後は、息子に養ってもらっている。

 本人に言わせると、五歳の時に、『作家になる』と決めたらしい。

 以後、その幼児決断は、決して覆ることは無かった。

 彼は、毎日、仕事のように、小説を書いていた。

 その小説群は、引っ越し用の段ボールに詰めると、六十箱か七十箱分あった。

 書き出しだけで終わった作品とか、何度も書き直した作品、推敲に推敲を重ねた作品などもあったので、実際に完成した作品は、その何十分の一だったのだが。

 この老人の奇妙なところは、自分の書いた作品を、両親や妻や息子という、家族にしか読ませなかったところだ。

 老人の名は、国東喜義といった。

 両親は、この子は天才だと思って、喜んで育てた。だが、それだけのことだった。

 妻も、自分の養っている夫は、天才だと思って、一心に尽くした。でも、それだけだった。

 息子は、父を天才だとも思わなかったし、作品を面白いとも思わなかったが、それは、口には出さなかった。

 そして、月日が流れたが、この『作家』は、決して書くことを止めなかった。

 息子は、父に他の仕事をしろとか言う気は全く無かったが、そうやって何十年も書いて書いて書き溜めた作品を、一度も公表しようとする気がないのを非常に不甲斐なく思った。

 当節、いくらでも新人賞はあるし、出版社への持ち込みだって、しようと思えば出来る。

 それを全くする気がないのは、自分の作品に対して、自信がないせいだと思った。

 それと、一生懸命に働いて、今日まで来た自分をバカにされているような気がした。

 母親の苦労を見てきたので、高校生の時からアルバイトをして、家計を助け、ありとあらゆる仕事をして、会社を起こし、苦労に苦労を重ねて、今日の自分を築いた。

 それに引き換え、親父は、人生で一銭も稼ぐことなく、人に食べさせてもらって、生きている。

 親は、まだいいとしよう。

 妻も、許せない気もあるけれど、本人が納得していたので、よしとしよう。

 しかし、子供の自分としては、非常に情け無い気がしている。

「本当に、自分を作家だと思っているんなら、せめて、書いたものを世間に公表したらどうなんですか」とある時、腹にたまっていたものを吐き出すように、父親に言ったことがあった。

 すると、父親は、ポロリと涙をこぼして言った。

「すまんことだと思っている。自分が、寄生虫みたいな人間だということは、自分でも、よくわかっている。けど、許してくれ。私には、書くことしかできないんだ。何でか知らないけれど、それしか出来ないように生まれついてしまった。お前にも、お前のお母さんにも、私の両親にも、本当に申し訳ないことだと思っている。けれど、お前が、私みたいでなく、立派に会社を作って、毎日働いているのを、本当に誇らしく、また、羨ましく思っているよ」

 そう実の父親に言われてしまうと、社長には、何も言えなくなった。

 自費出版の話も何度か持ち掛けたが、父親は、いやー、と首を振るばかりだった。

「私は、書いている時が、一番幸せなんで、それだけでいいんだ。ずっと、こんな幸せなことをさせてもらっているだけで申し訳ないと思っている」

 父親が老齢になり、癌を患い、弱りきった時、社長は、ついに、枕元に両手をついて、訴えた。

「お父さんの本を出版させてください。お願いします」

「いやー、私の書いたものは、全部、自分の楽しみのためのもんで、それ以上のものではないから」

「お願いします」

 そう言った時に、父親は言ったのだった。

「私が書いたものなら、誰も読まないだろう。しかし、これを書いたのが、背も高くて、男前で、十七歳の少年だったら、読んでもらえるかもしれんなあ」

 ハハハハハ、と老人は笑い、数日後に、息を引き取った。

 この物語が本当に始まったのは、その瞬間だったのかもしれない。


 社長は、父親が亡くなった後、それまでは思ったことの無かったことを色々と考えるようになった。

 コインの裏表とか、自分は父の影ではなかったかとか、父がいたからこそ、今の自分があったのではないか、とか、それこそ、ありとあらゆることを考えた。

 そして、同時に、思ってもみなかった深い深い穴が、自分の心の奥底にポッカリと開いているのを感じた。

 無為な存在、生きていても仕方のない存在、自分の永遠のお荷物だと思っていた父が、存在していたという、ただそのことだけで、自分を深いところから支えてくれていたことを知った。

 そう。自分のすることに何の疑問も異議も差し挟まなかった父。

 ただ、ただ、自分の全てを受け入れて、無言のうちに全部肯定してくれていた父。

 そのお蔭で、何でも自分のしたいことができた自分。

 これは、自分でもどうしようもない感覚だった。

 父が死に、自分の魂も一緒に死んだような気がした。

 父が魂の部分を受け持ってくれていたから、自分は、魂抜きで、ひたすら儲けに走ることができた。

 が、魂が無くては、人間は生きてはいけないのかもしれない。

「社長、一体、どうなさったんですか」と言われながら、一年間は、本当に、魂の抜けた状態で過ごした。

 まず、全身に力が入らない。

 今まであったエネルギーが、どこからもわいて来ない。

 誰にも会いたくない。

 何もしたくない。

 その一年間、会社の経営の全てを部下にまかせて、父親の作品を読み続けた。

 その結果わかったことは、父親は、決して、プロの作家では無かったということだ。というより、プロにはなれない作家だということだった。

 まず、自分の書きたいものしか書いていない。

 たとえ、たまたま賞をもらったり、運良く出版されて本になっても、決して長続きはしなかっただろう。

 だから、父親は、永遠のアマチュアの道を選んだのだ。

 しかし、残した作品の量は膨大だ。

 その全部を読み終えた時、その全作品で、父親は、人生というもの、魂というもの、生きるということ、死ぬということ、生命の源、宇宙の起源、意識はどこから来たか、という父親にとっての、ありとあらゆる興味を書いていたことがわかった。

 きっと、プロの作家になっていたら、そこまで、自分の好きなことだけを書くことはできなかっただろう。

 父親と違って、社長は商売人だった。

 そこに、莫大な量の商品がある。

 それを、どう売るか。

 どうすれば、売れるか。

 父親の最後のことばに、こだわることにした。

「私が書いたものなら、誰も読まないだろう。しかし、これを書いたのが、背も高くて、男前で、十七歳の少年だったら、読んでもらえるかもしれんなあ」

 そう。

 ここから、長身、美形の十七歳ではなく、十六歳の少年が探されることになった。

『将来性が全く無い』という特性が付け加えられたのは、社長の炯眼だろう。


7.社長登場


 大平専務から社長の携帯に電話がかかってきた。

「言われる通りの少年が、ついに見つかりました」

「遅かったな。早く連れて来てくれ」

「いや、それが、渡辺課長の接触の仕方がまずくて、逃げられてしまった模様です」

「渡辺課長? 何で、そこに渡辺が出てくる」

「金平部長が、全部、渡辺課長に押しつけていた模様で」

「何で、金平まで出てくる」

「とおっしゃいますと」と専務は、何となく背筋が寒くなった。

「いいか。私は、君を見込んで頼んだんだぞ。極秘だと言わなかったか」

「は、はあ。しかし、私は多忙を極めていまして、自分の見込んだ金平部長に、極秘だということで」

「君は金平に、金平は渡辺に押しつけたんだな。で、渡辺は、誰に押しつけた」

「渡辺課長は、自分で動いている模様です」

「なるほど。では、渡辺をここに呼べ」

「ここと申しますと」

「社長室だ」

「では、早速、私と金平部長と渡辺課長とで参ります」

「君と金平は、この件から下りてもらう。極秘なので、知る者は少ないほどいい。もう、この件については忘れるように。金平にも、そう言っておけ。今後、渡辺との接触は許さんぞ」

「と申されましても」

「忘れろ。この件に関わらなくて、幸運だったと思うことになる。もし、秘密を全部知ってしまったら、消えてもらわなくてはいけないからな」

 大平専務は、内心、ヒエー、と思った。こんな詰まらない極秘の仕事で、消されるのは、イヤだ。

 社長に関しては、謎が多く、私生活については、誰も知らない。

 政界や暴力団と繋がりがあるとか、祖父がマフィアで、父親がヤクザだとか、様々な噂や憶測が乱れ飛んでいる。家の地下には、美女百人がいるハーレムがあるらしい。

「承知いたしました。金平にも、そう申し伝えます」

「一つ聞くが、金平は、私からの極秘指令だと知っているのか」

 一瞬、大平専務の脳裏に、スナイパーに射殺される金平部長の姿が浮かんだ。

「い、いえ。ただ、極秘指令だと言ってあるだけです」

「ふっ」と社長は笑った。

「二人共、命拾いしたな」

「ははー」と大平専務は、背筋に鳥肌を立てながら、電話器に頭を下げて、一、二、三と数えてから電話を切った。

 金平君、僕は君の命の恩人だ、とちょっと目頭が熱くなったりした。

 そして、多分、秘密を全部知ることになる、気の毒な渡辺課長の冥福を祈った。

 大平専務は、即、渡辺邸にいる金平部長に電話をかけ、「渡辺君には内緒だが、この件から、我々は手を引いた方がよさそうだ」と声をひそめて言った。

「は。と申しますと」と金平部長も同じように、声をひそめた。

「この件のことは、お互いに忘れることにしよう」

「は?」

「渡辺君には、気の毒だが、秘密を知ってしまうと、どうやら命が危ないらしい」

「えー!」

「シー。だから、我々は、速やかに、この件から手を引き、渡辺君に全てをまかせて、何もかも忘れることにする。後で、例の場所で落ち合おう」

「は」

「では、渡辺君に代わってくれたまえ」

「は。しばらくお待ち下さい」

 金平部長は、心持ち青ざめた顔で、「大平専務からだ」と言って、携帯電話を渡辺健三に渡した。

 健三は、白紙のような顔で、電話を受け取った。

「やあ、渡辺君、お手柄だそうだね」と電話の向こうからは、予想に反して、明るく爽やかな専務の声が聞こえてきた。

「は、はあ」とまだ健三の顔に血色は戻って来ない。

「休みの日に悪いんだが、会社まで来てくれないか」

「かしこまりました。今すぐ、用意して参ります」

 健三は、電話を部長に返すと、慌てて、用意を始めた。

「では、私は、これで」と部長は、そさくさと帰って行った。

 約二週間ぶりの出勤だ。しかも、休日出勤。

「あなた、行ってらっしゃい」と珍しく、妻が玄関まで見送ってくれた。何となく、重大なことが起こっているらしいことが、妻にもわかるのだろう。

「お父さん、仕事?」と娘までが見送ってくれる。何となく、目と鼻の頭が赤くなっている。自分のことを案じてくれているのだな、と思って、健三は、胸がジーンとした。

 この娘が、ついさっきまで、例の山浦聖と一緒にいたなどとは、神ならぬ身の渡辺健三は、知るよしも無かった。


 渡辺健三が会社に向かって電車にゆられながら、居眠っている間、大平専務と金平部長は、自分達の幸運を祝して、昼間っから、祝杯をあげていた。

「渡辺君には気の毒だが、Xの件は、渡辺君一人に背負ってもらうしかない」と大平専務は言った。

「で、まさか、君は、Xと接触したり、写真を見たりしなかっただろうね」

「と、とんでもない。中学時代のアルバムでは、花壇しか写っていませんでしたし、渡辺君からも、長身でハンサムだとしか聞いておりません」

「Xの名前とかも聞いてないね」と専務に言われて、部長は一瞬ギクッとした。聞いたとは思うけど、Xとしか思っていないので覚えてはいない。

「幸い、聞いておりません」とこの線でいくことにした。

「では、そんなことも全て含めて、忘れることに、カンパーイ」

「カンパーイ」


8.契約


 専務と部長が、いい気分になった頃、健三は、会社に着いた。

 正面玄関は開いていないだろうと思ったら、自動ドアが開いた。

 専務は、休みの日にまで仕事か、と頭が下がる。

 ところが、専務の席に行っても、専務はいない。

 とその時、健三の携帯電話が鳴った。

「はい」

「渡辺君だね」という聞き慣れない声だ。

「はい。渡辺でございます」

「社長室を知っているか?」

「は、はい」

「すぐ来るように」

「はい」

 ということは、電話の相手は、しゃ、社長!

