プロローグ
文明九年。長きに渡る武士共の戦は終結した。それに伴い、陰陽家筆頭である賀茂家、土御門家の争いも一応の収束を見せたが、何のことはない。それまですり寄っていた朝廷権力の衰退により、争うだけの力がなくなったに過ぎなかった。その後も、世は荒れ、寄るべをなくした陰陽家にとって暗黒の時代を迎えることになる。
とは言え、これ幸いに妖共が跋扈するものだから、やはり陰陽師は京に不可欠だった。しかし、ずる賢い土御門の連中は若狭国に逃げ、都を捨てた。旨味のない話にははなから乗らない。土御門らしい判断だ。
だが、まあ、いい。
そのおかげで賀茂は返り咲いた。
「在富」
甥の名前を呼んで、その功を称える。と言っても、その亡骸が何か応えることはないが。
「これで勘解由小路家も断絶よ」
嗄れた声が屋敷を満たす。
「所詮は賀茂の分家でしょう。何を憂いることがあります」
慇懃無礼な初老の男がニヤリと笑った。
仇敵、土御門有春は自分達の代わりに陰陽頭を務めた勘解由小路家の当主の訃報を聞きつけ悔みに来たという。
「跡継ぎがいらっしゃらないと聞きました。どうです?私の子を養子にするというのは」
「それで、土御門が再び陰陽頭になるか?はっ、馬鹿馬鹿しい」
土御門有春の父、有宣が職務を放棄してから土御門はもう随分長い間表舞台から姿を消している。
「実力もない無名の陰陽師を養子にする気など毛頭ないわ。お主の父が逃げたのはそういう理由であろう」
嫌味を言い、カッカと嗤えば、有春も同じようにカッカと笑った。
気に食わぬ。
「では、どうしますか?在富の唯一の息子はキリシタンになったらしいではないですか。陰陽師としての職務はもう務められぬでしょう。名前は何と申したかな・・・マノエル?」
「在昌じゃ!」
全くもって痛いところを突いてくる。
嫌味を嫌味で返すぐらいには土御門はまだ健在らしい。
歯噛みしながら、立ち上がる。在富の傍から離れ、障子を開けた。秋の夜風が肌に心地良い。
「そう言えば、」
同じように立ち上がって、隣に並ぶ有春が話題を変えた。
「あなたは、織田信長をどう思う?」
唐突な質問に面食らう。
星も読めないはずの能無しが途端に陰陽師の顔をし出したからだ。
「尾張のうつけ・・・」
と呼ぶには侮れない人物になり過ぎた。今や尾張を牛耳っているのは信長に他ならない。
「ははは!あなたはまだあの者をうつけと言うか!これは参った!まあ、あなたからすれば皆うつけ小僧に見えますでしょうよ。だが、あれは――――」
――――『影』を使役している。
ハッとして、隣で腕組みをしている有春を見る。
その堂々たる仁王立ちに、思わず身震いした。敵の本陣に乗り込んできただけの甲斐性はあるようだ。有春に対する周囲の評価は間違っているのではないかと思わざるを得ない。
「お主、それをどこで――――」
「いや何、小耳に挟んだまでのことですよ」
そう言って空を見上げる男の瞳には幾千の星の瞬きが映り込んでいた。
「有春、よもやお主、信長に取り入るつもりではなかろうな」
「まさか!あれは天下を取れぬでしょう。あなたも分かっておいででは?」
黙り込めば喉の奥で笑う声が聞こえた。
「影で実力を振るった賀茂本家の当主も、百も超えれば耄碌する、か!」
豪快に笑う有春に「まだ九十九じゃ!」とすかさず突っ込む。
五十近く年下の土御門の当主は、満足そうに目を細め「そう言えば、」と、また唐突に話を変えた。
「父上から聞いた話によると、あなたが我が土御門の始祖、有世様を封じたとか」
安倍有世――――。その行く末を確かに知っている。家督を継いで間もない頃にしかと見た。有世と思われるその男が封じられるところを――――。もう九十年も前のことだ。
「何のことだか。安倍有世など、私が生まれた時にはもう死んでおろう」
「力ある者ほど禁忌に触れたがるのですよ。有世様も多分に漏れず。まあ、賀茂はそこら辺の感覚が麻痺していらっしゃるようで、禁術を使うことにも、配下の陰陽家にそれを強いることにも抵抗はないようですが」
