カッコウの鳴く森
閑散とした小さな駅舎の前で、私は胸を躍らせていた。
数日前のことだ、母から電話があった。伯母の具合が悪く床に伏せっているという。そこで私は、伯母の暮らすこの高原の町にお見舞いに来たのだった。
私は20年ほど前に、この地でひと夏を過ごした経験があった。小学生だった当時、私は身体が弱く、特に呼吸器系の病を抱えていた。一晩中止まらぬ咳は両親の心を痛ませた。そこで、空気のいい高原に住む伯母のもとで夏休みの間を過ごすことになったのだ。
20年ぶりに乗った電車や降り立った駅のホームは新しくなっていた。車窓から眺める景色も記憶を呼び起こすことはなく、正しい方向へ向かっているのかと不安な気持ちにさえなった。ところが、改札を抜け駅前の景色を目にしたとたん、私の不安は吹き飛び、20年前の記憶が鮮やかに蘇っていった。一階にお土産屋が入っている小さなビル、色褪せたのれんを飾る食堂、ロータリーで退屈そうに乗客を待つタクシー、そして駅から真っすぐに伸びた道路の先には連なる山々が美しく描く稜線があり、そのどれもが昔と変わらぬ姿だった。ひとつひとつを目にするたびに、私の記憶は呼び覚まされ、当時の胸躍らせた感情が再び湧き上がってくるようだった。大きく息を吸い込むと、すがすがしい空気が胸を満たした。
しばらくするとバスがロータリーに入ってきた。そのバスに乗ったのは私を含めて三人だけで、がらんとした状態で駅前のロータリーを出発した。新築の住宅がぽつりぽつりと建つ古い街道をバスは進んでいった。バス停をふたつ過ぎると街道のようすは一変し、大きなスーパーや、どこでも見かけるチェーンの飲食店が立ち並ぶ商業区画となった。この静かな町に忽然と姿を現した賑やかな一角を、私は車窓から驚きの眼で見ていた。
商業区画の中央の十字路でバスは停まり、大勢の乗客が乗り込んできた。車内は混雑となった。その乗客たちの中の、ひとりの男性に私は気をひかれた。その男性は私の斜め前に立った。年齢は私と同じくらいで、チノパンにポロシャツのカジュアルな装い。視線に気がついているのか、向こうも私をちらちらと見ている。
そこから先は、バス停に停まるたびに乗客は少しずつ降りていった。車窓から見える建物と比例するように乗客は減っていき、景色と同じように空間が目立つようになっていった。座席も空席がほとんどを占めるようになり、先ほどの男性は私と同じ列の、通路を挟んだ向こう側の席に座った。
私は意を決し、座席を立つと男性に声をかけた。
「人違いだったらごめんなさい。もしかして、かずひろさんじゃありません?」
男性は不思議そうな顔で私を見ていた。
「そうですが、あなたは?」
「やっぱり! かずひろ君だったのね。そうじゃないかと思った。私よ、すみかよ。忘れちゃった?」
男性の表情がぱあっと明るくなった。
「すみかちゃん!? ほんとうに?」
「隣りに座ってもいいかしら?」
「もちろん! それにしても驚いたなあ。懐かしいなあ。何年ぶりだ?」
「20年かな」私はかずひろ君の隣に座った。
20年前の夏、高原で過ごす日々は、触れるもの、目にするもの、そのすべてが未知の経験で満ちあふれ、私は新鮮なときめきと共に日々を過ごしていた。だが、そんな輝くような生活もしだいに色褪せていった。都会の生活に慣れた小学生の私にとって、ここでの暮らしはあまりにも穏やかで静かすぎたのだ。行動の範囲が限られていたのも変化を求める気持ちを膨らませ続けていた。
ある日のことだった。家の前を通る坂道を私はひとりで下っていった。ふもとの町まで続く急で長い坂道は両側に森が広がり、涼やかな空気に木漏れ日がきらめいていた。遠くで鳴く鳥の声が木々に反響している。私はささやかな冒険の始まりにわくわくしながら軽やかに歩を進めていた。
ところが、どれだけ歩いても変わらぬ景色に、次第に疲れと焦りを感じ始めた。坂道の前方はどこまでも木立が続き、はるか遠くで急カーブとなっていた。引き返そうか、それとも進んでみようか。一歩いっぽを葛藤とともに進んでいく。
急カーブまでたどり着いた私は、ほっと安堵のため息をついた。樹木のみが広がる景色はそこから少し先で終わり、そこには家と畑が並んでいた。私は疲れ切った身体に鞭を打ち、緩やかになった坂道を進んでいった。
