SOSアリス
(女の子の世界)
そこはガラス越しの世界でした。とてもぴかぴかに磨かれていて、一見すれば、向こう側もこちら側も繋がっていて混じり合っているように見えます。
馬鹿な女の子は気が付きませんでした。気が付けませんでした。馬鹿だから、馬鹿なんですから。
女の子の世界は築かれていました。たった一人の王国。女の子はお姫様であり王様であり国民でもありました。全てが女の子の思いのままで、女の子にのし掛かってくるのです。
それでも、女の子はこの世界を捨てたいとは思いませんでした。どんなに辛くとも、苦しくとも、面倒だとも、そこは自分の世界ですから。女の子はその世界そのものですから。生きていくと共にその世界は付いてくるのです。
眠れない夜が訪れると、女の子は向こうの世界に手を伸ばしました。コツンと冷たいガラスが指に当たります。女の子は不思議に思いました。なぜここから進めないのだろう。ここにあるものはなんだろう。透明なガラスは女の子を拒みました。ここから先へは進めませんと。ここから先はあなたの来る場所ではない、と。
女の子は馬鹿なのでそれが当たり前になりました。ここには壁があり、世界と世界とは隔たれていること。次第に、女の子は向こう側の世界を眺めることが常となっていました。
目まぐるしく、華やかで、喧噪に塗れた、多くの人間がいる世界は、女の子にとって退屈しない興味深いものです。時折、ガラス越しにお話をしてくれる人もいます。ご飯を食べてくれる人もいます。本を買ってくれる人がいます。女の子が死なないようにしてくれる人がいます。
そう、すべてが、『くれる』もの。
「お前を生かしているのは誰だ?」
指差す人間に女の子は感謝します。「私を生かしてくれてありがとうございます」そうして生かしてくれるそれらを満足させて、生きることを続けます。生きる為に相手を満足させるのです。ガラス越しに、おどけて、ピエロのように芸を見せています。けらけらと笑うことを覚えました。重たい口を持ち上げて、ペラペラと紙のような言葉を紡ぎます。必要とされるならば傷付ける言葉を簡単に投げつけます。何にも思っていないので、それらは全て簡単でした。
女の子は時々空っぽになります。疲労に包まれ、何かをすることを全て投げ打って、空っぽになるのです。
そういう時、女の子は向こうの世界から必要とされなくなります。ガラスからは誰の姿も見えません。
いつしかガラスの向こうの住人が言っていました。「私たちには、当たり前に与えられる物があって、それはとても幸福なことなんだって」そして続けて「でも私たちは、なかなかにそれを幸福だと認識出来ない」「だって、当たり前とは、そういうことだから」「当たり前である幸福は、いつも近くにいて、私たちに寄り添っているから」。
女の子は年を経て、やっとのことです。やっと、やっと、自分の存在を、認識しました。
そうして、静かに泣きました。
女の子は、一人でした。
(薄水色のベールで私は眠る)
ゆっくりと目を開けると、Tくんの寝顔が真っ先に目に入った。珍しいことに私の方が先に起きたんだ、音を起てないようにそっと腕から抜け出す。カーテンからは目映い朝日が差し込んでいて、時刻を確認すればまだ七時前だった。
オートミール入りの洗顔料を手のひらで丁寧に伸ばす。水気を帯びた顔にザラザラとした感触が心地良い。
私たちはすれ違いざまに互いの手の甲をくっつけ合う。それは猫が親愛の証として顔を擦り合わせるような、そんな類いのものだった。
テーブルには既に二人分の朝食が用意されている。フォークとスプーンを持ったTくんが席に着くと、私たちはいただきますと手を合わせて朝食にありついた。今日はカリカリに焼いたベーコンにスクランブルエッグ、それからパン焼き器で焼いたライ麦パン。私はバターを塗って、Tくんはそのままスクランブルエッグと共に食べた。
「今日出掛ける?」
「うん、Aちゃんと、買い物に」
咀嚼している口元を隠しながら答えると、Tくんは「じゃあ俺も出掛けようかな」とぼんやりとした目線を時計に移した。まだ八時を回ったばかりで、待ち合わせの時間の一時までかなり空いている。
「Tくん、疲れてないの」
「うん? 疲れてるけど、昨日ぐっすり寝たからなあ」
「そっか」
早々に食べ終わったTくんは牛乳さえも飲み終わり、手持ちぶさたにしている。私の皿にはまだ半分以上の朝食が残っている。
冷めない内にとTくんと話すのはそこそこに朝食を食べ終えることを優先する。私は食べるのが遅い上に、何かをしながら何かをするという器用な真似が出来ないのだ。
「ごちそうさま」
ティッシュで口を拭い、皿を流し台へと運び、棚から新しいスポンジを取り出す。後片付けは私の分担なのだ。と言っても二人分の皿とフライパンくらいのものなので、それほど大変なことではない。
洗い物が終わり、タオルで手を拭いながらリビングへと戻ると、Tくんはソファーに座ってテレビを見ていた。同棲を始めてから数ヶ月が経つけれど、学校やデートの時にはいつも元気でお喋りなTくんがこうして朝ぼうっとテレビを見ているような姿は未だに新鮮だった。「コーヒー飲む?」私の問いかけに、うん、と味気ない返事。私は口元を緩ませて、マグカップに粉末のインスタントコーヒーを入れる。電気ケトルを傾ければ熱い湯がマグカップに注がれていく。私たちは紅茶よりもコーヒーを好んでいるがコーヒーの味さえすれば良いので余りこだわりは持たない方だった。なのでお手軽な粉末のインスタントコーヒーでも美味しく感じてしまう。もちろん喫茶店で飲むようなコーヒーだって好きだし、ちょっと高いドリップコーヒーだって美味しい。