神咲家のことを言っているのは嫌でも分かった。神咲光宣に血を残させるため禁術を強いたのは自分だ。
溜め息を吐いて「いや・・・封印したのは私ではない」とだけ答える。
すると有春は「そう言えば、」と手を鳴らした。
回りくどいにもほどがある。言いたいことがあるなら、さっさと言えば良いものを。
「おい、さっきから、そう言えばそう言えばと煩いぞ。世間話をするために来たなら無用じゃ。早く去ね」
「いやいや、ここからが本題ですよ」
苛立ちを隠さず、キッと睨みつければ、眼前に柔和な笑顔が迫った。年の割には屈託ない若々しい顔立ちだ。
有春は腰を屈めて耳打ちする。
「時に、幸近殿は白鬼をご存知ですか?いつぞやの神咲家の当主が懸想したあの女鬼のことですよ。何でも信長の『影』は今、その女鬼に夢中らしい。・・・真、女とは恐ろしいものですな」
さっと身を引いて、着物の合わせをギュッと握る。
鼓動が早鐘を打ち、息が詰まった。
「有春・・・お主っ」
「では」
聞きたいことは短い別れの言葉に遮られた。有春は気味の悪い笑顔を湛えたまま、勘解由小路家を去っていった。
ドサっと膝から崩れ落ちる。烏帽子が床に落ち、髪が解けた。肩まで伸びる白髪が視界の隅に映る。生まれてこの方、肩より長く伸ばしたことはない。
「大丈夫か?」
震える肩にそっと羽織りが掛けられた。
「済まない」
「何を謝ることがある。にしても、あの男・・・始末してくる」
殺気を隠さぬ従者の手を掴み、行くなと懇願する。
「止めろ!其方が滅せられれば・・・私は!」
有春は何かを隠している。祈祷ぐらいしかできぬ陰陽術使いなどと、どうして言い切れようか。
「霧生、ここに居てくれ・・・」
「・・・分かった」
幼い頃から傍にいてくれた従者は今もなお私が幼い子供であるかのように、頭を撫でた。
優しさが目に染みる。
置いていくなと縋り付きはしたが、じきにこの者を置いていくことになるのは私の方だろう。
「霧生・・・其方は人に優しすぎる・・・どれほどの同胞を私が屠ったと?」
「同胞?貴女を傷つける者は同胞にあらず。そもそも、妖怪はそれほど横の繋がりを重視しない」
「そうだよ!幸!僕らはみーんな幸の味方だよ!他の妖怪なんてどうでも良いもんね〜」
ふわふわと浮かぶ白い生き物が何匹も宙を舞う。野に咲く花の綿毛の如き愛くるしさに思わず笑みが溢れた。
「そうです、幸様。わたくし達は幸様の幸せだけを願っているのですから」
出会った時から全く損なわれない美しさを湛えた白蛇の化身が解けた髪を結い直してくれる。
「ありがとう、水月」
「いえ。しかし・・・勘解由小路家が断絶するとなると、表舞台に立つ賀茂の血筋の者がいなくなりますね」
表も裏もない。賀茂本家の生き残りは私一人になってしまった。
家督を継いだその日に女を捨てた身なれば、子供を作ることなどできはしなかった。
否。
男だと偽って生きていくには知恵も力もなく、本来ならばすぐに死すべき命であったろう。しかし幾度となく直面した窮地を、多くの妖が助けてくれたのだ。
そして私は多くの異形の者を抱えた。
抱え込み、過ぎた。
周囲に隠すには、一人で生きる他なかったのだ。
「大和に幸徳井家がある」
「ですがあれは、土御門の者を養子にしてできた分家ではありませんか」
私よりも長く生きる水月は、陰陽家の内情もよく知っている。
「いや、賀茂が土御門を養子に迎えることはない。養子を殺めて賀茂本家の者とすげ替えた・・・伝書にはそう記されている」
「まあ、そうでしたか。ならば、賀茂は安泰ですね」
安泰、か。
星読みは得意ではない。
空を見上げても賀茂の行く末を知ることはできない。が――――
「霧生、水月。其方達に頼みがある」
「何だ?」
「何でございましょう」
深く皺が刻まれた手を伸ばして月を掴む仕草をした。
「時が大きく流れるぞ。その行く末を見ることは私にはできぬ。だが、私に代わり賀茂のためにその濁流に呑まれてはくれぬか?」
いくら星読みが不得手と言えど、己の死期が近いことぐらいは分かる。打てる手は今の内に打っておく必要がある。