そこには数軒の家が建ち並び、その先に大きな公園があった。公園といっても遊具はブランコと鉄棒があるだけで、広場といったほうが相応しいかもしれない。夏休みだというのに、そこで遊ぶ人の姿といえばキャッチボールをしているひと組の親子だけだった。私はベンチに腰掛けると背を丸め、荒くなった息を整えた。すると、キャッチボールをしていた父親が、私のおかしなようすに気がつき声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい? 顔が真っ青だよ」
都会で育った私は、見知らぬ人との交流はいけないものとして教えられてきた。荒い息を必死で整えながら答えた。
「大丈夫です。平気です」
「でも、苦しそうじゃないか。この近所の子じゃないようだけど、どこから来たんだい?」
無理やり声を絞り出し、ますます息が苦しくなってしまった私は、もう誰でもいいから助けてほしいという気持ちになっていた。
「坂の上に伯母の家があって、そこに泊っています。そこから来ました」
「そのようすじゃ歩いて帰るのは無理だよ。おじさんが車で送ってあげるからここで待っておいで」
おじさんはグローブを子どもに渡すと通りに出ていった。男の子はグローブをベンチの端に置くと、私の隣に腰を下ろした。
「おれ、かずひろ。大丈夫かい?」
「ありがとう、少し休めば平気。……私は北川純香……」
「あんまり話しかけちゃいけないな。ごめん」
そういうと、かずひろ君は通りの方へ行き、車の到着を待っていた。そして、すぐに私のところへ小走りに戻ってきた。
「車が来たよ。歩ける? 手を貸そうか?」
「ありがとう」私はかずひろ君に手を引かれながらゆっくりと通りに歩いて行った。
軽トラックが公園の前に停まり、車の中でおじさんが手招きをした。私は助手席に乗り込んだ。閉めたドアがバタンと大きな音を立てる。軽トラックは私が来た道を大きなエンジン音を響かせながら登っていった。密集して並ぶ木々が次々と後ろへ流れていく。全開にした窓から勢いよく吹き込む風を顔に受け、私は次第に気分が良くなっていくのを実感していた。
「顔色が良くなってきたようだね」おじさんがいった。
「はい、だいぶ楽になりました。ありがとうございます」
「そうだ、自己紹介がまだだったね。私は本間東吾、よろしくね」
「私は北川純香です。よろしくお願いします」
「すみかちゃんか、いい名前だね。5年生くらいかな?」
「はい、そうです」
「そうか。じゃあ、かずひろと同い年だな。伯母さんの家に泊っているといってたけど、夏休みだから遊びに来たのかな?」
「はい。それと、私の咳がひどいので空気のいいところで過ごしたらいいんじゃないかって」
「なるほどね。たしかにこの辺は空気がいいし水も美味いから、夏が終わるころには、すみかちゃんの身体もすっかりと良くなっていると思うよ。だけど、あんまり無茶しちゃ危ないよ」
「はい。すみませんでした」
「だけど、この辺じゃ遊ぶところもないからなあ。退屈して遠くへ行ってみたくなるのも無理ないよな」
おじさんは、はははと笑った。
「そうだ、かずひろに遊びに行くように話してみるよ。退屈しのぎにはなるんじゃないかな?」
「え!?」突然の申し出に私はどぎまぎしてしまった。
「あれ? あいつのこと嫌い? なにかされちゃった?」
「いいえ。とても親切にしてもらいました。嫌いだなんて……ただ、びっくりしちゃって」
「そうか、それはおじさんが悪かったなあ。とにかく、かずひろには話してみるから、もし行ったら遊んであげてくれるかな?」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
車が家の前に着くと、中から心配そうな顔をして伯母が出てきた。いつもなら三時のおやつに戻っているはずが、今日は返ってこない私の身に何かあったのでは、と考え始めていたところだったらしい。
「いったいどうしたの?」伯母はおじさんに会釈をすると私にいった。
おじさんは、いきさつを伯母に説明してくれた。伯母は片腕で私の肩を抱き寄せると、深々と頭を下げおじさんに礼をいった。
おじさんは軽トラに乗ると窓から手を振った。「またね」軽トラは坂道を下りていき、エンジン音は次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
翌日、朝食を済ませた私が庭の草花に水をやっていると、自転車に乗った少年が坂道を登って来るのが見えた。かずひろ君だった。顔中を汗だらけにし、肩で息をしている。
「おはよう! さっそく遊びに来ちゃったけど、大丈夫だった?」
「おはよう! おばさんに断ってくるね」
私は台所に向かった。かずひろ君は自転車を庭先に置き、後ろからついてきた。
