だって本は好きでしょう?
魔法使いが自身の技術の結晶として生み出した魔導書は、全ての魔法使いの為にある。知識を得て、人々の暮らしを豊かに。人々を新たな叡智へと導く。
そして、戦争の――人を容易く殺してしまうことのできる知識と技術を授ける道具でもある。
だから魔法使いは強すぎる魔導書には意思を生み出す様にした。いくら自身の知識、道徳観念の基準を分け与えたものであっても、善悪の判断は難しいかもしれない。
信ずるに足ると魔導書がその意思で選んだ主にのみ、魔導書の全ては与えられる。
それが生み出した魔法使いからの親心であり、未来への責任。
……とはわかっていても、意思があって自ら主を選ぶことのできるということは、それなりに選り好みしてしまうということである。
紅の魔導書は、暇を持て余していた。既に我が身がこの世に生み出されて、軽く数千年以上は経っている。その間で、これだと心に決めた魔法使いは一人だけだ。
その彼もとっくの昔に亡くなってしまっていて、自身は彼が仲間と作り上げた王国の図書館で楽隠居をしていた。
魔導書らしく本棚に収まるとしても、自身が収められているのは禁書の棚どころか館長室の棚だ。ここには見慣れた年配の図書館司書以外は現れることはない。
そもそも館長の席は前の主が死去してからは空席のままだ。前館長が『紅の魔導書に主と認められたものが館長となる』と決めたおかげで、この図書館の館長は名誉職扱い。館長は実質的には一つ下の階級である魔導司書長ということになっていた。
今の魔導司書長が目の前の年配の男であることを、紅の魔導書も知っている。彼がまだ勤め始めたばかりから、何年も何十年も眺めていた。
主となるべき相手は魔導司書長辺りから選ぶのが無難なのだろうが、退屈だ。代替わりも滅多にない役職で、一度違うと決めれば数年は何も無いことになる。退屈すぎる。
ここはやはり、自分から動くべきだろう。直近で言うと百年ほどは行っていなかったが、紅の魔導書は世界に姿を現すことに決めた。
主が居なくとも自然界に存在する魔素を集めて自分の魔素として使うことは可能だ。流石に誰かに危害を加えることなんかは出来ないが、身体を生み出して本体を持ち歩いたりはできる。
その辺りについて、生みの親は自ら主を探したり逃げたり出来るようにと気を遣ってくれていたらしい。ここまで強い魔導書を生み出したあの親は相当なものだ。少しばかり自慢出来るが、誰にもしたことはない。
空気中の魔素を体内へと取り込んで、自分が使いやすい様にと変換していく。知識の結晶である自分だ。久方ぶりとはいえ、何も阻害することはなく一瞬で形作ることが出来た。
「……ねぇ、君」
姿を現し声をかけてみると、年配の司書長は腰を抜かしてしまった。怯えた様子は見えないので、魔法使いとしての知識と資質は高い。
が、ちっとも心惹かれない。
この男もやはり主ではないなぁ。残念な気持ちで、紅の魔導書は男の目の前に立った。
「な、何でしょうか。グリモワール」
「グリモワールって、それは僕ら全てを指すんだから辞めてほしいなぁ。あ、かといっても紅のをつけるのもやめてくれ。有名な名前になってしまっているからね」
「はぁ、確かに。しかし私はあなたのマスターではありませんから、真名を教わっても困ります。どうお呼びすればよろしいですか」
「……それもそうだね」
司書長に手を差し伸べて立ち上がらせると、紅の魔導書はふむと考え始めた。この国の言葉で紅や赤では簡単すぎる。名前らしい単語でも無かったので違和感を覚えるに違いない。
人名として使われる言葉が望ましい。巡り巡って思いついたのは、遥か昔の生まれ故郷の言葉だった。
「ホン。ホンでどうだろう。本の中に紛れているし、ここで働いている者の名前としても面白いだろう」
それが遠い国で紅を意味する言葉だということに司書長は気がついていたが指摘はしなかった。目の前に立っている嬉しそうにしている若い男は、見た目と仕草が見せる年齢の差異が無くとも何千年も前の魔導書。それも曰く付きの紅の魔導書だ。
安直すぎませんか。現在主を選んでいない魔導書であっても、その一言によって機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。どれだけの魔術と知識を内包しているのかわかったものではない。
ただし、おべっかを使うのも嫌だ。これは長年勤めてきた魔法使い達を教える側である魔導司書長としての意地に近い。
妙な葛藤の結果、司書長は「でしたら、そちらでお呼びします」と返すほかなかった。いくら意思があり長年生きているとはいえ、万年引きこもりのグリモワールは司書長に比べると機微には疎い。ホンはその様子には気がつくことはなかった。
「それで、僕から一つお願いがあるんだ」
「何でしょう? 内容によっては止めなければならないこともありますが、伺ってから判断しましょう」
「ありがとう。話は早いほうがいいから本題からいこう。僕を魔導司書に加えてほしいんだ」