「霧生、其方は在昌の子を賀茂本家に迎え入れよ。黒縫、伏見山、王無、神咲の各当主にも話はつけておくが・・・・あの者達も一筋縄では行かぬからな」
先の戦乱で貴船家を失ったのは痛かった。王族出身の貴船家が断絶したことで、京都陰陽五家の均衡は崩れたのだ。
「水月は、信長の『影』を探れ。妖が人の世を動かすなど言語道断!決して陰と陽が交わってはならぬ!」
「しかし幸様。わたくしでは『影』をどうこうすることなど・・・」
「有春が言っていた女鬼を探せ。奴がわざわざここまで出向いてきた理由はまさにそれよ。『影』を表舞台から消すには女鬼の力が必要ということであろう。白鬼が伝書通りの妖怪ならば・・・恐らく、今後起こるであろう信長の暴挙は止められる。水月、頼めるか?」
蛇のように滑らかな動きで頭を垂れると、水月は「畏まりました」と目蓋を閉じた。
その目尻に浮かぶ滴を無視して再び空を見上げる。
「幸・・・」
霧生が悲しみを帯びた声音で名を呼ぶ。
「案ずるな。まだ逝かぬ」
とは言っても、冬まで保つか分からない。
安倍有世が禁忌を犯してまでこの世に止まり続けた気持ちも分からなくはない。
だが――――
私の代わりに人の血に染まった霧生のためにも、私の代わりに多くの人を救ってくれた水月のためにも、綺麗なままで無垢なままで逝かねばなるまい。
陰陽の流れ
雪がちらつく年の瀬に賀茂本家の当主、賀茂幸近が死んだ。幸近が女であること、そして、それを隠すため・・・と言うよりも、従える妖怪達の存在を知られぬために生涯独身を貫いたことは星を見れば明らかだった。
「今日も星が綺麗だな・・・」
霜を踏みしめ、まだ明け方前の道を行く。
豊後府内。ここに、賀茂在昌が妻子と共に下向したのは二年ほど前になる。
「やはり、いたか」
数軒先の曲がり角に身を潜めて隠形する。夜闇に紛れて屋敷の扉にもたれて立ちすくむ異形の者の姿が目に入った。一応は人の形を模してはいるも、着物の袖から確かに鱗が見える。
幸近が死してちょうど一年。
彼女を何故か慕っていた妖怪達は蜘蛛の子を散らすかのように京を去っていった。
「分が悪い、か・・・」
あきらかに武闘派の妖怪を用心棒につけている。賀茂の血筋が絶えないように幸近が生前に命じたのだろう。
諦めて帰りかけたその時、
「心配しなくても、僕は京に戻るつもりはありません」
背後にあどけない顔をした少年が現れた。元服前なのか、振り分け髪を左右の耳の横で結い上げている。
「君、は・・・」
「メショルです」
在昌の子だろう。洗礼を受けたのか、聞き慣れない名で自己紹介した。
「あの妖怪が屋敷にいつくようになってもう一年になりましょうか・・・宣教師様達に見つかるといけないからと、父上が追い払ってもしつこく居座られて・・・どうしたんですか?そんな顔をして」
自分は今、どんな顔をしているのだろうか。
妖怪を囲う幸近も、親子共々キリシタンになる在昌も・・・・気味が悪くて仕方がなかった。これが、賀茂かと疑いたくなる。
「何にせよ、僕達家族のことは放っておいてください。例え父が京に呼び戻されたとしても、僕はここに残ります。僕は主と共にある。陰陽師として生きるつもりはありません」
呆れた。
平安の世より安倍と肩を並べてその力を振るった賀茂がこの有り様とは。
「はは、その言葉忘れるなよ」
枯れた笑い声はあからさまな嘲笑だったが、メショルは気にした風もなく「ええ。ですから、お引き取りを」と言った。
「・・・分かった」
笑みを消して了承の意を伝える。
賀茂もこれで終わりだ。
何と呆気ない。
長年競い争ってきた相手は、もう二度と中央に戻ることはないだろう。
あとは大和の幸徳井家だけだ。それもどこまでやれるか見ものだが・・・
そう思って、踵を返す間際に妖怪が守る屋敷の中から薄らと霊力を感じた。
陽の気。在昌か。
否――――
「弟がいるな?」
鋭い眼光でメショルを見つめる。
「何のことでしょう?」
「隠しても無駄だ。どの道星を見れば分かることだ」
「・・・確かに僕には弟がいましたが生まれてすぐに死にました。神の元へと召されたのです」