「ゆうちゃん、こっちにおいで」
いつのまにかTくんは腕を広げて待っていてくれた。私は子犬のように傍に駆け寄ってTくんの腕に纏わり付く。うざったくないかな。でもこうしたい。私は急に出掛けるのが嫌になった。Tくんといたい。くっついていたい。
「Tくん、私、やっぱりTくんといることにする」
「友達はいいの?」
「うん、いいや」
友達といわれ、頭の中でぼうっと浮かぶその像に向かってごめんと謝る。ゆるして、私は、Tくんといたいの。
私たちはしばらくソファーでまどろんでいた。時折互いの姿を確認するように手の甲を摺り合わせる。
「ゆうちゃん」
「はぁい」
「もう行かなきゃじゃない?」
「友達はいいって、言ったじゃん」
「……頑張っておいでよ」
Tくんが頭を撫でる。Tくんに撫でて貰うと、ちょっとだけ頑張ろうかなっていう気持ちがじわりと湧いてくる。本当は行きたくなんかない。でも、Tくんが頑張れっていうから、仕方無くだ。
「Tくん、すぐ帰ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい。待ってるから」
「ありがと、いつも、ほんと……」
じわりじわりと熱いお湯のような涙が出てくる。眉間が痛い。Tくんが頭を抱えてくれる。良い子だと、ここにいてもいいのだと、ちゃんと承認してくれるんだ。
みなさん、私は、ここにいます。
あの悪夢は、ゴミ箱のような醜悪な地獄。
ねえ、私良い子にしているから、だから、早く。早く来て。誰か、来て。
悪夢から目を醒まさせて。
(私の夢はいつも悪い夢)
飲み会の帰り道に友人に手を掴まれた際、私は思い切りそれを振り払った。最早友人と呼んで良いのかすら分からない。確かに熱を帯びていたその指が、手のひらが、ただ気持ち悪くてたまらなかった。酒に飲まれまともな思考回路をしていない友人を置き去りにする訳にもいかず、通りすがったタクシーを止めて「××駅の北口」と短く伝えた。
タクシーに乗っている間も、友人と呼ぶべきか分からないその女は私の肩口で酒臭い息を吐きながらブツブツと呟いていた。「わたし嫌われてるのかな」女の絡みにうんざりとした私は「私敏感肌だから触られると蕁麻疹でちゃうんだよね」と意味不明な理由を口にしてぐ、と押し返した。今度は自分の手のひらに他人の感触が伝わる。気持ち悪い。どうして人間ってこんなにも気持ち悪いんだろう。
私は酒に強い方ではあるが、その日は結構な量を飲んでいたし、それもアルコール度数が強いものばかりだった。途中までは心地良い眠気がベールのように包み込んでいて、よく笑っていたし気分も悪くなかった。しかし、この女は私に合わせたのか単に勢いと気分でなのか途中から酔いが回ってしまったのだ。お陰で店員には迷惑を掛けるし、叫ぶし、何よりもまず私に迷惑を掛けるし。
酔いなどすっかり冷めていた。いつものように気分が良くなったと思えばすぐにさっぱりと無かったことになる。酒は好きだが、酔っ払いは嫌いだ。私はまた一人友人を失った。
◇
思い返して見れば、私に友達なんて出来たことが無かった。小学生の頃、話しかけられたり話しかけたりしてよく互いの家に行き来して思い出すことも出来ないようなくだらないお喋りや人形遊びなどは頻繁にしていた。しかし、始めの頃はぼんやりとしていた友達と呼ぶべきか分からない女の子たちは、次第に鮮明になっていく。それを世間では打ち解ける、というらしい。私はそうは思わない。打ち解ける? 冗談でしょ。段々と悪が、君の悪い本性が、露呈してくるだけ。
生来持ち合わせている性質によるものもあるが、とにかく過敏だった。指先で触れるだけでゾワゾワと這い寄ってくる感覚を、他の小学生たちより何倍も早く感知していた。しかし、それを理解出来るだけの知能を持ち合わせていなかった。馬鹿で愚鈍な子供だった私は、気味の悪い女の子たちとサイズの合わない革靴を履いたまま遊んでいたのである。
今でこそ口から出任せばかり出せるような人間にできあがっているものの、当時子供であった私は、本当に考える、正確に言えば考えて行動をするということが出来なかった。女の子が日々切磋琢磨して磨いている対人スキル、長い物に巻かれろ精神は愚鈍な私には理解出来るほど簡単なものではなかった。苛められるにしても、なぜ苛められているのか、自分と他の子がどう違うのか、また皆と違うことが学校生活を送る際に障害となってくるということ。これら全てを頭で理解していなくとも、普通の女の子たちは日々の努力の賜により熟知しているのだ。「有ちゃんって馬鹿なんだね」私と同じようにのけ者扱いを受けていた子にこう言われたことを、今でもはっきりと覚えている。私は阿呆のような顔をしていた。何も理解出来なかった。馬鹿と呼ばれたことに対し怒りや惨めさを感じることも無い、本物の阿呆であった。
「有ちゃんは、本当に醜いねぇ」
母親にそう言われても何も思わなかった。それが傷付くべきことなのだと気が付いていなかったのだ。母は四つ下の弟を溺愛していて、欲望のままに与えるだけ物を与え尽くした失敗作の豚を「デブ」「醜い」「どうしてあなただけ違うの?」と笑っていた。しかし、悪意は無かった。純粋にそう思っていただけなのである。なので私はそれが普通なのだと、母が自分より弟を優先することも姉だからと我慢を強いられても包丁を突きつけられてもフライパンで殴られても弟がやっていいことでも自分はいけないのだとそう信じていた。