 社長室の前に立つと、頭を低くして、ノックした。

「どうぞ」という声がして、「失礼いたします」と頭を低くして、腰をかがめながら中に入った。

 社長は、席を立って、健三の方に歩いてきて、ソファを勧め、「何か、飲むかね」と言った。

「いえ、とんでもない。私は、仕事で参りましたので」

「お手柄だそうだね」

「は」

 しかし、専務からの電話がかかってくるまで、部長には、昨夜の不手際やら、電源を切っていた件で散々責められていた。

「この件は、極秘なので、専務と部長には下りてもらった。元々、実際に動いていたのは、君だということだし。で、専務と部長は、どこまで知っている?」

「は? どこまでと申しますと」

「例の少年の名前とか顔だ」

「部長には、少年の中学時代のアルバムをお見せしましたが、アルバムには写真がありませんでしたので、名前ぐらいしかご存知ないかと思います。もし、覚えておられればですが」

 健三は、社長に聞かれるままに、少年の名前や住所や行動形態、娘との関わりとか、一切を話した。また、コンビニでの接触に至るまでの経過や、コンビニでの未知との遭遇、あっという間に逃げられたことや、自宅への訪問なども隠さず話した。ただ、インタフォンを十八回鳴らしたことは、自分では数回と思っていたので、話さなかった。

「では、娘さんも、このことを知っているわけだね」と社長に言われて、健三は、なぜか、背筋が寒くなった。

「知っていると申しましても、私が仕事で、美形で背が高くて、将来性が全く無い十六才の少年を探しているということしか知りませんが」

「ふーむ」と社長は、しばらく考えを巡らせているようだった。

「とにかく、深夜になれば、その少年に会えるわけだね」

「はい。深夜の二時か三時になると、家から出て、四軒のコンビニを巡って家に帰るという習慣がある模様です」

「ふーむ」とまた、社長は、何か思案を巡らせている様子だ。

 パソコンに向かうと、社長は何やら打ち込み始め、用紙にプリントアウトすると、書類一式と、二種類の名刺が出来上がった。

 名刺には、『国東芸能プロダクション 社長 国東一』『国東芸能プロダクション タレント部 部長 渡辺健三』だった。

 健三には、社長が何を考えているのか、見当もつかない。が、自分の名前の上に『部長』と書かれていることは、健三の自尊心をくすぐった。

「明日は、日曜日だね」と社長が言い、健三は、「はい」と答えた。

「着いてきたまえ」と社長に言われて、健三は着いて行った。社長は、守衛室に電話して、自分が出た後は、全部ロックするように、と命じていた。

 恐れ多くも、健三は、社長の運転する車の後部座席に座って、ひたすら恐縮していた。

 社長に連れられて、高級レストランに入り、社長が注文した料理を、ただただ恐縮しながら食べた。朝から何も食べていず、空腹のはずだったが、料理は喉元でつかえて、水で流し込まなければ、食道に入っていかなかった。

 健三は、また、社長の運転する車で、自分の家の近くに戻った。

「さ、その家まで案内してくれ」と社長が言った。

 で、健三は、車から降りて、先に立って、山浦聖の家まで、社長を案内した。

「車を停めてくるから、そこで待っているように」と社長は、車を駐車場に入れに行った。

 戻ってくると、「君は、名刺だけ出して、黙っていたまえ」と健三に言った。

「は」

 社長は、腕時計を見た。時刻は、午後三時過ぎ。

 ピンポーン

 社長は、山浦家のインタフォンを押した。

「はい」という可愛い声が、すぐに聞こえて来た。

「私は、国東と申しますが、山浦聖さんは、いらっしゃいますでしょうか」

「あ、少々お待ちください」

 その頃、山浦聖は、過酷な朝を補うかのように、夢の世界の住人になっていた。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と妹の真由は、必死で兄を起こしていた。

 寝ている兄も、金髪が顔の周りを覆って、とても美しかった。

 ピンポーン

 とまた、インタフォンが鳴った。

「すみません。寝ているので」と兄に対する全責任を負っている気分の真由は、気が気ではない。

 中学の時の女の人といい、今日は、不思議に兄の客が多い。

「お父様かお母様は、ご在宅でしょうか」

「はい」

「呼んでいただけますか?」

「はい」

 家の中で、「お父さん、お母さん」という可愛い声が響いていた。

 ついで、恐る恐るといった感じで、玄関のドアが開き、山浦聖の両親が、不審そうな顔をのぞかせていた。

 健三は、社長が、大きく微笑むのを見ていた。

「山浦聖君のご両親でいらっしゃいますね」

「は、はあ、そうですが、聖が何か?」と不安そうだった父親も、つられて微笑んでしまっていた。

「立ち話も何ですので、お差し支え無かったら、お邪魔させていただいても、よろしいでしょうか?」

 正に、百万ドルの微笑みだった。

「は、はあ。どうぞ。むさ苦しいところですが」と会社人間の父親は、すっかり気を飲まれてしまい、社長のペースにはまっている。

 健三は、ただただ、社長の後についていくだけだ。

 リビングというよりは、台所と言った方がいい部屋に通されて、母親がお茶を出し、両親と社長と健三は、向かい合う形になった。

「ご挨拶が遅れまして、申し訳ございません。私は、こういうものでして」と社長は、さっき作ったばかりの名刺を出し、健三も、慌てて、名刺を出した。

「これは、我が社で、スカウトを専門にしている渡辺です」

 健三は、何も言うなと言われていたので、両親が、二枚の名刺を手に取って、顔を見合わせるのを、上目遣いに眺めていた。

「不審に思われるのも無理はありません」と社長は、安心させるような笑みを浮かべている。

 不思議な話だが、健三自身が、社長の微笑みを見ていると、何もかも大丈夫だという安心感を抱いてしまう。

「我が社では、現在、ハンサムで長身という条件で、十六歳の男性を探しているのです。ところが、中々、イメージに合った人材が見つからない。困り果てていたところ、昨夜、この渡辺が、お宅のご子息を見つけて、是非、スカウトしようとしたものですが、何分、夜も遅いこともあって、ご子息に怪しまれてしまった。で、必死で後を追った渡辺が、お宅のインタフォンを鳴らしてしまったというわけなのです。これは、もう、非常識なことで、私から厳重に注意はいたしました。ご迷惑をおかけしまして、申し訳ございませんでした。で、今日は、昨日のお詫び方々、お願いに参った次第です」

「あー、あのインタフォンは、こちらの部長さんだったんですか」とようやく昨夜のインタフォン事件の謎が解けて、両親はホッとした表情を見せた。

 健三の頭の周りを、しばらく『こちらの部長さん』というフレーズが飛び回っていた。

 何て、耳に心地好い響きなんだろう。

「で、私は、まだ、ご子息のご尊顔を拝してはおりませんが、この道では、並ぶ者のいない、この渡辺の言うことですので、まずは、ご両親の了解を得ようとして、お伺いしたわけなのです」

「けど、うちの聖は……」と父親は、ガックリと肩を落とした。

 中学二年からの不登校、昼夜逆転生活、父親としても、どうしていいのかわからない息子。その将来のことを考えると、頭上に暗雲が垂れ込める。

「息子さんは、キヨシ君とおしゃるんですか」としばらく、社長は、この偶然の一致に、天の配材かという気持ちを抱いた。父の名前と読みが同じだ。

 が、社長は、そんな気配を見せることなく、明るい声で話していた。

「スクリーンテストを受けていただかないとなりませんが、もし、それに合格なされば、俳優や歌手やモデル、その他の訓練は、こちらでさせていただきますし、もし、ある一定のレベルに達し、実際に仕事がこなせるようになれば、学生アルバイトなんかの何十倍の収入を得ることもできるようになります」

「けど、うちの聖には、到底、そんな大役は勤まりません」と父親が言おうとした時、

「それは、本当ですか?」という声がした。

 妹の真由が必死で起こした甲斐があって、聖は身支度を整えて、途中から、社長の話を聞いていたのだ。

 聖の姿を初めて見た社長は、ハッと息を飲んだ。

 世間の風に当たっていないせいなのか、よくいるような手垢にまみれたようなハンサムではなく、突然、目の前に金色に輝く妖精が現れたような気がした。

「渡辺、本当に良くやった」と心の底から言った。

「はじめまして。山浦聖君ですね」と社長は、また、微笑んだ。

 そして、立ち上がって聖のそばまで行くと、大きな両手で包み込むように握手した。

「うちの部長には聞いていましたが、ここまで、イメージ通りだとは思いませんでした」

 聖の方は、夢の世界が現実になったように、ぼうっとしていた。

 夢でもいいから、覚めないで欲しい。

 自分にでもできる仕事があれば、やってみたい、と思ってはいたが、聖の想像の範囲にある仕事と言えば、憧れの職業であるコンビニの店員ぐらいだった。

 学校にも行っていないし、友達もいない。父のような会社員になるなんて、無謀な夢のような話だと思って、とっくの昔に諦めていた。

 それが、俳優や歌手やモデルの訓練をしてくれて、高い給料ももらえるかもしれない。

 それは、聖にとっては、夢以上の夢。想像もしなかった夢だった。

 聖の両親は、何やら、ヒソヒソと話し合っている。

「いや、ご両親のご心配は、もっともです」と社長は言った。

「ここは、一つ、ご子息を全寮制の高校にでも預けたとお考え下さい。高校卒業程度の資格は、身につけられるようになりますし、普通の高校とは違い、即、仕事に結びつきます。では、ここに入学願書のようなものがありますので、よくお読みになってから、署名捺印をお願いします。ほら、ここに書いてあります通り、これは、奨学金の申請用紙も兼ねておりますので、授業料は貸与という形になり、実際に仕事で収入が入るようになってから、聖君本人が、毎月返済する形になりますので、ご両親にとっての経済的なご負担は一切ありません」

 そばで聞いていた渡辺健三は、そんないい高校があるのなら、うちの娘も是非入れて欲しいと思ったが、さすがに口には出さなかった。

 まるで、催眠術にかかったように、聖の父親は、「母さん、ハンコ、ハンコ」と言って印鑑を持って来させると、内容も読まずに署名捺印した。

「では、聖君もここに」と言われ、聖も署名して、父親が印鑑を押した。

「ご両親が美男美女でいらっしゃるので、聖君の妹さんも、大変な美人だ。妹さんが高校生になられる頃には、また、お伺いするかもしれません」と社長は、聖の妹の真由をニコニコして見たので、真由は、ポーッとなってしまった。

 その瞬間まで、真由自身は、何か、この話はおかしい、このおじさん達は怪しいと思っていたものだが、そんな気持ちはどこかに消し飛んでしまった。

「では、ご子息をお預かりして参ります」

 そう言うと、社長は、山浦聖の肩を抱き、健三をうながして、外に出た。

 何という手際の良さだ、と健三が舌を巻いたのは、山浦家のすぐ横手の駐車場に、社長の車が置いてあったことだった。

 呆気に取られている家族を残して、車は、全速力で走り去って行った。

 再び、台所で腰を落ち着けた山浦一家の残り三人。

 何となく、一気に疲れがどっと出たような気がした。

「あれで、本当に良かったんでしょうかねえ」と母親が言った。

「考えてもごらん。聖は、今のままでは、学校にも行けない、仕事もできない、どうしようもない状態だったんじゃないか。私達の手では、どうしてやることも出来なかった」

「お兄ちゃん、もう帰って来ないの?」と真由。

 今までは、一家にとっての悩みの種であり、腫れ物の一種だった聖だったが、いなくなってみれば、家の中にガランとした空洞が開いたような感じだ。

 真由にしても、友達の誰にも兄がいるなんて言ったことが無かったが、あんなに美しいお兄ちゃんなら、もっといて欲しかったような気がした。

「これで、良かったんだよ」と父が言い、母は、夕食の支度にかかった。


9.プロダクション


 さて、社長の運転する車は、会社の方向に向かっていたが、途中から道を変え、山の上に向かって登って行った。

 着いた所は、山の中腹にある、大きな門構えの前だった。

 社長が車の中から、テレビのリモコンみたいな機械を門に向けると、鉄の門が一人でに開いた。

『自動ドアではなく、自動門か』と聖だけでなく、健三も驚いている。

 そしてまた、健三は、恐らく、ここが、会社の誰一人として、所在を知らない、社長の自宅ではないか、と思った。

『生きて、ここから出られるのだろうか』と目尻に涙が滲みそうにもなる。

 門から車でしばらく走っていると、大きな屋敷の前に出た。

 社長が車から降りたので、健三と聖も一緒に降りた。

 大柄な男が現れて、車を運転していった。

 玄関のドアが開いて、社長が中に入っていったので、残りの二人も、慌てて後を追った。

 自動ドアかと思ったら、車を運転して行ったのと同じぐらい大柄な男が、ドアを開けているのが見えた。

「心配しなくても、ここは、私の自宅ではないよ」と社長が言ったので、健三は、ドキッとした。社長は、人の考えていることが読めるのだろうか。

「ここが、名刺に住所が書いてあった『国東芸能プロダクション』だ。今日から、渡辺部長の本拠地になる。ま、君が、ここの事実上の社長だ。大平専務より、君の方が適任だろう。運転手つきの車を用意するから、月曜から、それで通いたまえ」

「は、はい」と言うしかない。

「聖君は、ここに寝泊まりすることになるが、家に帰りたい時は、いつでも、このおじさんの車に乗せてもらえばいい。毎晩、家に帰って、毎朝、車でここまで来てもいい。それは、君が決めたらいい」

「はい」と聖も、そう言うしかない。

 内心、もう家には帰れない、厳しいレッスンの日々が待っている、と覚悟していたので、意外な気がした。

「けれど、仕事が忙しくなったら、家には帰れなくなるけど、いいね」

「はい」やっぱりそうか。

「家から運びたいものがあれば、このおじさんに言って、取ってくればいい。ご両親には、ああ言ったが、もう君の仕事は始まっている。契約によって、今の君には、月に十万の収入がある。勤務時間は、午前十時から、午後五時。勤務時間は、徐々に増えていき、それにつれて、収入も上がっていく」