「嘘を吐け。隠しているだろう!」
「お静かに。もうすぐ夜が明けます。空を見てください。東の空が陰の気で満たされていますよ。風も東へ流れている・・・信長と『影』が結託してからずっとです。各国の陰陽師達も見守りきれなくなっていますよ。いつ動くのですか?土御門の当主様」
純粋に驚いた。
目の前の子供に陰陽の流れが見えているということに。
隠形を見破られた時点で気づくべきだった。メショルはこんな時間にどこへ行って、何をしてきたのか。少し考えれば分かるものを――――少々賀茂を見くびり過ぎていたようだ。
「陰陽師として生きる道を捨てたのではないのか?」
「ええ。だから僕は動かない。父上も動かない。嵐に襲われる京を守った者こそ、この戦国の世の勝者となるでしょう。さあ、どうしますか?『影』を止められるのは貴方だけですよ」
「止めろ!わしももう長くはない。『影』を仕留められれば信長の歩みも止まる。そんなことは分かりきっている。だから、託したのだ」
幸近に。いや、幸近を慕う妖怪に。
「ならば、もう行ってください。ここに用はないはずです」
そう言って、メショルと名乗った少年は表通りに足を踏み出した。僅かに陰の気を纏っていることに今更ながらに気づく。妖怪を数匹狩ったことは明らかだった。
メショルが屋敷の中へと入ると同時に用心棒の妖怪が消える。
何を、守っているというのか。
夜は幸近が放った妖怪に。昼は幸近以上の陰陽師に。
「賀茂本家の再興、か・・・」
もしも、屋敷の中にいる幼子がメショル以上の霊力の持ち主だと言うならば――――もう自分にできることは何もない。
朝日を背に受けながら、来た道を戻る。
その歩みは遅かった。
早く戻ったところで己にできることは何もない。
土御門は既に次の世代に託している。と言っても息子の有脩では力不足。その次だ。有脩の息子こそが中央を統べる者となる。だが、まだ元服前の幼子・・・徹底した英才教育で陰陽術を学ばせてはいるが、使えるまで育つにはもう少し時間が要る。
陰と陽の境界線があやふやになって十数年。
妖怪達の活動も益々活発になってきた。このままでは人の世が食い尽くされてしまう。
「それを、良しとするのか?白鬼よ」
朝方の澄んだ空気が震える。
各国の武将も阿呆ではない。信長は人が止める。
されど、『影』は――――
陰陽師がやれぬなら頼みの綱は幻の鬼と言われる白鬼だけだ。
人を愛しみ、人を救うために地上に降り立った神の化身。
何故、古の陰陽師達は彼等を討ったのか――――
土御門に伝わる伝書には詳しいことは書かれておらず、安倍晴明と懇意だった白鬼がいるということぐらいしか伝わっていない。
土御門はどこまでも合理的だ。使える者は仇でも使う。役立つなら妖怪とも手を組む。
しかし、手を組むべき白鬼はもういない。恐らく神咲家の当主が懸想したという女鬼が最後の白鬼なのだろう。
もし、白鬼という種族が健在ならばどれほどこの世にとって有益だったか。
いや、白鬼でなくとも、協力的な妖怪がいたならば――――
そう考えて、屋敷を守っていた妖怪の姿を思い起こし、嫉妬めいた感情が湧き上がったことに気づいた。
だがすぐに頭を振り、否定する。
無いならば。
無いなりに知恵を絞り出せ。
有るものを使って力を振るえ。
安倍は、土御門は、そうやって生きてきた。
星読みも陰陽術も他家に劣ることなどありはしない。
賀茂は目障りだが、人の世の為になるならば、生かすことに何ら異存はない。
例え賀茂が安倍に対して過去に二度大きな裏切りを行っていたとしても。
土御門が大局を見誤ることはない。
とは言え、大局が分かったところで一度のきりの人生で成せることは高々知れている。
安倍有世が禁忌を犯してまでこの世に止まり続けた気持ちも分からなくはない。
だが――――
わしの代わりに孫が、その子孫達が、妖怪を滅し人を救うであろう。後世のためにも、老いぼれは未練を残さず潔く去らなくてはなるまい。
それが出来なかった、安倍有世という男は――――
「真、女よりも恐ろしく難儀な者だったに違いない」