馬鹿であれ。父も母も親戚も、全員がそう望んでいた。固定概念とは恐ろしい。独裁者でありたい愚かな父にすり寄り、犬猫のように子供を可愛がる母に纏わり付き、なぜか自分を疎んじている女の子たちを途方に暮れた目で見つめていた。
私は、本当に根っこの部分は白痴かもしれないけれど、兎にも角にも、幼い頃はただの白痴であった。
中学生辺りから、私は変わっていった。正確に言うと、中学受験の為に通っていた学習塾に通いだしてから、大いなる変化を遂げたのだ。
学習塾の時代を練習期間とする。この練習期間は愚鈍で物もろくに話せない虫けらから脱却するための試みを、数年に渡り繰り返していた期間である。
最初の一年はただ見ているだけだった。私は虫けらのようにジッとしているだけだったので、やることと言えば観察することしかない。よく勘違いされるが、私は他人に興味の無いが故に石のように自分の机から離れずに何かに没頭しているような性格ではなかった。ただ輪に加わる能力が無かっただけのことである。
小学校の方でも同様に、どういう子が輪の中心にいて、猛威を振るっているのか。それは良く実感出来た。自分を執拗に苛めてくる子を見ていればいいのだ。なので、ある意味では一番良く体感出来る立ち位置に私は存在していた。
虫けらである底辺に位置する私が変身を遂げる為には極端で無くてはならなかった。本当に立ち回りのいい、一番得を得やすい子の真似が出来るのならば底辺にいることなど端から無い。
絶対に変わる。脱却してやる、と、特にはっきりとそう思っていた訳ではない。ただぼんやりと「この教室で私は浮いているな」と、齢一〇にして、ようやく理解出来たのだ。
しかし馬鹿は馬鹿なりにも小学校の方はもう無理だろうとは悟っていた。年数が違うし、数が多い。私はこういう人間なのだと思わせるのには、塾の方が圧倒的に容易だった。
事実、私は上手く変わっていった。物事をズケズケとはっきり言う子になった。大きな声で笑う子になった。派手な服装をしている子になった。
変わるためにまず、入塾して一年後に入ってきたMちゃんという女の子に目を付けた。彼女は人懐こかったので、暗くぼーっとしている私にも気兼ねなく声を掛けてくれたので、私はその手を掴み、ステップアップへの踏み台として使おうと決心したのである。
彼女Mちゃんと仲良くすることで、友達がいる有未ちゃん、をクリアする。一際派手な格好をする以前から、私の服装はそこそこお洒落であったので、そのうち「そのペンケース可愛いね」「その服あそこのブランド?」などとぼちぼち話しかけられるようになった。第二段階の人並みに目立つお洒落な有未ちゃん、は楽に乗り越えられた。
こうして女子の基盤を作り、そこから私は次の段階として男子にも手を掛けた。
私のビジョンの中に、輪の中心にいる子というのは女子だけでなく男子にもはっきりと物を申す、というものがあったのだ。男子は女子よりも簡単だった。漫画やゲームなど本来私が得意としている分野は男子が好んでいるので、会話には困らなかったし、馬鹿であれという固定概念によって気兼ねなく「デブ」「ブス」と呼べる存在として貴重だったのだ。
後々男性恐怖症を引き起こす切っ掛けになるとはつゆ知らず、私はブスデブ死ねと呼ばれながらも、ニコニコとしていた。暴言を吐かれても嬉しい時期だった。小学校では既に男子から話しかけられることは無かったし、女子からも腫れ物扱いを受けていたのだ。
Mちゃんとは違うクラスになったので自然と距離が離れていった。別段悪いわけでもなかったが、一時期何故かMちゃんに嫌われていたために、私は他の友達を探した。そして出来たのがYちゃんという子である。Yちゃんは始め、男子とペラペラ話す私に敵意を抱いていた。Yちゃんはしたたかで小学生にして女性である自分というものを意識しており、幼子のように分け隔て無く突っ込んでいく私が気にくわなかったのだと言う。
Yちゃんは私のペンをよく盗んだ。盗んだ、といっても、いたずらのようなもので、わざとらしく睨み付けながらペンを胸に抱いていたので、なんだか面白い人だと私はYちゃんが段々好きになっていた。この塾で、始めてそう思えた人物だった。Mちゃんも嫌いでは無かったが、Yちゃんは自らの意志で友達になろうと決めたのだった。
極端に変わった為に距離感が分からず、私はそのままストレートに「なぜYちゃんは私のペンを盗んだり睨み付けたりするの?」と訊いた。後ろにいた男子がぎょっとした顔をしていたのを覚えている。
Yちゃんは答えなかった。ただ睨み付けるだけだった。でもその睨み付ける行為そのものがなんだか女性らしくて、可愛いように思えた。Yちゃんは別段可愛いわけでも美人なわけでもなかったが何となく魅力のある子だった。
Yちゃんはちっとも答えにならない答えを口にしたり、それでも突っかかってくる私にやけになったのかどんどんあからさまな意地悪をしてくるようになった。しかしそれすら私には面白く感じられたし、Yちゃんの意地悪は悪意が無かったので嫌いじゃなかった。
「有未ちゃんってすごいね」
一週間ほどして、Yちゃんはやっと折れた。自分が盗んだペンを自ら戻しに来たYちゃんは他の女の子同様に「この筆箱可愛いね」と微笑んだ。小学生の女子の間では「この筆箱可愛いね」と言う言葉は受け入れる姿勢そのものか、あるいは自分より可愛い小物を持っていることに対しての怒りを込めた牽制なのである。もちろんYちゃんは前者だった。この塾には後者の意味合いを含んだ可愛いを言ってくる人間はいない。小学校と違うのは受験を志す共通意識だけでなく、金銭面でのゆとりも大きく違っていた。