「おばさん、お友達」
「はじめまして、かずひろっていいます。昨日、公園ですみかちゃんと会って、それで遊びに来ました」
「あら、はじめまして。昨日すみかがお世話になったのね、ありがとう。仲良くしてあげてちょうだいね」
「ねえ、これから遊びに行ってもいい?」
「いいけど遠くには行かないでね。危ないところにも。それとお昼までには帰ってくること、いい?」
「はあい」
私とかずひろ君は出ていこうとした。後ろから伯母が声をかける。「帽子を忘れないでね」
かずひろ君は森の中の細い道へ連れて行ってくれた。家のすぐそばにこんな場所があることを知らなかった私は、この地へ来た頃の新鮮な気持ちを再び感じ、胸をときめかせながら彼の背中について行った。まだ午前の早い時間だというのに日の光は強く、頭上の木の葉を通って森の中を明るく輝かせていた。ときおり高原の爽やかな風が下草をやさしく揺らす。セミや鳥の鳴き声は止むことなく木々に反響して空間を満たしていたが、私には静寂な場を歩いているような感覚だった。外の世界から切り離された不思議な時間を感じていた。
しばらく歩くと急に開けた場所に出た。一面のごつごつした小石と、その中央あたりを緩やかに小川が流れていた。直射日光を浴びて私は眩しさに目を細めた。
「ここはおれの秘密の場所。よく釣れるんだ」
私はきらきらと細かく光り輝く川面の、その美しさに見とれていた。「素敵ね」そのとき、鳥の鳴き声が聞こえた。「あ、この鳴き声」
「カッコウだな」
「カッコウ……こんな近くで初めて聞いた」
私は『静かな湖畔の』を口ずさんだ。すると、かずひろ君は私に続いて輪唱で歌った。歌い終わるとふたりは見つめ合い、ふふふと笑った。
それから毎日のようにかずひろ君は遊びに来てくれた。ふたりでひみつの河原で釣りをしたり、縁側に並んで座り、伯母が切ってくれたよく冷えたスイカを食べ、庭に向かって競うように種を飛ばしたりと楽しい時を過ごした。かずひろ君は、ふもとの町を一望できる高台にも連れて行ってくれた。山に囲まれ夕焼けに染まった町を見下ろすと、それはまるで魔法で造られた精密な模型のように感じたことを今でも鮮明に覚えている。
楽しい日々と清涼な環境での生活は、私の健康状態をみるみると回復させていった。夏の終わりに迎えに来た両親が、野生児の趣を醸し出し始めていた私の姿を見て、驚きの表情を隠せずにいたくらいだった。
そうして、私のひと夏の高原での生活は終わりを告げた。美しい思い出として、常に私の心の中で輝き続けていた。
バスは緩やかな上り坂を走り続け、乗客は私とかずひろ君のふたりのみになっていた。ふたりは偶然の出会いに驚き、懐かしさに興奮しながら思い出を語り合っていた。
「それにしても、よくおれだと分かったなあ」彼はいった。
「すぐに分かったわよ。だってお父様にそっくり」
「え!? そんなに似てた?」
「ええ、目も鼻も口もそっくり。立ち姿だって生き写しよ。20年前の記憶からお父様が抜け出してきたのかとびっくりしちゃったくらいだわ」
「そうか……」彼は考え込むような表情をした。
「どうしたの?」
「いやね、君は勘違いをしているようだけど、俺は本間おじさんの子どもじゃないよ。俺の名前は橋本和弘。おじさんは近所に住んでいたけれど、親戚ってわけでもないんだ。小さい時から可愛がってくれて、よく遊んでもらったりしてたけどね」
私は二の句を継げなくなってしまった。沈黙がふたりを包んだ。そのとき、車内アナウンスが次のバス停の名を告げ、かずひろ君は降車ボタンを押した。窓の外に見覚えのある公園が見えた。あの公園だ。だが、ブランコも鉄棒も撤去されてしまい、ところどころにベンチのみが置かれた広場になってしまっていた。老人たちがゲートボールに興じている。
「それじゃあ。久しぶりに会えて嬉しかったよ。もし時間があったらうちにも寄って」
彼はバスを降りた。バスが走りだしても路上で手を振り続けていた。バスは勾配を増した坂道にさしかかり、エンジン音を一段高くして登っていった。道の両側はところどころ伐採され、整地されて空き地となっていた。ここも、そう遠くない将来に造成地となり宅地となるのだろう。住みかを侵食され居場所を失ってしまったカッコウはどうするのだろう。それでも、わが子の成長を見守るために、小さくなっていく森にとどまり続けるのだろうか。枝のうえで戸惑い、怯え震えているカッコウの姿を私は想像した。私は『静かな湖畔の』を口ずさんでいた。