目を丸く見開いた司書長は、しばらくの間固まってから「かまいませんが、どう加えるのかは少し考えさせて頂いていいですか。他の者と検討します」と返してきた。
この男、案外頭の回転は早いらしい。
「なるべく早い内に結論を出してね? お願いするよ」
もう退屈で死にそうなんだ。と口には出さなかったが、司書長の目は呆れたと言わんばかりの色を宿していた。
図書館全体の会議の結果、ホンが得られた立場は魔導司書の一員だ。あくまで下っ端の制服しか与えられていない。
既に勤務している魔導司書達は全員ホンの正体を知っている。なんなら全員既にホンは試験済みだ。
司書達は選ばれなかったことを残念に思うところも少しはあるが、どちらかと言えば安堵していた。賢明な判断だ。思い出したホンが紅い目を細めて笑うと、手に持っていた魔導書が震えた。
怯えすぎだよ。落ち着かせようと本の背を撫でてやると余計に震え上がるのだから、人間よりもこいつの方が失礼である。
ホンの様に人型をとれる程の強さを持つ魔導書はこの世に数える程しか存在しない。動物を象るものもあるが、大半は今手に持っている本の様に普通の魔導書でしかない。
「君達は不満なの? そろそろ僕だって主は欲しいんだよ。知ってるかい、僕の旧い友人のラン。そう、藍のやつ。先日奴がまた新たな主を見つけたと聞いてね」
藍の魔導書は人手に渡っている。自分の様に国に保管されている訳ではないのだから、主が途切れにくい。最初に選んだ主の血脈から選んでいるのだ。好ましいと思える人物が見つかりやすいのだろう。
溜息を一つつくと、腕に抱えていた本が少し動いた。先程の本の様に怯えた震えではなかったので、ホンも優しく表紙に触れる。心配してくれているのだろう。有難いことだ。
「大丈夫。退屈なだけだし、ランのやつより僕の主は慎重に選ばなければならないんだから仕方ないんだよ」
この本の様に図書館に収められている魔導書の大半は唯一の主を選ぶ必要はない。これらは一般貸出の棚に並べられているものだ。もっと高度な内容で主を選ぶものは、貸出禁止になっていたり、閉架室に置かれていたりときちんと管理されている。
丁寧に扱われているお陰か、どの魔導書もボロボロになることもなく保たれている。それによって意思疎通が容易いことは有難い。だからなのか名もない一冊の魔導書に顔が合れば、きっと眉が下がっているに違いなかった。
そんな表情を浮かべているだろう本が、また震えてホンに主張する。
「え? どんな主がいいか? そうだなぁ……君たちのことを大事に扱って、僕を一番にしてくれる人とか」
自分の主となる者は、この図書館の館長だ。つまりこの建物内全ての魔導書の主とも言い換えられる。当然のことを言ったはずなのに、手の中にある本達は皆揃って呆れたという雰囲気を醸し出していた。
* * *
何年経ってもこれだという人物は現れない。本達に高望みすぎだと言われても、高望みだとは思えない。選り好みすぎているわけでもない。
ついには今年入った新人司書にすら「ホン先輩は好みのタイプが難しい」とまで言われてしまった。一ヶ月の新人教育を終え、ホンの正体を告げて早々の言葉だった。
「別に難しくはないだろう。最低条件だよ」
「いやいや、ここに勤めてる人は全員本が好きですよ。ホン先輩の言ってる内容だとクリアしてますって。なんで今まで選ばなかったんですか」
「ぴんとこなかった」
「めちゃくちゃ主観ですよね、それ」
てきぱきと腕を動かして作業をしているのはパーシバルだ。パーシバルはこちらを見ることもなく、次々に返却されてきた魔導書の状態を確認して丁寧にカゴに入れていく。ホンへはカゴに入った本達もパーシバルに同意している意思が伝わってくる程だ。人の頭であれば縦に何度も首を振っていることだろう。
「そもそも、魔導司書の試験を突破。尚且つ最初の配属で王立魔導図書館の、しかも王都にあるこの施設に来れる人間が何人居ると思ってるんですか。年に一人ですよ。異動で来ることもあるそうですけど、それを含めて年に数人程度」
「年に数人の可能性はそれなりに高いと思うけど」
「ぴんとこない、で切り捨ててたら意味がないでしょ! って話ですよ。まぁ、魔導書の魔素との相性がそこである程度わかってるからこそなんでしょうけど」
じっとこちらを見たパーシバルは首を振った。魔素を見ていたのだろう。彼はここ数年指導をした中でも優秀で、飲み込みが早かった。
「ホン先輩の魔素は俺にも扱えるとは思いますけど、面倒くさそうだ」
「パーシバルならできそうだから主に、とも少し考えたんだけどね」
「それ妥協してますよね」
「選り好みしすぎだと言ったのは君だろう」
「それとこれとは別ですよ。俺は籠の鳥なんて嫌ですし」
「僕はそんなつもりはないんだけどね。前の主がそうなったのは、本人の考えだよ」
告げるとパーシバルは苦い表情を浮かべている。こういう人間の表情は、紅の魔導書にはまだよくわからない。多くの主を選んで、人と交流をしている藍の魔導書であったり、緑の魔導書であるならわかるのかもしれないが。