その後、晴れてYちゃんに気に入られた私は常にYちゃんと遊んでいた。勉強もそこそこに、塾の前で何本もの缶コーヒーを開けながら語り合った。Yちゃんは学校で苛められていたらしく、またそういった自分の身の上話をよく私に打ち明けていた。今ではそういった打ち明け話をされると一気に警戒心を強めてシャットダウンしてしまうけれど、当時小学生だった私は憧れの秘密のお話を、Yちゃんが提供してくれたことに激しく感動していた。小学校では常に秘密のお話からは排除されていたので、これが始めての共有の秘密だった。本当に心地よかった。あの、自分は必要とされているんだという感覚は、今でも鮮明に覚えている。きっと幼かったからそのまま真空保存されてしまったのだろうな。そういう勘違いが、一瞬の刹那的な思い込みが、今でも私を苦しめているというのに。
Yちゃんとは好きな男の子さえ共有していたし、よく恋愛の話をしていた。そして仮想敵までもがおそろいで、共通の友達も仲良く半分こしていた。
共通の友達を新たに作るに当たって、私は少々懸念していることがあった。その子はNちゃんという、西洋と日本とのハーフだかクォーターだかしらないがとにかく外人っぽい子だった。その子は私たちより勉強が出来ず、加えて塾に入った年月も短かった。その点では新たな共通の物としての条件はクリアしていたけれど、私とのキャラが被っていたのだ。バランスが取れないので、私がより過激になるしかなかったが、これ以上何をすればいいのか分からなかった。
結局いつの間にかYちゃんに連れられてNちゃんと友達になり、私たちは二人から三人へと変わっていった。懸念したものの、意外にも三人での関係は良好に築かれていき、ムカつく男子や女子にちょっかいを掛けたりしては無邪気に笑っていた。無邪気と言っても、内心、これは悪いことなんだろうな、ということぐらいはちゃんと把握していた。
このことは私の人生において、最大の悪行と言ってもいいだろう。把握していたにも関わらず、私はそのいじめと呼んでいいのか甚だ難しいレベルの境界線を、大いに楽しんでいたのだ。かつてその立場に居た自分を壊す。壁をぶち破って新しい私になるのだと、私はかつて自分をさげすんでいた女子や男子を笑いながら塾から追いやった。
その女子や男子たちは、虫けらだった頃には私に見向きもせず、それどころか蔑みの対象として時折苦々しい目線を投げかけていたにも関わらず、私が変わってからと言うもの、旧知の友人であるかのように振る舞っていた。
私はそれを受け入れた。何事も無いかのように振る舞った。しかし、根っこの部分ではきちんと覚えていたし、根に持っていたように思える。ヒエラルキーが逆転した際、全ての選択が私に委ねられた。その恨みの対象を、私は突っぱねることなどいとも簡単出来た。
まずNちゃんに「×ちゃんってウザいよね。性格すごいキツいし、この前なんか背中思い切り叩かれたんだよ」という風に何気なく零す。×ちゃんとは虫けらだった私のことをはっきりと嫌悪していた数人のうちの一人だった。眼鏡を掛けた長身で、陰気そうな雰囲気と辛辣な口調が特徴的だった。
Yちゃんは一瞬きょとんとした顔をした。私の言葉を理解するのには時間が必要だったのだ。まさか、いつも笑っている私がそんなこと言うはずはないのだから。
数秒後、Yちゃんは「あー」と間延びした返事をした。
「私も×って嫌いなんだよね。有未ちゃんもそう思ってたんだ」
ああかかった。私はほくそ笑んだ。
その笑顔はYちゃんや他の人から見れば人当たりの良い、悪いことなんてちっとも思ってない、といった顔立ちだった。この顔立ちのお陰で得したこともあれば逆に損を被ったこともあるが、あの塾にいた時には大いに役だった。というより、この顔のお陰であそこまで這い上がれたのだと今では思う。
×の陰気臭い顔立ちと、私の人当たりの良い顔とでは、比べものにならないのだ。人当たりの良い善人面をした私の言うことは正当化されやすい。こんなちっぽけな苛め紛いな行為でさえ、私たちの中では正義だった。
×はすぐに追放された。私が少し距離を置いた物言いをすれば、YちゃんもNちゃんも、そして教室の誰もがそれと同様のことをした。ただ、Mちゃんだけは何が起こっているのがいまいち把握出来ていないようだった。ここで×はMちゃんの善良さにつけ込めば良かったものの、×はMちゃんを影で悪く言っていたので、プライドが許さなかったのだろう、そうすることは×が教室から消えてしまうまで無かった。×はすぐに塾に来なくなった。受験も間近になった時期だったし、それが妥当だと言えるだろう。
×は受験した学校全てに落ちたのだと聞いたが、ほんの少し良心を痛めたのはその話を聞いた時では無く、違うクラスにいた×の友達の非難がましい目線に気が付いた時だった。それは当然のことながら受験が終わった後であるし、もう塾に来なくても良いと分かっていた私はその罪悪感をすぐに忘れた。
×と同様に追いやった数人もほとんどが受験に失敗した。罪悪感と共に、ざまあみろ、という子供じみた復讐心が満たされた。しかし、数人を除いて一人だけ少し離れた地域の大学までのエスカレーター校に受かった男子はその後私に恨みを抱いてのことか(当たり前だが)最寄り駅で数人の友人を率いて待ち伏せをしたり追い回したりなどと少しやっかいなことになったのは嫌な思い出である。そいつはある程度までは利用価値があると見て仲良くしていたのだが、いつしか調子に乗るようになり私だけではなくYちゃん、そして気が付けばクラスほとんどの人間の反感を買ってしまったので火が付いたように追い込みが連鎖していったので正直恨まれても仕方無いかな、くらいには思っている。