「けど、仕事といったって、オレは何の経験もないし」と聖は腰が引けた。

「だから、経験や練習をしていくのが、君の仕事だ。心配しなくても大丈夫」

 何か、この社長さんに「大丈夫」と言われると、本当に、大丈夫な気がするから不思議だ、と聖は思う。

 何とかしないと、と自分でも思ってはいたんだから、言われる通りにやってみよう。

「食事の用意ができている。一緒に食べよう」と社長に言われるて、後についていくと、家の中にレストランみたいな大きな食堂があった。

 どんな凄いご馳走がでるのかと、聖も健三も身構えたが、出てきたのは、カレーライスとサラダだった。

 聖は、炊きたての御飯に出来たてのカレーを食べるのなんかは、どれだけぶりか覚えてもいない。勧められるままに、三回もお代わりした。

 健三もつられて、もう一皿食べてしまった。

 食後のコーヒーを飲んでくつろいでから、社長は、健三に言った。

「こんな難しい仕事を一人でこなしてくれて、本当に感謝している」

「いえ、そんな、とんでもない」と健三は、恐縮した。

「若い頃の営業の時も、大した男だと思っていたけれど」と言われて、健三の目には、涙が滲んだ。自分は、あの唯一の社長表彰を心の奥底で誇りとして、噛み締めているだけだったが、まさか、表彰した当の社長が覚えてくれているなんて、感激を通り越して、感無量だ。

「勿体ないことです」と思わず言った。

「今日は、車で送らせる。明日は、ゆっくり休んでくれたまえ。明後日は、九時に車が迎えに行く。この一ヵ月間、本当にご苦労さま」

 社長は、聖の方を見て、「聖君はどうする? 一緒に帰るか?」と尋ねた。

「はい」と聖は言った。

 帰っていいのなら、最後のコンビニ巡りを心行くまでしたい。

「そうか。では、明後日の九時に、このおじさんと一緒に来るといい」

「はい」

「起きられるかな?」

「はい。起きます」

 今まで、昼夜逆転生活をしていたのは、朝起きても仕方がないからだった。

 することがあり、しかも、仕事だ。絶対に起きてみせる。

 社長は、車まで二人を見送ってくれた。

「では、また、明後日」

 車は、まず聖の家の前で止まり、聖を降ろすと、健三の家に向かった。

 健三の家でも、聖の家でも、家族は驚いて、あれこれ尋ねたが、二人とも、どっと疲れが出たせいか、何も言わずに、寝てしまった。

 聖の方は、寝る前に、最後のコンビニ巡りのため、午前三時に目覚ましをセットするのを忘れなかった。


10. 最後の一日


 午前三時。目覚ましが鳴る直前に、聖は目を覚まし、ベルをオフにした。

 まず、カレーパン君に行き、この間、邪魔された漫画の続きを読んだが、思っていたほど面白くは無かった。カレーパンも手に取ったが、カレーを三杯も食べた後なので買わずに店を出て、ベジ君に向かう。

 店内を見回ったが、いつものようなワクワク感は無かった。しかし、野菜ジュースは買た。ポテチ君でポテトチップスを買い、コーラ君でコーラを買った。

 さよなら、コンビニ君達。

 オレは、君達を卒業する。

 部屋に帰って、音楽をかけて、ポテトチップスをつまんで、コーラを飲んだ。

 自分でも、よく三年半もの間、こういう生活を続けて来られたもんだ、と思う。

 大きなカバンを出してきて、気にいった服とか下着類、CDやMD類、ウオークマンを詰めた。エッチビデオやエロ本類は、思案した末に、差し当たっては、いつでも帰れるみたいだから、置いていくことにした。

 台所からゴミ袋を持ってきて、ゴミとか二度と着そうもない服といったいらないものは捨てることにした。気がついたら、朝になっていた。

 どうも、ここ二日間で、夜起きて、夜中に活動して、朝昼眠るといった、今までの規則正しい生活が、スッカリ崩れている。しかも、かなりの睡眠不足だ。

 少し寝ようと思って、服のままベッドに入ったとたん、ドアがノックされ、「お兄ちゃん、ごはんよ」と言いながら、妹が顔を出した。

 そんな何年も無かったことをしないでくれよ、と思いながらも、仕方無く起きる。

「聖、おはよう」と父。

「聖、おめでとう」と母。

 三年半ぶりに家族の食卓につくと、何とお赤飯が出て来た。

 お赤飯にシチュウに酢豚という、とんでもない取り合わせだ。

「お兄ちゃん、明日から行ってしまうの?」と妹。

「うん」と言うしかない。昨日帰ってきただけで、家中大騒ぎで理由を尋ねるんだから、何となく、二度と帰ってきてはいけなかったような気がしたものだ。

「どこに寮があるんだ」と父。

「どんなところなの?」と母。

「車で行ったから、よくわからないけど、大きな家だった」と聖。

「身体に気をつけてね」

「一生懸命に勉強するんだぞ」

「いるものがあったら、送るからね」

「お兄ちゃん、また帰って来れる?」と妹。

 何となく、雰囲気的に、いつでも帰って来られるなんて言えなくなってしまった聖だった。

 また、今まで、家族と話す習慣が無かったものだから、後は、全員が、ひたすら食べるという、かなり話題に詰まった気づまりな食事になった。

「ご馳走さま」と言うと、自分の部屋に戻った。両親が、ホッと息をついたのがわかる。

 当分戻れそうにもないので、カバンに、思案していたビデオと本も詰めることにした。

 はー。疲れた。

 また、横になろうとすると。

 ピンポーン

「お兄ちゃん、同級生の女の人」と妹が部屋に入って来た。

 何なんだ、一体、と思って、ドアを開けると、渡辺美穂が立っていた。

「お父さんから、山浦君が帰って来たと聞いたものだから」

「散歩でもしようか」と自分から言った。

 今日は、とことん疲れてから、夜寝れば、明日の朝起きられる、という計算だ。

 それに、変な話だが、中二以来初めて出来た女の知り合いでもある。

 昨日は、泣いたり笑ったり、と騒がしい女だと思っていたが、今日は、気づまりなほど、無口だった。

「オレん家、今日は、赤飯とシチュウと酢豚だった」と仕方無く言った。

「うちも、お赤飯とおでんとカレーの残り」と美穂も言った。

 この日は、公園のベンチも通り越して、二人でひたすら、歩いていた。

「うちね、今度、引っ越すことになったの」と美穂が言った。

「ふーん」と言ってから、それでは余りにも無愛想だと思って、「えー、どこに?」と聖は聞いた。

「ついさっき、会社からお父さんに電話があって、毎日通うのも大変だから、家族と一緒に、会社のそばに引っ越してはどうか、と言われたらしいの。お母さんは、もうパニックよ。家のローンとか、私の学校のこととか、自分の習い事とか、実家のこととか、友達関係とか。朝は、お父さんが出世したっていうんで、お祝いムードだったのに」

「そーか」と言いながら、聖も考えた。

 あのおじさんの勤務先の会社と言えば、自分が住むことになる、昨日行った大きな家だ。

 そーか、あの近くに引っ越してくることになるのか。

 すると、毎日顔を合わせることにも、なるかもしれない。

 嬉しいような、嬉しくないような複雑な気分だ。

「折角、ご近所だったのに、山浦君ともお別れね」

「うーん」とどう答えたらいいのかわからない。

「でも、何か、お父さんの態度にしろ、昨日、うちに来た会社の人にしろ、変なのよね。何か、私が、ハンサムで背が高くて……というのに、山浦君のことを言ったせいかもしれない。引っ越しも、もしかしたら、そのせいかもしれない。山浦君は大丈夫?」

「うん……大丈夫」と言うしかない。

 気がついてみれば、駅を越え、商店街を越え、橋まで越えてしまっていた。

「こんなところまで来てしまった。帰ろうか」と聖が言った。

「あ、ほんと。全然気がつかなかった」と美穂。

 二人が突然元来た道に戻り始めて、慌てたのが、前日同様、二人の後をつけていた、聖の妹の真由だった。

 突然のことで、隠れようと思っても隠れるところがない。

「あら、妹さんよ」と兄の元同級生に見つかってしまった。

「お前、どうしたんだ」

 絶体絶命。後をつけていましたなんて、言えません。

 あら偶然なんてことも、不自然。

 一瞬泣いて誤魔化そうかとも思ったが、涙は急には出てこない。

「山浦君のことが心配だったのよ」と美穂が、クスクス笑った。

 クスクス笑われたことにはムカッとしたが、大正解なので、仕方がない。

「私だって、山浦君の妹だったら、同じことするって。だって、心配だもん」

「何が?」と聖には、訳がわからない。

「ねえ?」と言って、美穂は、妹の真由の肩を抱いて、顔を見た。

 真由の心は複雑だ。

 助かった、と思うのと、ええい、この女なれなれしくするな、という気持ちと。

 という訳で、帰り道は、三人が無言で歩くことになった。


 翌朝、学校に行く前に、妹の真由が、聖の部屋をノックして、「お兄ちゃん、また帰っ

て来てね」と鼻声で言った。

「うん。また帰ってくるよ」と聖は答えた。

 昨日一昨日の強行軍のお蔭で、朝早くから目が覚めて、準備万端整い過ぎていた。

 会社に行く前に、父が来て、「気をつけて行けよ」と言った。

「はい」

 母は、なぜか、朝食ではなく、弁当を作ってくれていた。

「これ、食べてね」

「はい」

 ピンポーン

 九時過ぎにインタフォンが鳴り、既に、渡辺健三を後部座席に乗せた車の運転手が、聖を迎えに来た。

「よろしくお願いします」と母が頭を下げていた。

 荷物は、トランクに積み込まれ、母に何か言った方がいいな、と思いながら、そのまま車に乗り込んだ。

 渡辺健三が車を降りて、母に挨拶をしていた。

 そして、車は、新しい生活に向かって、発進した。


11.新生活


 自動門から中に入ると、家の前で、社長が待っていた。

 車が止まると同時に、渡辺健三は、転がるように車の外に出た。

 山浦聖も、後を追って出た。

「おはようございます」と健三は、社長に九十度の角度でお辞儀をしている。

「おはようございます」と聖は、さすがに四十五度ぐらいで、挨拶した。

「おはよう」と社長。

「引っ越しの件は、そんなに深刻に考えなくてもいいよ」と社長が健三に言っている。

 聖も、ああ、昨日、渡辺美穂の言っていたことか、と思った。

「この近所の家を社宅にしてもいいかな、と思っただけだから。奥さんや娘さんの都合もあるだろうし」

「いえ。妻子も賛成してくれましたし、社長の言われる時期に引っ越すことにいたします」

と健三は、あくまでも、社長の言いなりだ。

 妻子も賛成したというのは、本当だった。

 妻子の余りの反対に、「わかった。じゃあ、会社を辞めることになるけど、それでもいいな」と健三が言ったのだ。

「何としても、仕事は見つけるが、この年での再就職となると、収入は、今までの半分以下になる。下手をすれば、三分の一以下になるかもしれない。リストラされた知り合いは、何とかスーパーに就職できたが、収入は四分の一になった。他の知り合いは、宅配便の会社に就職して、これは、それまでの収入の半分は確保できているらしい。が、身体のあちこちにガタがきて、そう長くは続けられないと言っている。もう一人は……」と言ったところで、細君は泣き出し、「あなた、社長さんの言われる通りに、引っ越ししましょう」と言って、一件落着となったのだった。

「聖君も、昨日は、よく寝られたかな?」と社長の声も顔も優しい。

「はい」と聖は答えた。

「今朝も、よく起きられたね」

「はい」

「じゃあ、二人に、中を案内しよう」と社長は、先に立って、家の中に入ろうとした。

「ああ、その前に、運転手の中西君を紹介しよう」と言って、二人を乗せてきた運転手を紹介した。

「父親の代から長年、私の運転手をしてくれた、信頼できる人物だ。今日からは、君達のために、車を運転してくれる中西剛君」

「よろしくお願いします」とお互いに、挨拶した。

 ごつい身体といかつい顔をしているけれど、笑うと可愛い顔になった。

 家の中に入って、「こちらは、中西君のお兄さんの太君」とドアのところにいる人を紹介した。似たような体型だと思っていたが、実際に兄弟だった。

 それから、体育館のような所に入って行って、「こちらは、聖君のインストラクターになる高橋直人君」と紹介した。

「高橋君は、多芸な人で、歌、踊り、楽器と何でもこなせる。難点は、何でも出来過ぎるというところだ。何でも教えてもらうといいよ」

 聖が、こういう風になりたいと思うような、背の高いカッコイイお兄さんだった。

 次に、部屋は広いけれど、大きな机と椅子があるだけの場所に入って行った。

「こちらは、聖君の勉強面の先生になる、高橋美代子さん」

 大輪の花が咲いたかのような、華やかで美しい女性が微笑んでいた。

「直人君のお姉さんにあたる。高橋家というのは、元々は……」という社長の説明は耳に入らず、聖だけでなく、健三まで、ぼうっとなってしまっていた。

「この人も多才な人で、専門は、幼児教育だが、その枠に収まり切れず、色々な分野に触手を延ばしている。何でも教えてもらうといい」

 その他、料理を受け持っているシェフや、この近隣にコンビニエンス・ストアを開く予定の男性、掃除を担当している女の人に紹介された。

「改めて紹介するまでもないが」と社長は、大きく微笑みながら言った。

「全員に紹介しておこう」

「山浦聖君は、我等の希望の星。皆で守り育てていく人物だ。そして、もう一人、この全体を指揮し統括していく人物。今回の一番の立役者でもあり、全員の上司となる人物だ。紹介しよう。渡辺健三君」

 わあという歓声と、大きな拍手が起こったが、当の渡辺健三は、他の誰よりも小さくなって、恐縮しきっていた。

 身長かさあげした靴を履いて百六十センチ、体重八十キロ、頭髪にはほとんど毛の面影も無く、限り無く腰の低い目立たない、家族だけでなく誰の印象にも、『チビ、デブ、ハゲ』としか写らない人物。

