プロローグ
中学校で初めて英語に触れてから、私は英語の授業が好きだった。
日本語とは違う単語、日本語とは違う響き、日本語とは違う表現。
私のいた世界とは何もかもが異なって、この不思議な言語に触れていれば、私も今までとは違う何かになれるような気がした。
当然それはただの気のせいで、英語を学んだだけで自分を変えることが出来るはずがないのだが、結局それに気づいたのは私が第二学年に進級した後だった。
2年生になってからは、ドイツ語に手を出してみた。
特別な理由があったわけではないけれど、強いて理由を挙げるとするならば、そう――クーゲルシュライバーだ。
「ボールペンはドイツ語ではクーゲルシュライバーという」
そんな、誰もが一度は聞いたことがあるだろう豆知識。ドイツ語はかっこいいという漠然とした印象。
多分、そんなイメージの集積が私をドイツ語へと走らせたのだと思う。
それからは、ドイツ語と英語が従兄弟のような関係の言語であるということや、ボールペンは口語ではクーゲルシュライバーよりもクーリと言うことの方が多いなど、色々なことを覚えた。
そしておよそ半年後……夏休みが明けた頃、こんなことをしていてもやっぱり私は変われないと、気づいた。
その次は3ヶ月間、フランス語を。
次は1ヶ月と半月スペイン語を。
イタリア語、ルーマニア語、ロシア語、ギリシャ語、ラテン語、アラビア語、サンスクリット語――
メジャーからマイナーまで、とにかく、色々やったのだ。
でも、変われなかった。
人間五十年、限りある人生の中、思いがけない突然の出来事などそうあるものではない。
学校の授業はスケジュール通りに進むし、天気予報はそこまで劇的には外れない。
受験や就職活動に何の心構えもせずに臨む人は少ないだろうし、何事にも計画を立てなければ気が済まないという人もいるだろう。
予定が多少外れたとしても、そんなものは所詮、想定されていたはずの失敗だ。
働かないとお金は増えない。
時計の針は1から3に飛ばない。
鏡は物を対称にしか映さない。
どうにもならない、想定することの出来ない事象など、一体この世にどれだけ経験することの出来る人間がいるだろうか。
人が変わるためには、思いがけないほどの何かが必要なのだ。
私にそのチャンスは回ってこなかった。
今日から明後日に飛ぶことは出来なかった。
私は何も出来ない人間だと実感した。
成人にも満たない若造が何を生意気言っているのかと思われてしまうかもしれないが、それが心の底から沸き上がってきた、確かな気持ちだったのだ。
それが私の知る現実だ。
それが、現実のはずだった。
だから――
「――えっ……と……」
知らない音、知らない臭い、知らない空気、知らない景色。
視線を落とせば生い茂る草、そしてその隙間から覗く茶色い大地。
前を見やれば背の高い草や乱立する木々が視界を遮る。
周囲を見回してみれば似たような景色が360度を取り囲む。
空を仰げば青ではなく暗い緑が視界を覆い尽くした。
わずかに差し込む陽光に目を細めながら、半ば無意識に私は呟く。
「……森?」
それを表す表現は理解した。
私がそこにいるというのも、理解した。
でも、
それを受け入れることは――出来ない。
「……ここ、どこ……?」
だから、
これはきっと、悪い夢。