また、私は恋愛においても発展を遂げようともくろんでいた。といっても本当に恋愛をしようと思ったわけではない。周囲から『異性と親密な有未ちゃん』という図式が成り立てばいいという少々都合のよろしい思惑だった。
塾から追いやった数人の内の一人にHという男がいた。こいつのことは意図的に男子ではなく“男”と呼ぶことにする。追放以来一度も顔を合わせていないが、こいつは小学生にしてはかなり軽率な男で、今思い返してみてもかなり不愉快な男であった。
虫けらだった頃、私はHが苦手であった。Hはやはり侮蔑の眼差しを私に投げかけていたし、Hのような人間はそもそも関わったことが無くどう接したら良いのか分からなかった。
しかし、変わるためには極端でなくてはならない私には同じような極端である“材料”が必要だったので、こいつを利用してやらない手はないと密かに近づく決意をした。
女子との交流もそこそこに、私はこの女好き(これ以外にどう言い表したいいか分からない)の男のいる教室にわざわざ訪れ、かなりの時間を費やした。男子の好き好む話題に尽きることはないし、馬鹿と呼ばれたって怒らないし、何より男子と話すのが恥ずかしいやら居心地悪いと感じる時期であろうに私はちっともそういう感情を持ち合わせていなかった。むしろ嬉々として男子の輪に加わっていったし、それについての女子のやっかみさえが心地よかった。ああ私はあんたたちに出来ないことをやっているのよ、という優越感は本来ならもう少し成熟してから味わうものらしいが、恥ずかしながら私は当時から既に存分に味わっていた。Hのことを女好きだなんて軽蔑する資格すら無いのだ。
しかし私には男好き、Hには女好きという子供らしからぬ免罪符があるわけだけれど、Hは、それに加えて“彼女”というものがあった。私はその彼女である○ちゃんとほとんど面識が無かった。彼女は私やHと違って頭の良いクラスにいたのだ。私は馬鹿だったので馬鹿としか交流出来なかったが、この塾には頭の良い生徒が集まるクラスもあった。Hと○ちゃんはどういう訳か付き合っていた。私はそれをもちろん知っていたし、むしろ知っていたからこそHにつけ込もうと思ったのだ。
Hを懐柔するのは容易だった。しかし目的は○ちゃんからHを奪うことでは無い。『Hと仲良くする私に嫉妬をする○ちゃん』が欲しかっただけである。頭の良い○ちゃんは私にとって別の次元の人間だったが、どうやら少々嫉妬深い面があると噂で知った私は、わざわざHとは距離を縮め親しげにした。音楽プレーヤーをあいだに挟みイヤホンを片方づつ嵌めて物理的にも距離を近付けたり、夜遅くまで塾に居残っては勉強そっちのけでうわごとのような恋愛話をしたりなどと様々な恋愛関係の真似事のようなことをしたが、一貫して私は彼を好きだとかそういうニュアンスを含んだ態度は取らなかった。ちっともHのことなど好きでは無かったのだ。男好きとは言え、Hのような軽薄な男はまっぴらごめんだと内心では吐き捨ててさえいた気がする。
案の定○ちゃんには相当な嫉妬の念を抱かせることに成功した。彼女は賢いのか馬鹿なのかよく分からないが私に無闇に当たり散らすということはせず、彼氏であるHに嫌み程度のことを漏らす程度の行動までしかしなかった。しかし教室ではこれ見よがしにすすり泣いていたらしい。私はそれだけで相当ご機嫌だった。Hも機嫌が良く、きっと彼女は自分の為に泣いてくれるし言い寄ってくる(とHは思い込んでいたのだ)女子はいるしでこの上なく幸せだったのだろう。
この勘違いが後々Hを苦しめることになると、彼は一向に気付くことは無かった。つくづく軽薄な男だった。私は利用する、と決め込んだにも関わらず、段々とエスカレートするHの態度に内心気味が悪くなっていた。どうして色恋に過剰に溺れる人間はここまで気持ち悪いのだろう。きっと、その汚らしい欲望を露悪な本性丸出しで押しつけてくるからだと今では思う。私の服を盗んでわざとらしくにたにたと挑発したり、大声で馴れ馴れしく名前を呼んだり……そう、言うなれば『俺の女』という感覚だった。ああ思い出しただけでも気味が悪い。私が誰かの物になどなる筈が無いのに。Hに対して、その軽蔑すべき性質につけ込んだという点では落ち度はあるものの一度たりとも好意を持ったことなど無かったのに。
もうダメだ。確信した、というよりも、切り捨てざるを得なかった。これ以上Hと関わると私の立場が崩れてしまう。
私がHを切り捨てられたのは紛うこと無く好意を抱いていなかったからだ。罪悪感は人並みに覚えたけれどそれが人格に影響を及ぼすことなど無かったし、それによってヒエラルキーが崩れることも無かった。私はHが傷付こうが○ちゃんが泣こうがどうでも良かった。何よりも自分の築き上げ這い上がったあの立場だけしか頭に無かったのだ。
Hが○ちゃんに別れを切り出したと聞いたのは○ちゃんと同じクラスの男子からだった。特別親しいわけじゃ無いその男子が私に話しかけてきた瞬間、ああこれは潮時だ、と感じ取ったのはその男子の話しぶりから匂う嫌疑だった。私の立場が危うくなる。そう確信した私は「ええ、本当!?」と人の良さそうな顔を歪めた。
「お前、Hのこと好きなの?」
反吐が出そうとはこのことかと眉を歪めた。もう○ちゃんを嫉妬させる必要は無いので嫌悪感を丸出しにした私を疑う者はいない。「まさか」小学生が単純で良かったと今でも思う。もう少し年齢を重ねれば『恋人がいる男を狙う女』が存在することを知識として仕入れてくるのできっと私の思惑はバレてしまっただろう。しかし、あくまでここには小学生しかいないのだ。私がこんな邪で歪な感情で人間関係を引っかき回していたって、年齢的には小学生に変わりはない。