「渡辺君、これから、ここのことは、全部、おまかせするから、よろしく頼むよ」という社長の言葉にも、恐縮するだけで、何も答えられない。

 額の上の毛の無い部分から、滝のような汗をかいている。

「以後、私と渡辺君は、密な連携を取っていくので、これからは、渡辺君の言うことは、私の言葉だと思って欲しい」

 渡辺健三、五十三才、本来なら、非常に名誉、非常に光栄と思う場面ではあったが、この訳のわからない肩の荷の重さを思えば、家族の反対で、退社した方が、遙かに幸せであったかもしれない、と目の端に浮かびかける涙を、必死で押し止めていた。

 聖は、その後、社長自ら、自分の部屋に案内してもらった。

「気にいってもらえればいいんだが」と社長が案内したのは、三階にある部屋だった。

 他にも、同じようなドアが並んでいたが、『KIYOSHI YAMAURA』という表札がかかっている部屋。

 ドアを開けると、クリーム色の壁が目に入った。

 奥にベッドがあり、入口付近には、クロゼットと勉強机があった。

「気にいらないところは、いくらでも直せるので、私にでも、渡辺にでも言ってくれたらいいよ」

 聖は、素早く、部屋の中を見回していた。

 部屋の四隅にスピーカーがある。信じられない。

 今まで使ったことは無いけれど、大きな勉強机の端にあるのは、多分、パソコンだろう。

 壁にあるのは大型テレビ、ビデオとDVDプレーヤーらしきもの。MDCDラジカセみたいなもの。

 あんまり驚いてしまって、声も出ない。

 けど、こんなもの、家族の寝静まった後の新聞チラシや、テレビのCMで知ってはいても、どうやっていいのかわからない。

 元自分の部屋を思い出そうとした。

 まず、中二で引っ越したまま。

 というと、中一のまま。

 写りの悪いテレビと接触の悪いビデオ。

 CD部分が壊れたCDダブルラジカセ。

 ウオークマンで何とかCDは聞けた。

 どこかに引っ掛かると、ビリビリと破れる夏物のパジャマも大事に着た。

 ゴムの延び切った冬物のパジャマも。

 穴の開いた靴下は、靴を履くと誤魔化せた。

 首の延びたTシャツは、大判のハンカチを巻いて、隠した。

 ゴムの伸び切った変色したブリーフ。これは、表からは見えない。

 家族との会話は、ほとんど無かった。時々、母親に小遣いをもらうだけ。

 あー、もう、今となっては、思い出したくない。

 それは、今の聖にとっては、過去の恥部ですらあった。


 毎日、朝の十時から十二時半までは、勉強の時間だった。

 優しい美人の女の先生なので、聖は、勉強の時間が楽しみになった。国語とか数学とか英語といった科目というのは無いようで、今日は何を勉強するんだろう、と不安半分、期待半分で授業が始まる。

「こんなことを知らないの?」とか、「こんな簡単な問題がわからないの?」というような学校の先生の言うようなことは一切言わず、「よくわかったわね、凄い!」とか、「こんな難しいことを、よく知ってるのね」と感心してもらえるので、「明日までに、これを読んでおいてね」とか、「ここまでやっておいてね」と言われたことは、一生懸命にやった。

「忙しいのに、よくできたわね」と感心されるのが嬉しかった。

 時々、テストもあったが、大抵満点で、「また、百点ね、凄いわ」と褒められるので、自分の頭が凄く良くなった気がした。

 実際には、小学校低学年レベルからの勉強だったので、満点を取れるのも当然だったが、つまづくことなく進んでいくので、知らない間に高度なレベルに進んでいることに、聖自身は気がついていなかった。

 一時半まで食事休憩。

 一時半からが、聖にとっては、本番みたいな気がした。

 最初は、身体を鍛える。

 これも、若くてカッコイイお兄さんのインストラクターがつきっきりで、ストレッチから始めて、筋力トレーニング、ランニング、水泳と練習するというよりは、一緒に遊んでいると言った方が良かった。

 けれど、お兄さんみたいにカッコよくやりたい、という気持ちが強いので、どこか遊んでいるとは言っても、真剣だった。

 聖は気がついていなかったが、いつの間にか、BGMに乗って、リズム感も身についていった。

 また、今まで使っていなかった筋肉を鍛えていると、脳内に麻薬物質ができるのか、凄く気持ちが良かった。

 興が乗ってくると、お兄さんは、「ワー」とか「アー」とかいう大きな声を出した。

 最初は恥ずかしい気がしたが、知らないうちに、聖も同じように、声を出すようになった。

 それから、一緒に、大きな声で歌うようになった。

 時には、色々な楽器を出してきて、好きなように叩いたり、弾いたりした。

 お兄さんは、大きな声で楽しそうに笑い、聖も一緒になって笑った。

 五時になって、全部が終わってしまうと、聖は、たまらなく淋しくなった。

 一緒にシャワーを浴びると、「じゃ、また、明日」と言って、お兄さんは、帰って行ってしまう。

 これは、朝の女の先生もそうだった。

「また、明日ね」と言って、時間がくれば帰ってしまった。

 夕食の七時までは、自由時間だ。

 聖は、大抵、お兄さんにできて自分にできなかったことを練習して過ごした。

 一緒にやっている時は、楽しくて無我夢中だが、終わってみると、ビデオを巻き戻して見ているように、自分とお兄さんの違いがわかる。

 歩き方、走り方、声の出し方、歌い方、それどころか、呼吸の仕方まで違うのがわかる。

 お兄さんは痩せているが、全身が筋肉でできているのがわかる。

 お兄さんにあって、自分には無い筋肉をつけていく。

 お兄さんにできて、自分にはできないことを練習していく。

 と言うわけで、夕食の時には、かなりグッタリと疲れている。

 でも、おなかはすいているので、よく食べた。

 部屋に帰ると、居眠りが出そうになるが、女の先生に言われたことをする。

 先生にガッカリして欲しく無かった。

 

12.秘密


「最初は、小学校低学年レベルの学力も無かったので、どうしようかとも思いましたが、幼児教育の要領で、得意な所だけを褒めていくと、驚くほど伸びてきました。今時の高校生にしては珍しく、幼児並の素直さと吸収力があります」

「それは、僕も、同じことを感じました。最初は、筋力も全然無いし、運動能力も、幼稚園児並で、どうなることかと思ったんですが、そのうち、一緒に運動するのが、自分の方が楽しいことに気がつきました。幼児並の模倣能力と、向上心があります。今日出来なかったことも、数日後には出来るようになっている。末恐ろしい気と、こんな子が、今の学校教育では、何も与えられなかったことに、教育全般への深い危惧の念を感じます。ま、姉にしろ、僕にしろ、実際の教育現場で、挫折と絶望を味わった人間ですから、どこかで、深い共感を覚えてしまいます」

「けれど、あの子を、何十人もいる学級で教えるのは、私でも無理ですね」と姉の高橋美代子の方が、クスクスと笑った。

「一斉授業には、決して馴染まないタイプです。自分の興味のあることは、何時間でもやるけれど、興味が無ければ、一分も続かない」

「僕の方でも、同じことが言えます」と弟の高橋直人が言った。

「団体競技なんかには、絶対に向かないタイプです。今は、新しい経験で、無我夢中で取り組んでいますが、いずれ、興味の範囲が固まってくるように感じます。声が、非常に、よく通ります。僕は器用な人間で、よく通る声は出せますが、彼のように、自分の全存在をかけたような声は出せない。本人は、気がついていませんが、自分にとって、意味があることにしか、興味の持てない人間です。僕の対局にいる人間で、だから、自分でも、熱が入るのかもしれません。僕は、意味無く、大抵のことは何でもできる人間でした。だから、こんな大金を払ってもらう仕事をしなくても、どこででもお金は稼げる。僕は、器用ですが、彼は、非常に不器用で、自分のしたいことしか出来ない。彼に出会う前まで、僕は、自分の器用さを、どこかで誇っていました。お金に釣られて始めた仕事でしたが、今

は、そうではない。自分のしたいことしか出来ない不器用な人間が、どうなるかに、不思議な程の興味を感じています」

「私も、実は、弟と同じで、金銭的な面も確かにありましたが、自分と同じように器用な金持ちの師弟を教える仕事に、どこか疑問を感じてもいました。世間的に見て優秀なその子達は、右向けと言うと右を向き、これをしろと言うと、その通りにする。でも、ただ、それだけで、それ以上でも、それ以下でもない。彼らは、多分、国の中枢を動かす優秀な人材に自動的に育っていきます。ふと、自分がしていることは、外食産業で、全国どころか、諸外国一律のハンバーガーやフライドチキンを作っているのと同じことではないか、と密かに考えたこともありました。だから、『将来性の全く無い子の教育』という、社長の言葉にひかれてしまったのかもしれません。お蔭で、仕事をして初めて、生身の人間に関わっているという、実感を持つことができました。実は、教育なんていう、こんな詰ま

らない仕事、辞めてしまおうと思っていたところだったので、教育の可能性ということに、改めて、目を開かせてもらった気がします」

 社長は、毎度、「そうか。それは、良かった。その調子で続けてもらえると、本当にあり難い。私自身、そういうハンバーガーの一個だと思うので、本当に、自分の勉強になる。あり難いことだ」と、ミーティングの時に言い、山浦聖の直接のインストラクター二人は、その都度、自分の感動を新たにするらしい。

 が、一応、社長から、このプロジェクト全体の統括者と言われている自分、渡辺健三は、常に、話の部外者だった。

 黙って、ウンウンと頷いてはいるが、話の内容は、ほとんど理解できない。

 唯一理解できるのは、自分が見つけてきた『将来性の全く無い』少年が、いい先生方に恵まれて、どういう方面に向かっているのかわからないが、何とか成長しているということで、それは、本当に、おめでたいことだ。

 学校にも行っていなかった少年が、何とか立ち直っていくというのは、多分だが、凄く素晴らしいことなんだろう。

 だが、しかし、この会社の近くまで、家族と一緒に引っ越してきた自分には、何もかも謎ばかりで、何の納得もできていない。

「この近所には、コンビニしか無いんですよ! インスタントラーメンの特価も無いし、いくら、社長さんが、好きに使ってもいいと仰っても、運転手つきの車で、安売りスーパーに行けるわけないじゃないですか!」と妻は、毎夜憤る。

 とは言いながら、友達に会いに行く時なんかには、しっかりと運転手付の車で出掛けるようだが。

「元の学校に車で通うなんて、友達に羨ましがられてるわよ、お父さん」と娘の方は、思ったほど文句を言わないが、「山浦君は、どうしているの?」と会社の機密に触れる質問をされるのが、健三にとっては拷問だ。