紅の魔導書の主が、図書館の館長を選んだのが原因だ。自分の力を使えばどこへでも、何だってできるはずなのに半ば国に預けることを選んだから。
……多くの強すぎる魔導書達が独占したいという欲深い魔法使いや王家の手によって、焚書に合わない為に。国民全員で見張らせる役割を兼ねた、透明な檻だ。
そんな檻はいらない、とは言えなかったのは魔法使いと魔導書の環境が整っていなかったからだ。
図書館をこうして見渡してみると、今ならあの選択は必要なかったと思える。どの魔導書も適切に保管され、多くの魔法使いに知識を渡せている。魔導司書も多くいるので、一人にかかる負担も減った。
「……ここの館長は、実質国一番の魔法使いとも言えますからね。ホン先輩の主になるってことはそういうことなんで、国に囲われるに近いし面倒くさそうです。本だけを構ってられないことになる。これでも人間社会は大変なんですよ」
「そうなんだ。面倒だね」
息を吐き出すと苦笑したパーシバルは、こちらの表情を確認すると「こういう時、ホン先輩が何なのかを改めて実感します」と告げた。
よくわからないが、主になればそんなこと気にしなくても僕が何とかするのに。口には出さなかったが、伝わっているらしい。
パーシバルは手に持っていた本を優しく撫ぜている。話に付き合ってくれていた魔導書は気持ちよいという感情を生み出していた。
そうやって本体を撫でられたのはもう随分と昔の話で、唯一の主にしか触らせられない自分にはまだまだ縁遠い熱だった。
* * *
「本日から魔導司書として配属されました、セラ・クロフォードです。よろしくお願いします!」
「一ヶ月の間君の指導を担当します、ホンです。よろしく」
キラキラとした目をした新人はいつもと変わらない。楽しそうに、嬉しそうにしている様はまだまだ子どもっぽい。
本が好きで司書になることが長年の夢だったそうで、魔導図書館を回る中でもあちこちの本棚に目を留めては嬉しそうだ。古い魔導書を撫でる指は優しい。
この新人はどんな子だろう。僕との相性はパーシバルよりも良さそうだ。
図書館内を説明しながら彼女を観察していると、セラの方からおずおずと口を開いた。
「あの、ホン先輩とおっしゃるんですか? あだ名ではなく」
「ん、あぁ。そうだよ」
正確に言うと紅なのだが、まだ告げる必要はない。偽名と思った理由を聞こうか考えていると、彼女がぱっと明るい表情になって先に口を開いた。
「珍しくて、とても素敵な名字ですね! 司書として最高のあだ名だと思ったんですが、本名なら尚素敵と言いますか。本が好きな人間として憧れますね」
驚いた。彼女は心の底から本が好きな様だ。
「……だったらセラもこの名字になってみる?」
口から飛び出した言葉に驚いたのは、ホン自身だ。何がひっかかってそんなことを言ったのか、自分でもまだよくわからない。けれどそれ以上に驚いているのは、自分の背後にある本棚の魔導書だった。二列分の棚の本が床へと崩れ落ちている。
告げたはずの相手聞こえていなかったのか、落ちた本を慌てて拾いに行っていた。傷や埃がついていないか、丁寧に確認して撫でてやっている。
……司書として当然の業務ではあるのに、あまり気分が良くはない。
そんなことを考えながら同じ様に拾った魔導書は微かに震えている。
ごめん、と小さく謝って本棚に戻すと、全てきっちり収まっていたはずの本棚は小さく隙間が空いてしまっていた。本棚の本全てが縮こまっている様だ。
自分はあくまで他の本も大事にしてくれる主を求めているのに、周りからはそう思われていないらしい。
元々心が狭いとは思っていなかったが、主不在歴が長くなると狭くなっているのかもしれない。人に読まれることすら無く、触れられることも無い本体だ。人寂しい、のだろう。
違う棚の本を戻しているセラは、一冊一冊確認しながら丁寧に戻している。書の並べ方を確認しながら行っているので時間がかかっている様だ。魔素が見えれば元いた位置も大体わかるはずだが、まだ教えていないので仕方がない。
セラの指は丁寧に魔導書を扱っている。
いいな。あの指に触れられたい。いや、まだ他にも確認することは多い。それに一ヶ月の研修は他の司書と同じことを教えなければならない。それからだ。
それから、主になればいくらでも時間はある。
パーシバルが面倒だと言う人間社会のことであっても、セラが望むのなら何とかしよう。大丈夫、紅の魔導書の主は誰にも傷つけさせない。
綺麗に本棚を片付け終わったセラにホンはにこりと微笑んだ。
「丁寧に扱ってくれてありがとう。元通りの位置だ」
「あっているならよかったです。お待たせしました」
今の作業の間だとは分かっている。けれどホンからすると待っていた時間全てだ。
早くと本体がうるさい。長く待っていたのだから、あと一ヶ月くらいは我慢できるはずだ。
自分と魔導書達の主として相応しいか確認しながら、一ヶ月共に頑張ればいいだけだ。彼女はどうやら本がとても好きらしいので、本である自分も拒絶はされないはずだ。
呼吸を整えて、ホンは微笑んだ。
「これからよろしくね、セラ」