触れかけた幻想
リビングの戸を開けると父が椅子に座っているのが見えた。
顔を斜め45度に上げ微動だにしない。
そのせいでメガネが蛍光灯の光に反射してしまい
目を閉じているのか開けているのかよく見えないが、
ポカンと口を開けていびきをかいているということは眠っているのだろう。
父の正面にはテーブルがあり、そのテーブルの足下で
母が正座をして腕組みをしながら前屈みになり、まんじゅうの様に丸くなっている。
いつもその格好で床に新聞を広げて読んでいるのだ。
見慣れた光景ではあるが、私は息を飲んだ。
今となってはあり得ない光景だからだ。
母は昨年死んでいる。
ここにいる訳がない!
驚愕のあまり思わず声が出てしまった。
「お母さん!」
母は顔を上げると怪訝けげんそうにこちらを一瞥してまた新聞に目を落とす。
どうなっているんだ一体・・・もしかしたら・・・・
「ゆゆ・・幽霊?」
またしても声が出てしまった。
「幽霊じゃないよっ!」
母は振り向こうともせず、新聞に目を落としたまま言った。
しゃべった・・・そうか幽霊じゃ無いんだ良かった・・・いや良くない
ということは去年のあれは何だったんだ?
あの日、病院の霊安室で母を棺に入れ、葬儀屋の指示通り足袋を履かせたり
印刷した六文銭を持たせたりといった一連の儀式・・・火葬場に向かい・・・・骨を拾って・・・
いやあの日一日だけでは無い、その後の1年間のすべてが・・・・
あれは全て夢だったというのかっ!
と、そこで気付いた。
そうだ夢だ。
あれが夢では無くこれが夢だ。
その瞬間私を取り巻いていた莫大な違和感とわずかな希望が引いていった。
代わりに忘れていた喪失感が戻ってきた。
「そうだよな」
それくらいの感想しかない。
夢を見ている時にこれが夢だと気付くことは時々ある。
そんな時、目覚めるまで妙な手持ち無沙汰感に苛まれる。
することもないので改めて母を見てみる。
夢とは思えないほどリアルだった。
窓から入る陽の光が、母の着ている白いニットを繊維の1本まで分かるくらい
鮮やかに浮き上がらせている。
ちょっと触ってみようか。
私は丸くなっている母の背中に手を伸ばした。
触れたか触れないか位のところで目が覚めた。
「やっぱり夢か・・」
覚悟はしていたが、現実に戻った時の気分は良い物では無い。
喪失感が戻ったせいか妙に息苦しい。
まだ夜明け前だが、もう眠れそうにないので、起きることにした。
洗面台に佇んで考える。
なんであんな夢を見たんだ?
頭に浮かんだのは昔見た映画だ。
その中で死者が”生者に伝えたいことがある時は寝ている時に話しかける・・・”
ということを言っていた。
なにか伝えたいことがあったのかな?
生活態度を注意しに来たとか、隠し財産の場所を伝えに来たとか・・・
そこまで想像して思わず苦笑いした。
夢の中で母が発した言葉は「幽霊じゃ無いよっ!」だけだ。
私の発した声に対する邪魔くさそうな反応・・・
あれはどう見ても何かを伝えたいというそれではない。
死して尚、息子のことを考えてくれているんじゃないかなんて
一瞬でも思った自分に呆れながら顔を洗う。
母は十分尽くしてくれた。
もういい加減解放してあげて下さいよ。
顔を拭きながら鏡の中の自分に投げ掛ける。
いつの間にかリビングのカーテンの色が明るくなって来た。
いつものルーティーンが動き出す頃、息苦しさも無くなっていた。
今日はデカい商談があるんだった。
験を担いで朝食はトーストに半熟の目玉焼き2つ。
それにコーヒーの砂糖は2杯。
あとネクタイは赤のストライプだ。
靴下も新しいのをおろすとしよう。
靴は昨日の内に磨いてあるしワイシャツは・・・・
親の事なんか顧みないビジネス馬鹿の一日がまた始まった。