 自分は、社長の秘密を知り過ぎたに違いない、と健三は思っている。

 その証拠に、相談したいことがあった時、部長に電話すると、携帯には繋がらず、自宅にかけたら、『その電話番号は、現在使われておりません』というアナウンスが流れた。

 手紙も出したが、返事は無かった。

「さあ、お父さんは、知らないなあ」と娘には、答えるしか無かった。

 家族に対しても、自分の今の立場にしても、針のむしろ状態。

 しかし、何度考えても、今の立場を取るしか無かったという答えが返って来る。

 リストラ寸前だった自分に巡ってきた極秘指令。

 それは、言われるままに、全力を尽くしてやるしかないだろう。

 何とか、その極秘指令を全うした自分。

 まあ、自分で自分を褒めてやってもいいだろう。

 問題は、その後だ。

 家族まで、もしかすると、大変なことに巻き込んでしまったのかもしれない。

 しかし、家族が反対してくれたら断ろうと思っていた引っ越しもしてしまった。

 最終的に、家族が賛成してしまったからだ。

 こんな訳のわからない中途半端な状態で、一体いつまで、自分の神経が持つだろうか、と思っていた、ある日。

「渡辺君」と社長が呼んだ。

「話がある」

 いつか、こんな日が来るような気はしていた。

 早く来て欲しいと思うのと同じぐらい、永遠に来ないで欲しいとも思っていた。

 想像していた話の内容は、三通りだ。

1・『君は、もう、この計画から手を引いてくれたまえ』

 これが、一番望んでいる結末だ。

 一番平和でもある。

『君は、この企画には、相応しくない』

 はい、かしこまりました。私自身、そうではないか、と思っていました。

 家族共々、元の場所に戻り、新しく仕事を探します。

 失業者にはなるが、家族共々、一番幸せな道だ。

2・『君には、次の極秘指令がある』

 この社長に仕えている限り、こういうことは、常にあるだろう。

 1の場合と違い、この会社での地位は安泰だろうが、寿命が縮むことは確実だ。

 妻子は、喜ぶだろうが、私は、早死にする。

3・『君は知り過ぎた』

『君は、知り過ぎた』

 一番恐ろしいことばだ。

 社長の計画は、何も知らないし、やっていることも理解できないけれど、確かに、自分は、知り過ぎているかもしれない。

 渡辺健三、五十三才。短いけれど、諦めていた部長にまで出世した幸せな人生だった。

 その場合には、妻子のことだけは、見逃してもらえるように、社長に頼み込むつもりだ。

 妻子には、仕事のことは何も話していない。

 娘が、山浦聖のことを知っているのが、唯一の気がかりだが、それも何とか頼み込んでみよう。

 渡辺健三は、自分なりに覚悟を決めた。

「渡辺君、話がある」と社長に言われ、「ははっ」と頭を低くした。

 社長に導かれるままに、自分の部屋に入った。

 ドアには、『KENZO WATANABE』と書かれている。

 本社の社長の部屋のような作りになっていて、社長の部屋と同じような立派な机と椅子があるが、まだ、椅子には、腰掛けたことがない。

 恐れ多すぎる。

 腰掛けたとたん、電気が流れる仕組みになっているような気さえする。

 自分には勿体ない、と健三は思っている。

 大抵、腰掛けるのは、来客用のソファだ。

 自分が来客だと思っていた方が、気は、遙かに楽だ。

「この部屋は、気にいらないか」と社長に図星をつかれ、健三は、とっさに、「余りにも勿体なくて」と正直に答えてしまった。

 覚悟を決めてしまったので、最早、無の境地に近い。

 しかし、まだ生きている生身の人間なので、顔色が青ざめることまでは止められない。

「君にだけは、全体の計画を打ち明けよう」と社長が言った。

「君は、死刑だ」と言われたような気がした。が、覚悟していたことだ。

 すると、突然、社長が、腹を抱えて、笑い出した。

 青白かった健三の顔は、印刷前の紙のように真っ白になった。

「色々と噂があるようだが」と社長は、まだ笑いながら言った。

「今度、私の家にも来てくれたまえ」

 そこが、墓場か、と健三は思った。

 それこそ、秘密の中の秘密を見ることになるんだから。

「どういう想像をしているのか知らないが、ただのマンションだよ。地下にハーレムなんか作れない構造になっている。ただ、自分の家に仕事を持ち込みたくないだけだ」

 いや、そんなはずはない、と健三は考えている。

 そこは、ただの隠れ蓑。本宅は、地下があって、ハーレムは無いかもしれないが、知り過ぎた人間の墓場になっているはずだ。

「君は、確か、僕と同じ歳だったね」と社長に言われ、社長の年齢を知らなかった自分の落ち度を咎められた気がした。

「はっ」と言いながら、内心、『嘘ー!』と思った。

 社長の見た目は、髪の毛が多いせいもあるかもしれないが、自分より遙かに若い。社長表彰を受けた時も、あんまり若いので驚いた覚えがある。

 間近に接するようになっても、せいぜい四十代かと思っていた。

 確か、先代の社長の後を継いで、社長になったと聞いていた。

 いつだったか、親が社長だったら、苦労しなくても社長になれるんだな、とこの世の運不運は、生まれによって決まるのか、と苦々しく思ったこともあった。

「今回の計画の全貌は、君になら話してもいいような気がした」と社長が言った。

 渡辺健三、五十三才。

「光栄でございます」と答えた。

 最早、死んだも同然のこの健三、これ以上、もう何を知っても同じこと。

「聞いてくれるか」と社長。

「聞かせていただきます」と健三。

「私の父は、作家だった」と健三にとっては、考えてもみなかった話が始まってしまった。

しかし、『聞く』と答えた以上は、聞くしかない。

「私は、父が死ぬまで、父を馬鹿にしていた」

 社長は、虚空を眺め、その目から一筋の涙が流れてきた。

「私は、父を寄生虫のように思って、本当に、心の底から馬鹿にしていたのだ」

 社長の目からは、信じられないほどの涙が流れていた。

 健三は、パニックに陥った。

 社長のことを、ずっと、人間だとは思っていなかったことを、深く反省した。

 健三は、内心、物凄く困った。どうしたらいいのか、全くわからない。

 自分の父親のことを考えてみたが、ずっとごく普通のサラリーマンで、健三も同じように、今までは、ごく普通のサラリーマンだったので、お互いに、必要以上の葛藤は無かった。

「わしは、部長までいったが、お前は、まだ課長か」などという所で、少しムカッときたりするぐらいだ。

 健三は、あんまり困ったので、つい、「それはいけません」と言った。

「本当に、そうだな」と社長が言ったので、少しホッとした。

 社長というのは、雲の上の存在だと思ってきたので、こういう展開は意外でもあり、困惑でもある。

「父が死んで初めて、私は、本当は、父を尊敬し、愛していたことに、初めて、気がついてしまった。何で、父が生きているうちに、気がつかなかったんだ、と自分を責めた」

 健三は、部屋の中をウロウロと歩き回った末に、社長の足下に座った。

 違う覚悟が健三にできた。

「私は、どこまでも、社長のお供をします」と健三は言った。

「実は、私は、社長の秘密を知ったらと、死ぬ覚悟を決めていました。家族だけは、助けてくれ、と社長に懇願する気でした」

「それは、薄々と知っていた」

「社長のお話を聞いて、今、全ての謎が解けた気がしました。今回の計画は、社長が、亡くなったお父様のためにされることだということが、なぜかわかりました。私ごとき者が、そのために、どんなことができるのかは、全くもってわかりませんが、ついさっき知ったばかりの同級生のよしみ。何でもやらせていただきます」

「そういう人間だというのは、よく知ってはいたんだが」とまたも社長が泣くのを、両腕で、ガッシと受け止めた健三だった。

「すべて、この渡辺健三に、おまかせください」

 どういう鬼神が言わせたものか、社長を両腕で抱えながら、渡辺健三は、天に向かい、地に向かい、ワオオオ! と吠えたような気分になった。

 それは、家族に疎まれ、会社でも持て余され、今までに一度として、自分に自信を持ったことのなかった渡辺健三が、ニュー健三に生まれ変わった瞬間でもあった。

 健三は、社長の語る計画を、今までのように、受け身で聞くのではなく、その計画の中で、自分は、どういう役回りをすべきかという観点から、うんうんと聞いた。

 そして、どこかで、社長は自分に、考えてみれば、同じ歳の自分に、『父』を求めているということも、悟った。

 一度は、死んだはずのこの身、この計画に全て捧げようと思った。


13.成長


 さて、問題の山浦聖である。

 今までは、深夜のコンビニ巡り以外、何事にも興味を持った試しの無かった十六才の少年。

 それが、よき教師に恵まれ、勉強したり、運動したりしているうちに、自分でも、興味があること、無いことを選別するようになった。選別するといっても、仕事と思ってこなしているので、まだ、好き嫌いの段階で、自己主張をするまでには至っていない。

 音楽は、元々好きである。ただし、聞くだけだが。

 三年半の間、声を出すということを全くしていなかったので、直人お兄さんと一緒に、走り回りながら、大声を出すというのは、脳細胞がワラワラと笑うような快感だった。

 しかも、リズムに乗って大声を出す、歌っているように大声を出すのが好きだった。

 それから、聖は、漫画大好き少年であった。

『本』と言えば漫画のことであり、字ばかりの本は見る気もしなかった。

 普通の人が『本』と呼ぶものは、自分にとって関係の無いもので、聖は『字の本』と呼んでいた。

 美代子先生が少しずつ、『字の本』を読む宿題を出すので、気にいった内容の場合は、宿題の部分を終わっても、まだ読んでしまったりした。

 学校の教科書みたいな小さな字の本ではなく、大きな字の本だったのも、気にいった。

 少しずつ小さな字の本になっていっていたが、聖は気がついていなかった。

 宇宙や天体にも興味を抱いた。

 人類の進化にも関心があった。

 習っていて、一番面白かったのが、宇宙や地球は、人類が生まれるずっと前から存在していて、宇宙の歴史に比べたら、人類の歴史など、瞬きする間の出来事だということだった。

 それまで、聖は、深く考えることもなく、最初の最初から、ずっと人間というものがいて、これからも、ずっといるもんだと思っていたのだった。

 他の国のことなんかも考えたことが無かった。

 もし他の国があったとしても、自分が住んでいる所と同じような気がしていた。

 コンビニ少年から、この生活に変わっただけで、自分の世界が根底から変化してしまった訳だったが、それでも、まだ日本だけのことだ。

 日本は、どれだけ広いんだろう。

 世界は、どれだけ広いんだろう。

 そして、宇宙は、どこまであるんだろう。

 聖は、生まれて初めて、知というものに触れたのだった。


 二つの企画が、同時進行していた。

 そのどの企画にも、社長と一緒に、スキンヘッドになった渡辺健三が同席していた。

 残っている、ほんのわずかの毛を後生大事に守ってきた健三だったが、それをスパッと剃ってしまったのだ。

 一つは、歌手『KIYOSHI』売り出し大作戦。公募した作詩や作曲を選別していく作業だ。

 もう一つは、少年作家『KIYOSHI』売り出し大作戦。

 これは、社長の父親の手書き原稿をパソコンに入力していく作業だ。

 どちらのプロジェクトに関わっている人間も、経緯や全体像を知らない。

 全貌を知っているのは、社長と渡辺健三だけだった。

「うまくいくかな」と健三には、弱気の部分も見せるようになった社長だ。

「何をおっしゃいます。そのために、プロダクションを作り、出版社を買い取ったんじゃありませんか」といつの間にか、健三が社長を守り立てる立場になっている。

 本社の方の全貌は、資料室で資料を整理していた健三にもわからないが、自分が関わっている企画は、全部わかっているつもりだ。

 社長が炯眼だと思ったのは、『あなたの作品を本にします』という出版界全体から見たら、四流の出版社を買い取ったところだ。

 さらに炯眼だと思ったのは、漫画にも手を広げて、同じような賞を設けてしまったところだ。

 また、会費性の読者参加型の雑誌を発行し、元手いらずで雑誌を発行して、参加者や知り合いに買ってもらうという形で、ラジオやテレビでもスポットCMを流し、これが、かなりヒットしていた。

 プロダクションの方でも、『あなたの歌(曲)をCDにします』という部門や賞を設け、

『テレビやラジオでのスポットCMつき』というオプションもつけた。

 これも、存外な収益をプロダクションにもたらした。それだけでなく、世に埋もれていた人材を発掘していくというスリリングな展開になってきていた。

 また、死ぬ前に、自分の歌をレコードにしたい、自分の人生を一冊の本にしたい、というシルバー層に生き甲斐も与えることにもなった。

 今では、二世社長ではなく、高校時代のアルバイトから身を起こして、社長になったということを知っていた健三だったが、父親の作品を出版するという、主目的以外で、どんどん儲けを生み出していく社長の才覚には、舌を巻いた。

 健三自身だったら、出版社を買い取って、作品を出版して、とお金を注ぎ込むばかりの展開になっただろう。


14.KIYOSHI 十七歳


 山浦聖の十七才の誕生日の日、朝から、機材が入って、写真撮影が行われた。

 健三は、自分のスキンヘッドで余計な光が入ってはいけないと考えて、ベレー帽をかぶっていた。

 この日の撮影の打ち合わせは、聖も交えて、充分に行っている。

『かなり、浮世離れした子だな』と健三は思った。

 山浦聖には、急に宙に浮かんだとしても、不思議に思わせないような雰囲気があった。

 また、それが、社長の望みでもある。

 長い金髪、整った目鼻立ち、まれに見るハンサムと言っていい。

 それが、膝まで隠れるような白地の薄いシャツと同色の白いふわりとしたパンツ姿。

 写真と同時にビデオでも撮影されている。

 静止した姿から始まって、パソコンに向かって考え込んでいる姿、文字を打っている姿、本を読んでいるところ、音楽を聴いているところ、と進んでいき、高橋インストラクターが現れて、一緒に走り始め、声を出し、笑い、叫び、最後には踊る。

 なぜか、健三の目には、涙が浮かんできた。

 最初に山浦聖を見つけるまでの苦労や苦悩、初めて会って逃げられてしまったことなどが、走馬燈のように、健三の脳裏に蘇る。

『十六才で美形で、将来性の全く無い男の子』

 それが、どうだ。

 いきいきとして、生命そのものみたいに動き回っている。

 この子にとっても、これは救いであり、恵みであったのだ。

 撮影は、午前中かけて行われた。

「お疲れ様でした」と健三は、スタッフ全員に一人ずつ声をかけて回った。

 社長が、ぼうっとしたまま、椅子から立ち上がって来ないので、仕方がない。

 インストラクターに挨拶した後、山浦聖の手を握って、「お疲れ様」と言った。

 何となく、大スターの前に立っているような心のときめきがある。

「うまくいきましたか?」と聖は、ニコッと笑った。

「最高ですよ」

「よかった」

 その時になって初めて、健三は、この少年が、カメラを全然意識していなかったことを思った。

 そう。全くの自然体だったので、自分も意識して考えていなかったのだが。

 社長は、まだ、どこか夢の世界を彷徨っているようだったので、「社長、撮影終了しました」と健三は、小声で言った。

「わかっているよ」と社長は答え、「しばらく、このままにしておいてくれ」と言った。

「先に、始めておいてくれたまえ」

「は」と答えて、健三は、スタッフが集まっている食堂に向かった。

 スタッフは、席についていて、「いい絵が撮れた」と喜んでいる。

 そこに服を着替えた聖が現れると、誰が音頭を取った訳でもないのに、皆が、一斉に拍手した。

 聖は、少し照れて、皆に向かって、大きくお辞儀をした。

 シェフが、大きなケーキを持って登場した。またも、拍手だ。

 聖の前に、十七本のろうそくをつけたケーキが置かれ、誰ともなく『ハッピー・バースデイ』の合唱が始まった。

 健三が、カーテンを閉めると、何人かが手伝い、ろうそくに火を灯すと、誰かが明かりも消した。

 聖は一息でろうそくを吹き消し、またも、盛大な拍手が起こった。

 カーテンが開き、明かりがつくと、シェフがケーキを切り分けて、小皿に乗せた。

 それと同時に、スープが運ばれてきて、スタッフの食事としては、豪華すぎるご馳走が並んだ。

 誰もが、満足していた。

 健三も、聖の隣に座って、ひたすら食べた。

 聖もおなかがすいているのだろう、よく食べた。

「渡辺さん、ありがとうございました」と聖に言われ、健三は、もう少しで、肉の塊が喉に詰まるところだった。

 聖としては、最初、変態親父と間違えたこともあり、一度、きちんとお礼を言わなければ、と思ったのだ。

 健三が何か答えようと思った時、「聖君」と教育担当の高橋美代子が聖を呼んで、連れて行ってしまったので、健三は、半分口を開けたまま、取り残された。

 スタッフも食事がすむと引き上げて行き、その頃になって、社長は、我に返り、一人一人を労って送り出していた。もう、元の社長に戻っている。

 健三は、社長が食事を終えるまで、コーヒーを飲んで待っていた。

 社長が健三の部屋に向かったので、健三も後を追った。

「ここまで、うまくいくとは、まるで夢のようだ」と社長が言った。

「は」と健三は答える。

「来週から、『KIYOSHI 十七歳』のスポットCMを流す」

「は」

 予定通りである。

 視聴者に、一体、何のCMなのだろうか、と思ってもらうのが狙いだ。

「ホームページの方も、来週までには完成できるな」

「は。掲示板とチャットルームをどうするかで、スタッフの意見が分かれておりますが」

「そんなものはいらん。一方通行の発信でいい」

「は」

「安売りはしない。最初に、写真集を出そう。今日の分で一冊できるな」

「は。一万部ほど刷りますか」

「五万刷れ」

「は」と言いながら、健三は、内心冷汗をかいた。

 写真集は、お金がかかる。初版五万。売れなかったら、大赤字だ。

「中高生にも、何とか買える値段にしろ。表紙は、黒。写真は使わず、『KIYOSHI 十七歳』と金文字で横書きだ。持って歩いても、おしゃれだろう。女の子だけでなく、男が持っても、年寄りが持っても、おかしくない」