それから私は手順としてまずHに恋人と別れたことを非難した。「なんで別れたの? ○ちゃん泣いてたよ?」こうすることでまずHとの間に好意を挟んでいませんということを把握させようとした。Hは卑下た笑みで「なんというかぁ、性格の不一致ってやつでぇ」と阿呆の一つ覚えのようなドラマで覚えたであろう台詞を口にした。大して悲しそうでも無かったのはもちろん私に乗り換える気でいたからであろう。馬鹿めが、私にその気など1ミリも無いというのに。
その後、私は「最低な男、幻滅した、女の敵」とはっきりとは言わないものの、それを表面上の理由にHから遠ざかった。Hのしたことは紛れも無く事実なので理由としてなり立つし、元々Hの軽薄さには女子生徒のほとんどが感づいていたほどのものだったので一致団結してHに白い目を向けていた。そこに乗っかっていればもう私とHとの関係に着目する人はいなかった。
しばらくの間はHも馴れ馴れしい態度で私に接してきた。物で釣ってこようとさえした。数で囲いこもうと何人もの男子を引き連れてきたこともある。うんざりだった。こいつを利用目的としてでさえ使用することすら無駄だった。
Hをどうにか避けていくにも限度があると頭を抱え込んでいた矢先、幸運なことに私は学力別のクラス分けで上のクラスに上がれたので、私とHの接点はほぼ無くなった。あとは廊下ですれ違うたびに鬱陶しそうに投げやりな目線を投げるだけで終わりである。
Hは六年生に上がる頃よく分からない理由で塾を辞めていった。そして受験にも失敗した。その後のことは全く知らない。興味すら無いし、知り得る手段もない。
○ちゃんは元々勉強の出来るクラスにいたので難関校にも無事受かることが出来た。しかしながら○ちゃんは別れを切り出されてもなお塾を辞めていったHが好きなのだ、と聞いた時「この人は勉強は出来るけど馬鹿な人なんじゃないか」と元凶であるにも関わらず他人事のように思ってしまった。
Hに対する罪の意識はほとんど芽生えなかった。Hどころか○ちゃんや×ちゃん、そして中学に上がってまで私に執着していたあの男子にさえも、罪悪感というものは不思議と芽生えなかった。それどころかその人たちが墜落していく様を、愉快に思っていたように思う。私の中にある拭い切れない復讐心。一度点されれば二度とは消えぬ蝋燭のようなそれはメラメラと燃え続け、かつて私を蔑んだそいつらを害の無さそうな笑顔で突き落としていく。私にとってそれは最大の昇華行為だった。
「あいつらは私を馬鹿にしたから何したっていいんだ」
それは間違っていると常識で考えれば分かるけれど、悪の根源である種は弾け飛び根付いたものは根を張って私の細部にまで届き渡っている。悪いことを悪いと思えないのはきっとその種から生えた根っこが脳みそや心臓まで伸びきって麻痺させているからじゃないだろうか。
「岡田、どうしたの」
私に罪悪感を植え付けることが出来たのは二人だけだった。一人はMちゃんで、彼女は根っからの善人だったのもありこの子がいなければヒエラルキーの上位に立てなかったのでかなり感謝している。
「え? な、なに?」
もう一人は、Sという少し変わった男子だった。変わったというより、変にマセておらず、言ってしまえばスレていない純粋な少年だった。とりわけ顔立ちが整っているわけではなく……というよりはっきりいって格好良くは無かった。しかし、良い奴だった。頭も良かったが入塾した時期がかなり遅かった為にほとんどが私と同じクラスで過ごしていた。しかし同じ授業を受けているなか子供ながらに「ああ、こいつと私は頭の出来が違うんだな」とはっきりと理解していた。
頭はもちろんのこと、性格も180度違う。
このSは私のように下心と計算を含んだ上で異性と親しげに接する、というわけではなく、本当に誰とでも分け隔て無く接することが出来るような人間だった。
「え、なんか、ぼーっとしてなかった? 疲れてる?」
「あ、うん……お腹空いた、かな」
極端に性格を変化させるには相応の疲労が伴うので、きっとそれが顔にはっきりと出ていたのだろう。それに、小学生が夜に家族とでは無く教室で夕食を取るというのは結構なストレスだったように思う。「お前良く食うなぁ」Sは屈託無く笑った。そして「卵焼き食べる?」と自分の弁当箱を箸で指した。
「ええ、いいの」
今でもそうだが私はもらい物を断ることが余り得意では無い。特に食べ物なんかは滅多なことでは断ってはいけないとさえ思い込んでいる。正直言って私は弁当が嫌いだった。冷たい物が苦手なのだ。それに弁当は暖かい食べ物が時間が経って冷たくなる、これが美味しいわけがない。
「え、いいよ別に。俺の弁当多いもん」
しかし断るなんてこと出来ない、そう思った私は「あ、いいの? じゃあ貰おうかな」なんて愛想の良い笑顔で答えた。Sは何気なく、本当に何とも思っていないのだろうが、ひょいと自分の箸で私の弁当箱に卵焼きを差し入れた。私はなぜかかっかと顔が赤くなっていた。あれだけ計算上とは言え異性とたくさん接したってちっとも恥ずかしくも無かったのに、私ははっきりと「ああ男子なのにこんなことしていいのかな」と年相応なのか良く分からない羞恥心を抱いていた。しかしSはそんな私の心情など知る由も無く「俺ん家のたまご、だし巻きだから美味しいよ」。ああ感想を求められているな、とひしひしと感じながら食べた卵焼きの味は、ちっとも覚えていない。極度に緊張していたことだけを覚えている。