「は」なるほど。健三が持っても、かっこいいかもしれない。


 一週間後、『KIYOSHI 十七歳』のスポットCMがテレビで流れると、社長の読み通り、各テレビ局に問い合わせの電話やメールや手紙が殺到した。

 テレビ局も知らないことなので、スポンサーである、国東プロダクションにテレビ局からの問い合わせの電話が頻繁にかかって来るようになった。

「知らぬ存ぜぬ、で押し通せ」という社長命令だ。

 同時に開設したホームページ『KIYOSHI』にも、アクセスが殺到、一時パンク状態になった。

 テレビ局が、『KIYOSHI 十七歳の謎』という特集番組を組み、あーでないこーでない、と憶測を繰り広げた。

 最終的に、『新手の歌手の売り込みだろう』という線に落ち着いた。

 当たらずといえども、遠からずの憶測だ。

 週刊誌も毎週、『KIYOSHI 十七歳の謎』に迫った。

 十七歳と言えば、高校生である。ありとあらゆる高校に記者が取材に行き、KIYOSHIを探し出そうとした。

 KIYOSHI情報提供者には、賞金が出るという騒ぎになったが、にせものが名乗り出たりしたばかりで、有力な情報は無かった。

 最終的に、日本にはいない、という結論が出た模様だ。

 その間も、スポットCMは流れ続けた。

 勝手に、『KIYOSHIファンクラブ』が結成されたり、様々な掲示板やメールマガジンで、

KIYOSHIの話題が取り上げられていた。

 渡辺健三は、反響の余りの大きさに、驚いた。

 最初にスポットCMが流れた日、家に帰ると、娘の美穂が、玄関先まで走り出て来た。

「お父さん!」

「シー!」と健三。

 娘の部屋に入って、鍵をかけた。

「山浦君が、テレビに出てた! これなの? これがお父さんの仕事なの?」

「お母さんに話したか?」

「ううん。話したって、お母さん、山浦君なんて知らないもの」

 健三は、ほっとした。妻は、言いたくないが、お喋りである。あっという間に、主婦仲

間や親兄弟、親戚縁者に伝わるに決まっていた。

「それに、お父さん、前に極秘任務って言って、山浦君のことを聞いても教えてくれなかったから、これは、誰にも言ってはいけないと思って」

「ありがとう、美穂」と健三は、心から言った。賢い娘だ。

「山浦さん一家にも、口止めしておいた方がいいわよ」と娘の方が、健三より、ずっと賢いようだ。

 そこで、健三は、その日のうちに、車を飛ばして山浦家に伺い、「これは、会社の極秘事項になっていますので、決して、これは、うちの息子だとか言わないようにお願いします。もし、それが世間に漏れてしまったら、我が社のプロジェクトは崩壊し、息子さんとの契約も破棄しなければなりません」とかなり脅しも入ったことを言った。

 聖の美少女の妹の真由にも、健三は、噛んで含めるように、言ってきかせた。

「誰にも、これが私のお兄ちゃんだなんて、言わないと約束できるね。これには、お兄ちゃんの将来がかかっているんだからね」

「わかったけど、いつか、お兄ちゃんに会わせてね」と妹の方が、両親よりも上手だった。

「もちろんだよ。だから、誰にも言わないという約束を守るんだよ」

「うん。絶対に、誰にも言わない」

 本当は言いたいけど、と真由は思うが、今まで誰にも、兄がいるなんて話して無かったから、誰も信じないだろう、と現実的に考えていた。

 プロダクションのスタッフも、KIYOSHIの素性は知らない。

 もしかすると、コンビニの店員の中に覚えている人間がいるかもしれないが、だからと言って、何を知っている訳でもない。

 

15.KIYOSHI フィーバー


 そんなある日、各新聞の紙面の半分を使って、写真集『KIYOSHI 十七歳』の広告が出た。

 スポットCMにも、写真集『KIYOSHI 十七歳』の文字が入る。

 それと同時に、全国の書店に、黒地に金文字の写真集が平積みされた。

 その日は、国東プロダクションの全スタッフだけでなく、全国の国東関係の社員全員が写真集を求めて、地元の書店に問い合わせの電話をかけたり、購入したりした。

 社員は、訳がわからなかったが、書店側では驚いて、追加注文を出して来た。

 実際には、社員がそんなことをしなくても、ファンクラブの人間やら、新聞を見た人達が、書店に問い合わせの電話をかけたり、購入したりして、あっという間に、写真集は、店頭から消えた。売り切れた書店で暴れる客まで登場。

 これがまた、ニュースや特集番組になった。

『一日で、写真集五万部完売!』

『謎のスポットCMの正体は、写真集の売り込みだった!』

『写真集、十万部増刷!』

『予約注文が殺到!』

『増刷分の写真集を買うために、徹夜の行列!』

 写真集は、最終的に百五十万部売れ、国東プロダクションを非常に潤した。

 社長も予想だにしていなかったのは、KIYOSHIファッションが全国的に流行し、KIYOSHI教みたいな宗教的なものにまで発展したことだった。

 マスコミでは、『KIYOSHI族』と呼ばれたりした。

「うちのアパレル部門で手がければ良かった」と社長は、少し悔しがった。

 今や、日本で、KIYOSHIを知らない人はいなくなってしまった。

 プロダクションでは知らなかったが、お隣の韓国では、『KIYOSHI 十七歳』の海賊版が出回っていた。


 当の山浦聖は、高橋直人インストラクターに、歌の特訓を受けていた。

 日本で、KIYOSHIのブレイクぶりを知らないのは、多分、当の本人だけだろう。

 当初は、聖の声質に一番近いエルヴィス・プレスリーの歌でもカバーさせようというだけの話だったのだが、多芸多才の高橋インストラクターは、突然のインスピレーションで、次々と作詩作曲していき、それを聖に歌わせることに、全精力を注いだ。

 聖は、誰よりも、インストラクターの歌を愛し、最初は、インストラクターの言う通りに歌い、徐々に、自分の歌にしていった。

 レコーディング風景は、奇妙なものだった。

 まず、インストラクターと聖が走る。走りながら大声を出して行く。

 そして、走り続けたまま、歌に移行していった。

 高橋インストラクターは、レコーディングの後で、聖を抱いて大泣きした。

 どうしたのかと聖は心配したが、「ありがとう。君は、僕に新しい道を開いてくれた」と言われて、少し安心した。意味は、わからなかったけれど。

 その日のレコーディングは、編集された末に、『KIYOSHI 十七歳 春』という一枚のアルバムになった。

 レコーディング風景は、プロモーションビデオになった。

 KIYOSHI教徒は、巷に氾濫していた。

 テレビやラジオで、KIYOSHIの声とレコーディング風景の一部が、CMとして流れた。

 プロモーションビデオは、各テレビ局に争って売れ、まだ、CDを発売してもいないのに、予約だけで、『KIYOSHI 十七歳 春』はミリオンセラーになった。

 国東プロダクションは、そのお蔭で、大勢の前途有望な歌手を抱える大プロダクションに発展していき、『あなたの歌(曲)をCDにします』部門も、KIYOSHIの歌真似希望者が大勢押し掛けて、飛躍的な発展をとげた。

 長く続く底無しの不況の中、人々は、前途に何の希望も見出せず、その日その日を、何とかやり過ごしていた。

 人々は、何らかの変化、何らかの希望、何らかの生きる張り合いを求めていた。

 政治に希望を求めるのは無理だと、とっくの昔に諦めていた。

 そこに、誰も知らない、この世のものではないかのような『謎の少年』が登場した。

 謎の少年は、誰もが望んだ通り、ずっと謎のままだった。

 写真集に群がり、DCの歌に群がったが、それでも、謎のままだった。

 生身の彼は、どこにもいない。

 大抵の新人歌手のように、ラジオにもテレビにも登場しない。

 雑誌のインタビューにも、登場しない。

 本人の知らないまま、KIYOSHIフィーバーは、異常なほど加熱していった。

 スタッフの誰彼が、金に目がくらんで、テレビ局や雑誌社に情報を売ったが、それも、KIYOSHIフィーバーに拍車をかけただけで終わった。

「KIYOSHIは、私の息子です」

「私の弟です」

「私の中学時代の同級生です」

「私の恋人です」

 全国から、同じような情報が寄せられ、その都度、マスコミは大騒ぎしたが、すぐに、偽の情報だと判明した。

「KIYOSHIは、僕です」というKIYOSHIのそっくりさんも、大勢、マスコミに登場した。

 アルバム『KIYOSHI 十七歳 春』の中の二曲は、日本だけでなく、アメリカのヒットチャートも駆け登っていた。

 写真集は、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、ブラジルでも出版され、かなりの売れ行きになった。


15.少年作家デビュー


「これからが、本番だ」と社長が言った。

「は」と渡辺健三は、息を飲んだ。

 今までの全ては、前哨戦。本番は、これからだ。

「全集の形で出して行こう」

「は」

「毎月一冊配本だ」

「は」

 社長の父親の原稿は、すべて、パソコンで打ち込み、編集されていた。

「しかし、不思議な話だ」と社長は言った。

「今読んでも、古びていない。今で言う、ファンタジーか」

「は。そう思います」と全作品に目を通した健三も言った。

 社長には言わなかったが、全編で活躍する主人公は、最初は父上であっただろうが、途中から、社長に入れ替わっている。

 そして、奇妙に、生身の父上とか社長というよりも、イメージ的には、山浦聖にピッタリだ。内容は、完全に、浮世離れしている。

 書いた時代の影響も伺えないし、その時代特有の風俗も無い。

 書かれているのは、人の心、人間というもの、歴史というもの、人生というもの、男と女というものだ。エッセンスだけを抽出した物語群だ。

 歴史小説の好きな健三だったが、それに似たものを感じる。

 違うのは、歴史小説は、実在の人物とか時代を背景に書いてある。資料を元にして。

 歴史小説から、資料を抜いたような小説だ。

 この作品群を書いたことになる山浦聖も、勉強の宿題に、この小説群を読んでいる。

 高橋先生の言うように、彼は、奇妙に、この小説群を気にいっていた。

『この小説を書いた役を演じる』ということにも、抵抗を示していない。

「凄いいい役ですね」と言っただけだ。


 今回は、テレビのスポットCMも流れず、ホームページにも一切の宣伝はしなかった。

 新聞にも宣伝を載せなかった。

 ただ、KIYOSHIの本ということで、全国の書店に平積みにした。

 写真集同様、黒地に金文字で、『KIYOSHI 1』として出した。

 社長の父上の初期の作品集だ。

 さすがの社長も、初版五万を刷れとは言わなかった。

 初版一万部。

 即日完売した夜、健三と社長は、人知れず、ビールで乾杯した。

「おめでとうございます」と健三は言った。

「ありがとう」と言う社長の目から、涙が流れ、健三も思わず、もらい泣きした。

「君には、百万回頭を下げても追いつかない」と社長が言った。

「私は、商売人だから、つい、目的以外のところでも、儲けてしまう」

「いつも、敬服しております」と健三は、心の底から言った。

「新聞雑誌テレビ局から、取材の申込が殺到しているそうだな」

「全て、断っております」

「そうだ。謎は、謎のままに残した方がいい。謎が解けたら、人というのは、夢から覚めてしまうからな。それは、絵に描いたような不幸というものだ」

「は」

 しかし、最初の作品集が二十万部も売れた頃、大抵の作家志望者が憧れる新人賞がついてきた。四流の出版社に与えられるような賞ではなかった。

 前回は、十八才と二十歳の作者にダブル受賞させた賞だ。

 受賞するか辞退するかで、社長と健三は、話し合ったが、答えは出なかった。

「辞退するのが当然でしょう。だって、僕は、作家の役をしている俳優なんだから」と山浦聖が、驚くほどの明快さで言ってのけたので、二人は驚いて、声も出なかった。

 そこで、『まだ、そこまでの実力はありません』というコメントと共に、超有名な新人賞の受賞を辞退すると、またも、そのことがニュースになり、選考委員が辞任したり、怒りのコメントを発表したりする騒ぎとなって、『KIYOSHI 1』は、最終的に、百万部以上売れるベストセラー作品になった。


16.KIYOSHIは、CG


 ちょうど、その頃、アメリカの雑誌に、『KIYOSHIは、コンピューター・グラフィックスで合成した作品で、実在の人物ではない』という特集が組まれた。

 著名なコンビューター関係の専門家の一致した意見として、誰一人として、生身のKIYOSHIを見た人間がいないこと、実在する人間にしては、余りにも美しく欠点のないこと、インタビューにも答えず、取材も受け付けないこと、日本での著名な賞さえも辞退していること等々を、その根拠として上げた上で、実際に、CGで作成した美少女の動画を各自が作成していた。

 その時になって初めて、アメリカやヨーロッパでは、KIYOSHIは女性だと思われていたことが判明した。

 このニュースは、日本のワイドショーや週刊誌でも繰り返し取り上げられ、KIYOSHIは、コンピューターで合成されたバーチャルな存在であることに、決めつけられてしまった。

 予定通り、『KIYOSHI 2』が出版されたが、初版の五万部の半分以上が売れ残ってしまった。

 巷からKIYOSHIファッションが消え、ずっと売れ続けていた写真集やCDの売上も底を見せ始めていた。

 社長も健三も、どうすればいいのか、と頭を抱えていた。


 山浦聖の方は、そんなことは、全然知らず、相変わらず、午前中は勉強で、午後は、歌やダンスのレッスンに明け暮れていた。

 美代子先生の方も、聖の興味に引きずられて、宇宙の謎の方に、のめりこみ始め、弟の直人インストラクターも、能や狂言の足の動きとか、どの動きの時に、どの声が一番出るかとか、奇妙な方向に興味が向いていた。

 突然のインスピレーションで歌ができると、擦り足で歌ったり、逆立ちして歌ったりした。

 二人のインストラクターは、本人の聖よりも世間の動向を知っていたが、あえて、聖に教えることは無かった。

 この姉弟は、聖フィーバーが、下火になった方がいいと、どこかで考えていた。

 この美しいけれど、ごく普通の少年は、今では、一歩も外には出られない状態だ。

 まだ、十七才という青春の真っ最中なのに、同じ年齢の友達もいなければ、遊びに行くところもない。

 バーチャルな存在だと決めつけられたのだから、フィーバーが下火になれば、髪を切り、黒く戻して、普通の少年としての暮らしを取り戻すこともできる。

 姉の方は、大検を受けられるレベルにまで持って行ってやろうと考えていた。

 弟の方は、少し違い、写真集だの小説だのという詰まらない分野ではなく、身体を極限にまで自由にして、本物の歌と踊りで、これから先も生きていけるようにしてやりたい、と考えていた。

 当の聖は、何を考えていたのだろうか。

 ハッキリ言えば、何も考えていないと言った方がいい。

 この少年の奇妙なところは、今を楽しむ、という大抵の人が理想としながらもできないことが、ごく普通にできてしまうところだった。

 学校に行けなくなり、昼夜逆転生活を送り、コンビニ巡りをするだけの生活を送っていれば、大抵、途中で、将来が不安になったり、自分がイヤになってしまったりするものだが、彼は、コンビニ巡りを心から楽しみ、その生活を愛していた。

 そして、一瞬にして、生活が激変しても、不安を抱いたり、前の大好きな生活に戻りたいとは思わずに、新しい生活を、心の底から楽しんでいる。

 恐らく、路上生活者になったとしても、きっと路上生活を楽しむタイプだろう。

 だから、社長と渡辺健三から、現在、どういう状況にあるかを聞いても、別に、何も感じなかった。

 自分には関係無いと思うのではなく、「そうか。そういう状況なんだ」と思うだけだった。また、コンピューターというのは、そういうこともできるのか、と少しコンピューターに興味を抱いてしまったりした。

 今のところ、部屋のコンピューターは、ただの置物だったから。

「君としては、自分が実在の人物ではないなんて言われるのは、悔しいことだと思う。これは、私の考えが足りなかったせいなので、勘弁して欲しい」と社長が言った。

「これから、どういう風にしていけばいいのか、聖君の意見も聞きたいんだけど」と健三も言った。

「僕は、凄く感謝していますが。今まで何のバイトをしたことの無い僕に仕事をさせてくださって、しかも、勉強までさせてもらって、写真のモデルや俳優までやらせてもらって、毎日が凄く楽しいし、充実している。よく考えたら、僕は、家族にとっても、あんまり実在の人物という感じではなかったし、そんなことを言われても、何とも無いんですが。もしも、実在の人物でないことが、仕事にとって何か問題なんだったら、それを教えてください」

 実際には顔を見合わせたりしなかったが、社長と健三は、心の中で顔を見合わせていた。

 この少年には、野心とか欲というものがない。

『足るを知る。それを富という』という老子のことばが、ふと健三の脳裏に浮かんだ。

 最初に読んだ時、思わず、涙が流れたものだったが、今の今まで忘れていた。

 社長の顔を見ると、社長はうなずいた。社長と健三は、もう以心伝心の仲だ。

 そこで、健三は、社長の父上のことを話し、社長の気持ちを代弁して話した。

「あー。それが、メインだったんですね。何となく、そんな気がしていました」と聖は、明るい声で言った。自分が、幸せなだけに、なぜか、このおじさん達二人が背負っているブラックホールのような暗雲を何とかしてあげたい、という気もある。

 今時の子は、何て軽く流すんだ、感動するということを知らないのか、と少し、健三は苦々しく思った。

「作家の役をするっていうのは、そういう意味だったんですね。わかりました」

 健三のスキンヘッドの額部分に、青筋が浮かび、それがピクピクと動いた。

「お前なんかに、社長や父上の何がわかったんだー!」と怒鳴りたかったが、元々、怒鳴ったことなどない健三である。

「で、何がわかったんだ?」と気持ちを静めて、優しい声でたずねた。

「僕じゃなくて、社長さんのお父さんの本て、何か賞をもらいましたよね。漫画の世界って、そうらしいんですが、賞をもらったり、売れたりしたら、色々なところから書いて欲しいって、注文が来るんですよね。一杯来たんじゃないですか? 何か凄い賞みたいだったし、本も売れたんでしょ?」

 確かに、辞退したけど賞はやってきたし、全部断ってはいるけれど、連載小説やらエッセーやら、長編短編小説の注文は、今だに来ている。

「僕にはわからないけど、次に出す予定の本がありますよね。その中で、これは出したらいいと思うのは、どんどん雑誌に出していったらいいと思います。今の状態は、本当に、本を出す方向とは違ってますよね。僕は全部読んだわけではないからわからないけど、今聞いた限りでは、社長のお父さんは、本当に読んで欲しい人にだけ読んでもらえばいい方ですね。最初の本を買ったのは、流行で買ったんで、本当に読みたいと思って買った人達ではないでしょ。少しずつ、お父さんの本当の読者を増やしていけばいいんじゃないですか?」

 社長と健三は、『顔だけが取り柄のこの若造』から、脳天に痛恨の一撃を食らったような気がした。

「僕の本当の意見を言えば、お父さんの作品として、発表するのが一番いいと思うけれど、きっと、僕にはわからない理由があって、そうしないんですね。僕は、作家役の俳優として、別にインタビューを受けても構いませんよ。嘘はつけないけど、役はできると思うし」

 聖は、『大人って、面倒くさいもんなんだなー』と思いながら、社長と健三が、頭の中で、色々な考えをぐるぐると巡らせているのを、黙って見ていた。

「よし」と長い時間が経った後、社長が、ついに決断した。

「父の作品は、その線で発表していこう。一冊分になったところで、出版だ」

 社長は、あくまでも商売人だった。出版だけの儲けにプラスして、原稿料収入も計算した。その方が、儲けは遙かに大きいし、山浦聖の言うように、本当に作品を愛する読者もつくだろう。

 しかし、山浦聖、つまり今では、KIYOSHIのインタビューとなると、リスクが大き過ぎる気がした。

「インタビュー関係は、いずれ」ということでこの会見は終わった。


 その日を境に、ありとあらゆる文芸誌や雑誌や新聞に、KIYOSHIの作品が掲載されるようになった。KIYOSHIの作品は、ジリジリと読者を増やして行き、『KIYOSHI 3』は、十五万部売れた。


17..ハリウッドのヒットメーカー


 そんな時だった。

『リング・ストーリー』等のファンタジー映画でヒットを飛ばし続けている、映画プロデューサー兼監督の中国系アメリカ人、ブルース・チャンから、プロダクションに電話がかかってきた。

 訳のわからない電話は、全て、最終的に、渡辺健三に回ってくる。

 ブルース・チャンと出演者が、映画の宣伝も兼ねて日本に来ていることは、健三も知っていたが、まさか、『ブルース・チャン』と名乗るその相手が、あの有名なブルース・チャンだとは思ってもみなかった。

 健三は、英語は苦手中の苦手である。

 最初、英語だと思って、耳が拒絶していたが、よくよく聞いていると、英語みたいな日本語だということが判明した。

「立っているだけでいいです。立っているだけでいいです」と相手は早口で言っている。

「CGでOKです。立っているだけです。妖精の女王が必要です。場所は知っています。私は、すぐ行きます。三十分だけ。一時間で行きます」

 電話が切れた後、健三は、しばらくグッタリしていた。

 何の話かはわからなかったが、あのブルース・チャンが、一時間後にここに来ることだけは、わかった。グッタリしている場合ではない。

 即社長に連絡を取った。

 話を聞いた社長は、瞬時に、次の映画に、KIYOSHIを使いたいのだな、ということがわかった。

「スタンバイ」と社長も、我ながら、訳のわからないことを言った。

「KIYOSHI、撮影準備。私は、三十分で着く」

 健三も、訳のわからないまま、レッスン中の聖を呼んで、「撮影準備、ブルース・チャンが来る」と言った。

 世間にうとい聖は、ブルース・チャンを知らなかったが、インストラクターの高橋直人は、「嘘! オレ、ファンなんです!」と叫んだ。

 というわけで、聖は、KIYOSHIの扮装をし、高橋直人は、いつになく興奮し、健三は、一人でウロウロし、プロダクションのスタッフは、門の前で緊迫していた。

 まず、社員も乗せた社長の車が入ってきて、スタッフは倍に増えた。

「いいか、報道陣は、一切中に入れるな」と社長は厳命した。

 それから、十数分後、思った通り、社旗をつけた報道陣の一群に後を追われながら、ブルース・チャンの車が、プロダクションの門の前に止まった。

 鉄の門は堅く閉ざされている。

 早速、門の前で状況を説明しているレポーターがいる。

 次々と報道陣の車が止まり、カメラやビデオを抱えた人間が、雨後の竹の子のように、次から次へと増えてきていた。

 一旦は収まったと見えたKIYOSHIフィーバー再燃である。

「困りました」とブルース・チャンから、電話連絡が入った。

「これは、帰った方が良さそうです」

「何人ですか」と電話の応対にでた社長がたずねた。

「私の方は、ただの三人ですが、テレビとかの人は、数え切れません」

「門の前に立ってください」と社長。

 三人が門の前に立ったが、それ以上に大勢の報道陣が周囲にひしめき合っていた。

 社長は、拡声器を取り出して、門の前に出て来た。

 と同時に、カメラを構えた、プロダクションのスタッフが門の前に並んだ。

「恥を知れ!」と社長が怒鳴ったので、報道陣は、瞬間、度胆を抜かれた。

「いいか、君達がいるところは、私の敷地内だ。この門から十メートル以内は、私の敷地になっている。三秒以内に下がらないと、不法侵入並びに不退去罪で訴えるぞ。君達の写真は撮らせてもらっている。すぐに下がれ!」

 カメラの前で、レポートしていた女性レポーターも、カメラごと下がって行った。

「その代わりに、プレゼントをあげよう。欲しかったら、もっと下がれ!」

 全員が十メートル下がった時、金髪を風になびかせ、写真集やテレビのスポットCM、プロモーションビデオで、何十回、何百回も見た、幻の少年KIYOSHIが、奥の屋敷の中から現れた。