Sはなぜだか毎回卵焼きをくれるようになった。よっぽどひもじそうに見えたのだろうか。私は、正直言って恥ずかしさでいっぱいだった。しかしSの純粋な好意を突っぱねることは出来なかったので、自分の冷凍食品の詰め合わせからも一つ選んでSにあげていた。つまりはおかず交換へと発展していったのである。
「ごめん、うちの冷凍で」
「別に気にしてないよ」
緊張していたのは最初の一回ではなくしばらく続いたおかず交換にまで至っていた。実を言うと私はあの卵焼きの件を機に妙にSを意識してしまっていたので、Sとの会話などがほとんど抜け落ちている状態である。結構会話したような気もするけど、弁当以外のことは一度だけ本の貸し借りをしたこととSが入学することになる学校の資料を一緒に見たということくらいしか記憶に残っていない。きっと、自分のなかで弁当が相当強い印象として残っているのだろう。おかず交換をいつ止めたかすら覚えていないのは、その後同じクラスの男子に「お前ら最近仲良いな」という何気ない一言が更に強固なものとなってしまったのだからだと思う。
私は恋愛相手としてSを色眼鏡で見たことは無かったが、ただ単純にあの塾のなかで一番好きだったのかもしれない。自分とは、育ちも環境も違うような彼を羨んだこともあったけれど、それさえも嫌みのない好意を前にして流されてしまったように思える。
私は人生で数人全く欠点が無い人間に出会ったが、Sはその内の一人に今でも入っている。卵焼きの味はちっとも覚えていないし何を話していたのかさえも朧気だけれど、彼はこんな私にも普通に接してくれたのだ。
それはほんの少しある良い記憶として残っている。こういう人間もいるのだと知らしめるかのように。
それは私の首を絞めるものだ。完璧なまでに堕ちないよう、宙づりになったまま。もうとうの昔の記憶は慰みにもならない。どうにもならないものを捨てることは私の意志では出来ない。“例外”を受け入れた。信じてしまった。ただそれだけのはなし。
私たちは本来中学受験をするために塾に通っている。YちゃんやNちゃんはどういう心境かは分からないが、余り勉強をしていなかった。
ではいつも一緒になって連んでいる私もそうかと言えば、それは少し違った。彼女たちは第一志望の学校の学力には到底届いておらず、そのことについて塾講師に数度注意されていたが、私は自分の学力に似合った学校を選んでいたので彼女たちのように注意されることはなかった。どこだって良かったのだ、あの小学校の連中と同じところじゃなければ。
しかし私は余り頭の良い方では無かったし不安だったのもあったのでそこそこ勉強をするようになったのは十月くらいだっただろうか。その頃からめきめきと成績が上がっていったように思える。
YちゃんやNちゃんとはやっぱり一緒に遊んでいたが、勉強はしなきゃ彼女たちのようになってしまう、とYちゃんたちをどこか下に見始めていた時期でもあった。それを表に出さないよう気をつけてはいたが、県を跨いでお試し受験なるものに受かった一月辺りからははっきりと私とYちゃんたちに線引きがされたように思える。
結局私は受けた学校全てに合格し、Yちゃんたちはぎりぎりになって滑り止めとして受けた学校に合格した。もうその頃には辛い受験勉強から解放されたと遊び惚けていたので、Yちゃんたちとの間の溝について考える余地など無かった。今考えれば仕方の無いことだと思う。はっきりと、第一志望に合格した人と不合格だった人。この両者の間に何も無いわけが無いのだ。
以前、私はNちゃんとキャラが被っているな、と懸念していた。しかし私とYちゃん、それからNちゃんという関係性のなかで三人の間には私が何かしらのアクションを取らない限り軋轢は生まれなかった。私はYちゃんもNちゃんも好きだったので、出来れば三人で仲良くしていきたいなと思っていた。それは私と二人の間に溝が出来ていたって。
その頃、私は小学校においてもそこそこ平和に過ごせていた時期だった。本当にほんの少しの時期だったけれど、趣味の合う子たちが5、6人くらい集まって私の家で毎週何日も遊んでいた。バレンタインデーも、時間が無くて手作りこそ出来なかったがその子たちと交換してはしゃぎ合っていたと記憶している。
塾の方では、Hの件を除いて、色恋沙汰というものは全くと言って無かった。チョコレートも女の子同士で交換するだけで、男子は特に関与していなかった。私たちも例に漏れず三人でチョコレートを交換し合った。
今ではちょっとした表情の具合さえも厳しくチェックしては「何を企んでいる?」と観察する癖が付いているが、この時の私は、やっぱり、小学生だった。二人がそわそわしていることはしっていた。その、何かを企んでいるような仕草は、まるで私とYちゃんを見ているようで、なんだか不思議な気持ちだったのを覚えている。
しかし私はこのバレンタインデーを大いに楽しんでいたので、特に追求しようとは思わなかった。SやMちゃんとも喋っているうちに、入学に備えた予習授業なんてすぐに過ぎていった。
私はYちゃんたちに声を掛け、外も暗いし早く帰ろうと思っていた。Sは自転車通学だったのでさっさと外へ出て行ってしまったし、私も早く家に帰ってご飯を食べたかった。
「え、ちょっと、ちょっと待ってて!」
二人はそう言って、急いで外へ出て行ってしまった。なんだろう、とぽかんとしていると、Mちゃんが「有未ちゃん、あれ、あれじゃない?」とのんびりとした口調で言った。