「KIYOSHIです。KIYOSHIが現れました!」とレポーターが絶叫している。

 報道陣全員がKIYOSHIに釘づけになっている間に、鉄の門が開き、監督を含めた三人は、門の中に入ることができた。


 KIYOSHIは、踊っていた。

 カメラのシャッター音が連続して聞こえ、ビデオは回り続け、レポーターは絶叫し続けていた。

「KIYOSHIです! KIYOSHIです! KIYOSHIは、今、ここにいます!」

 そして、KIYOSHIは、スタッフや監督達と一緒に、屋敷の中に消えた。


「CGじゃない! CGじゃない! KIYOSHIは、本当に実在しました!」


 烏合の衆だった報道陣なのに、全員が一人になってしまったかのような、奇妙な感動の渦の中にいた。

 同じ感動を同時に経験した者同士、社の壁を越え、お互いに手を取り合い、握手を交わし、抱擁し合った。

 それは、スクープを、特ダネを拾ったという感動ではなかった。

 最早、この世には実在しないと諦めていたもの、かつては確かにあったと思ったのに、それが、両手の指の隙間からこぼれ落ちてしまったと思ったもの。

 どこか、心の支えであったり、見果てぬ夢や希望であったもの。

 それが、完全な作り物だと知らされた時の絶望感と虚脱感。

 でも、今は、違う。


 私は見た。

 私は、この目で見た。

 私達は、今、確かに、この目でKIYOSHIを見たのだ。


 報道陣は、報道のためではなく、今の感動を分かち合うために、自分の所属している世界を忘れて、熱く熱く、今の感動を語り合った。

 やっぱり、KIYOSHIは、作り物なんかじゃなかった。

 自分達と同じ、生身の人間だったんだ、と。

 それは、大きな災害を経験した者同士が持つ、連帯感のようなものかもしれない。

 驚いたのは、報道陣ばかりでは無かった。

 CGの使用交渉にきた、監督のブルース・チャン、主演のミッキー・マトロフとミリアム・バトラーも同様だった。

 しばらくは、「アンビリーバブル」を連発するしか、することは無かった。

「五十三年生きてるが、これは、初めての驚愕です」とブルース・チャンは言った。

「CGと信じ切ったです」

 聖と主演の二人は、ことばは通じないけれど、一緒になって、走ったり転げ回ったりしていた。

「あー、カメラがないのが残念です」とブルース・チャンは言ったが、プロダクションのスタッフは、しっかりビデオを回していた。

 五十三才。

 社長も健三も、このハリウッドのヒットメーカーが、自分達と同じ歳だとわかると、非常な親近感を覚えた。

「私とこの渡辺も、同じ五十三才です」

「オー!」

 健三の方は、それだけでなく、身長や体型がほぼ同じ、しかも、はげているというところに、自分の分身を見たような気がした。

「私は、写真集を持っています。CDを持っています。それとプロモーション・ビデオを持っています」と監督は言った。

「次の作品は、それでイメージしました。妖精の女王が、彼らに生きる希望を与えます」

 ここで、社長と健三は、KIYOSHIが、欧米社会では、女だと思われているということを思い出した。

「KIYOSHIは、男性です」と社長が言った。

「オー、マイ、ガッ」と実際には、アメリカ人である監督は、叫んだ。

「オー、マイ、ガッ」

 監督は、性格的にも、健三に似ているのかもしれない。

 グルグルと部屋の中を歩き回り始めた。

 社長と健三は、仕方無く、それを眺めている。

「OK」と突然、監督が言った。

「妖精は、男でない、女でない。妖精だから」

 なるほど、そういう線に持っていったか、と二人は同時に思った。

 そして、主役二人と聖の動きを見ていると、目をパチパチさせたが、どう見ても、主人公の男女が、妖精と絡んでいるとしか思えない。

「ファンタスティック、ファンタスティック」と監督は目を輝かせている。

「KIYOSHI、ハリウッドに来る、OK? OK?」

 社長と健三は、事の成り行きに、どうも追いつけていない。

 監督は、聖のそばまで走って行って、同じ質問を繰り返している。どうやら、かなりしつこい性格らしい。

「僕、アメリカに行ってもいいんですか?」と監督と一緒に、社長のそばに来た聖の瞳は輝いている。

 思わず、二人同時に、無意識のうちにうなずいていた。

「KIYOSHI、グレイト」

 などと叫んでいる女優とか、何かわからないガッツポーズを取っている男優なんかを、どこか異次元の人間のように眺めていた。

 社長も健三も、根っからの日本人だった。


18.KIYOSHIフィーバー、再燃


 さて、その日は、日本中が、再び、KIYOSHIフィーバーに燃えた日だった。

 テレビのワイドショウだけでなく、ニュース番組までが、KIYOSHI登場の瞬間を繰り返し繰り返し放映した。

 女子中学生や女子高校生は、友達と抱き合って泣き、お年寄りは仏壇に手を合わせ、隠れKIYOSHIファンの男性達は、一人で部屋にこもって、喜びを噛み締めた。

 本屋やレコード店は、家族で祝い、KIYOSHI教徒達は、集団でKIYOSHIファッションで踊り明かした。

 翌日から、再び、写真集やCDの売り上げが伸び始めた。

 それだけでなく、KIYOSHIの小説の載っている雑誌は、完売するという神話が生まれた。今まで、小説なんか読んだことの無かった若い世代が、本を読み始めたのだ。

 雑誌の創刊ラッシュが相次いだ。

 町に本屋が増えていき、長かった出版不況が、ようやく終わりを告げた感がある。

 ブルース・チャン監督は、次の作品では、KIYOSHIが妖精役で登場することを、離日前の記者会見で語り、「KIYOSHIは素晴らしい。正に妖精そのものだ」ということばを残した。

 また、アメリカでの記者会見でも、テレビの前で、「ああいった専門家は二度と信じない。CGを使う交渉に行ったら、そこに本物のKIYOSHIがいたんだから」とKIYOSHIをCGだと断定した専門家集団を、痛烈に批判した。

 テレビカメラの前で、その記事の載っているページを破り取り、ビリビリに引き裂いて、ゴミ箱に、雑誌ごと投げ捨てた。

 そして、社長がお土産にダビングしてくれた、主役二人とKIYOSHIが笑ったり、踊ったりしている映像を、数分間だけ流すことを許可した。

 KIYOSHIは、まだ映画に出演する前に、俳優としても、アメリカ進出を果たしたわけだった。

『KIYOSHI 十七歳 夏』

 ホームページ『KIYOSHI』に『二枚目のアルバム発売予定』と出しただけで、各レコード店に予約が殺到し、予約分だけで、二百万枚を越えた。

 誰もがKIYOSHIは、十七才にして億万長者だと思っていたが、当の聖の給料は、最初の倍の月額二十万円に過ぎなかった。

 契約書に書かれていたように、山浦聖は、国東プロダクションの社員なのだ。

 でも、給料の明細をもらうと、聖は、普通の人の想像する億万長者になったような気がするのだった。

 月給二十万円ももらった上に、歌手や俳優の勉強や、学校でするような勉強をさせてもらっている。自分の部屋をもらい、着るものも食べるものも不自由はない。

 自分の写真集やアルバムが出て、アメリカの映画にも出られる。

 こんな素晴らしい生活は無い、と思っていた。

 しかも、夏のボーナスとして、ある朝、信じられないような明細書ももらった。

 え? え? え? と思って、何度もゼロの桁を数えた。

 何度数えても、ゼロが七つもある。

 二千万円!

 嘘だろう、と思って、社長と部長の顔を見た。

「君の働きは、それ以上だけど、今のところは、それで勘弁してくれたまえ」と社長が言った。

 健三の方は、ニコニコしている。

「はい。けど、こんな大金、どうしたらいいのか……」

「資金の運用の方は、うちの経理部にまかせておいたらいい」

「はい。全部おまかせします」

 聖は、思わず踊り出した。

 KENZO WATANABEとドアに書かれた部屋から踊り出て、レッスン場に入って、しばらくの間、自分の幸運を感謝して踊った。

 社長と健三は、聖の後を追って、その踊りを眺めていた。

 肩や腕や足の筋肉が、見ている間に、ピクピクと痙攣した。

 人間には、歌ったり踊ったりする、生まれながらの能力がある。

 幼児は、好きなように歌ったり踊ったりする。それが、いつの間にか、『上手』とか『下手』に分類されていき、『下手』に分類されると、歌おう踊ろうという意欲を無くす。

 社長も健三も、『下手』に分類された同士だ。

 踊ろうなどとは、夢にも思っていない。

 けれど、聖の踊りには、上手とか下手を越えたものがあった。

 楽しそうに好き勝手に身体を動かしている。

「社長も部長も、運動しましょう」と聖に呼び掛けられた時、健三は、上着を脱ぎ捨てて、ふらふらと聖のそばに行って、一緒に踊り始めた。

『踊り』ではなく『運動』と言われたことが大きい。

「踊りましょう」などと言われたら、金縛りにあっただろう。

 社長は、茫然として、聖と健三を見ていた。何て、楽しそうなんだ。

 昔、子供の頃、盆踊りで踊ったことを思い出した。

 何が社長の動きを止めているのか。

 盆踊りの時に、どうしても人の動きと反対になって、途中で途方に暮れたことを思い出した。踊りに対するトラウマである。

「社長も、少し運動しましょう」

 そうだ。運動は得意だった。

 社長は、崖から飛び下りるような気持ちで、上着を脱いで、二人に加わった。

 聖は、無意識のうちに、一番最初に、高橋直人トレーナーがしてくれたことを、二人にしていた。

 歩いたり走ったりする。回転したり、床に転がる。

 腕を上げたり下げたりする。片足でターン。ジャンプ。

「あーーーーー」と大きな声を出す。

 好き放題に目茶苦茶に身体を動かす。

 最初に、とうとう、これ以上一歩も動けなくなったのは、健三だった。

 ぜいぜい言いながら、床に座りこんだ。

「だめだめ」と聖が言った。

「クーリングダウンしなきゃ」

 そして、健三を立たせると、ゆっくりと歩き始めた。

 社長も、その頃には、膝がわらわらと笑っていた。一緒に歩き始めた。

 そして、聖と一緒に、ストレッチをして、身体中の筋を伸ばした。

「これをやっておかないと、後で大変ですよ」というのは、高橋インストラクターの受け売りだ。

 聖も全身に汗をかいている。ストレッチしている間に、汗が吹き出してくるのだ。

 健三は、頭からバケツの水をかぶったように汗まみれで、社長も、汗がどっと吹き出してきていた。

「一緒に、シャワー浴びませんか」と聖に言われて、二人は、命令に従うロボットみたいに、シャワー室に入った。身体を使い過ぎて、脳に回る血液が少なくなっているのかもしれない。

 五十三才の二人は、身体を動かして気持ちが良かった、という限度を越えて運動してしまったことを、少し後悔していた。

 五十三才、十七才に踊らされるの図である。

 下着どころか、Yシャツやズボンまで、びしょ濡れだ。

「ちょっと待っててくださいね」と言って、聖は自分の部屋に戻り、二人は聖の下着や服を借りる羽目になった。

 社長は、何とか、ズボンの裾を折り曲げるだけで、恰好がついたが、哀れなのは、健三だった。

 細身の聖のトランクスは、膝までしか入らない。

 大きめのTシャツもダメ。

 で、健三は、もう一度、びしょ濡れの自分の衣服を身につけた。気持ちが悪いし、シャワーが無駄になったが仕方がない。

「車で家に帰って、着替えてきたまえ」と健三が言うより先に、事態を察した社長が言ってくれたので、健三は、お言葉に甘えることにした。

 門の前には、相変わらず、何人もの報道関係者がいる。会社の車は、ヤクザの車のように、外から内部が見えない作りになっている。幸い、この日は、後をつけてくる車も無く、徒歩でも帰れる家に、迂回しながら帰る必要は無かった。

 家に帰ると、娘の美穂がいた。

「お前、どうした、学校は」と驚く健三。

「夏休みじゃないの。お父さんこそどうしたのよ、こんな時間に」

 時計を見ると、まだ、午前十時前だった。

 ふー。朝一番に、一日の全エネルギーを使い切ったというわけか。

「ちょっと着替えに戻ってきた」

「お父さん、臭い」ともろに言われてしまった。

 最初の汗が出た時に、今まで詰まっていた汗腺がポンと開いたような気がして、プーンと臭かった覚えがある。それを吸い取ったシャツや下着の臭いだろう。

 家で、もう一度、ザッとシャワーを浴びて、新しい衣服に着替えると、ホッとした。

 二度とあることではないかもしれないが、着替えを一揃い、会社のロッカーに入れておこうと思った。

 その頃、各地の補欠選挙や地方選挙で、投票率が少しずつ上がるという現象が起きていたが、まだ、ニュースになるほどではなかった。上がった分は、無効票として処理されていたからだ。

 インターネット上で、『KIYOSHIに投票しよう』というメールが若者の間で飛び交っているのも、まだ、若い世代しか知らなかった。

「お父さん、ちょっとお母さんに言った方がいいわよ」と娘。

「ボーナスが多かったからって、毎日車でデパートに行って、服を買いあさってるわよ」

 そう言われて初めて、毎度気にしていた査定で決まるボーナスの額を確かめていなかったことに、気がついた。あれやこれやで、そんなことは、どうでも良くなっていたのだ。

 探しても明細が見つからなかったので、もういいことにした。

 雑誌掲載分で、『KIYOSHI 4』の出版と『KIYOSHI 5』の編集をしないといけない。山浦聖の提案のお蔭で、当初の予定よりも出版のペースが早くなっている。

「じゃ、会社に行って来る」と言って、慌てて、家を後にした。

 社長は、渡辺健三の働きを高く評価して、夏期ボーナスを異例の手取りで五百万円にしていた。

 健三が明細を見ていたら、山浦聖ではないが、何度もゼロの桁を数えただろう。

 そして、口から泡を吹いて、踊り出すよりも、卒倒したかもしれない。

 健三も、やはり、幸せな男だった。

『そうか。査定が上がったか』と会社への車の中で、少しにんまりしていた。

 社長と健三は、その後一週間というもの、身体の節々の痛みに悩まされ、寝返りを打つのに、息が止まるような筋肉痛がした。


19.選挙異変

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