「あれって?」
「あれだよ、チョコだよ」
「チョコ……」
良く意味が分かっていない私にMちゃんは「もう、チョコだよ。チョコ渡しに行ったんじゃない?」と窓の外を指指した。
「ああ……」
外には自転車に跨がったSと、それに詰め寄っているYちゃんとNちゃんがいた。もちろんのことだが、会話の内容など聞こえてくる筈はない。けれど私は、ゾワゾワと沸き立つ悪寒を止めることは出来なかった。鞄を持って教室を飛び出す。Sは靴を履いている間に行ってしまったらしく、外に出るとYちゃんとNちゃんが居心地悪そうにこちらをちらりと一瞥しては顔を見合わせていた。「なにやってたの」さっと出てきた言葉はやけに冷静だった。
YちゃんとNちゃんはへらへらと笑って「やだ」「こわぁい」と誤魔化そうとしていたが、私が真顔で押し黙ると、すぐに口を割った。「Sに有未ちゃんからとしてチョコレートをあげた」。私の顔はきっと真っ青だったと思う。いつもの饒舌も、その時ばかりは役に立たなかった。言葉は出なかった。今だったらマシンガンのように罵れたと思う。しかし、やっぱり私は、小学生だった。子供だった。頭が真っ白になっていたのだ。
「ごめんね、有未ちゃんって、Sのこと好きなのかなって」
「もういいよ」
私はそれだけ言ってまた塾の中へと戻って行った。二人は特に止めようとはしなかった。ただ二人で顔を見合わせて、困ったようにしているだけだった。クリスマスにも雪が降っていたけれど、その年は、バレンタインデーにすら白雪が舞っているような年だった。
その後のことを、私は良く覚えていない。
Sにチョコレートが渡ったのかどうか聞く気にもなれず、私は自分を射貫く二つの視線にジッと耐えていた。時折聞こえる笑い声が背中に降りかかっても、Mちゃんや他の生徒たちと話して紛らわした。Sは普通にしてくれたので、私も普通にするように努めた。相変わらず会話の内容は覚えていないけれど、Mちゃんと三人で笑っていたような気がする。
YちゃんとNちゃんはそれからずっとふたりで過ごしていた。私とは一度も話すことも無く、塾も終わりを迎えた。Yちゃんとは一度すれ違ったけれど、目を逸らされたのでそのまま無視を決め込んだし、Nちゃんはどうやら私の悪口を進学先で吹聴しているらしい。進学先で私を知っている人なんていないのに。しかし、こうして噂が広まってくるあたり女子のネットワークというものは侮れない。
結局あの塾に通っていた生徒たちとは誰とも連絡を取っていない。
そもそも連絡を取る手段すら無いので、どうしようもないのだ。
変わることによって何を得ようとしたのだろう。私は今でも分からない。自分は変わったのか。変わって何か起こったことがあるのだろうか。
虫けらだった私が欲していたもの。
それは、未だに、手が届かない。
(長い夢)
中学に入学する際、私はお受験塾での出来事で胸がいっぱいだった。それはYやNに対する未練や、また気分と私情で追いやった生徒たちに対する罪悪感でもない。
失敗は許されない。ただただ、私は自分のことだけを考えていた。入念に化粧を施し、華美なドレスを身にまとい、ジッと鏡を睨みつけている一匹の醜い女の姿である。
私の通っていた女子高は極めて厳格な校則を強いていた。今でもそれは心の中に残っていて、いつ怒鳴られるか、いつ虐げられるか、いつ嘲笑されるか……そんなことばかりが目上の人間と出会うとき、はたまた電車に乗ったときにびくびくとしている自分がいる。
「どこが本命?」
入学直後、半分ほどのお受験組はこの話題でほとんど成り立っていたようなものだった。というのも、このE女学園はそこまで偏差値の高くない学校で、ほとんどの受験者は強豪校の滑り止めとして選んでいて、それに落っこちて来たからここにいるのである。「ここが本命だよ」バカ正直にそう答えると、へえ、と短い返事が返ってきた。すーっと目の輝きが、違うものとなっていく。大抵この返事をすると皆こうなった。強豪校を受験したかそうでないかでは、どうやら彼女たちのなかではそれほどにも大きなものらしい。全員落ちたにもかかわらず、妙にプライドだけは高いのだ。
もう半分の持ち上がり組は、既に元々の仲の良い生徒を見つけて固まり、何かにつけては緊張した面持ちの受験組をせっついてはクスクス笑っていた。当初私は彼女たちの排他的な態度がひどく鼻に付き、同時に恐れを抱いていた。かつての同級生に似ている。そう直感で判断した。
以前の塾では、特に私が目立つ際に何らかの反感を受けたことはなかった。しかし、ここは学外ではなく『学校』なのだ。下手をすれば逃げられない状況下で毎日を過ごさなくてはいけなくなる。
だいぶ慎重になりながら、手探りでどんな性格が受けるだろうかということを模索していた。どうやらこのクラスは問題児が多いらしく、窓際の私の席から遠く離れた廊下側の生徒たちがその筆頭らしい。
今回は堅実に行こう。そう決め、一応会う人会う人には気さくに、しかしでしゃばり過ぎぬように努めて交流した。おかげで数人の友達はできた。名前は分からないけど。忘れちゃったけど。
受験組と持ち上がり組とのあいだにはもう一つ溝がある。それはコミニュケーションだ。
一度、教室に入ったときに片方がもう片方の膝の上にのり首に手を回し、濃密な口づけを交わしていたときには心臓が悪い意味で高鳴った。これはまあひどい例ではあるが、まず、公立校出身である平凡な育ちな私にとって、日常茶飯事手をつなぎ、抱きつき、スカートめくりやらいたずらやらをする、という習慣はなかった。なかった上に、そんなことがこの世の中で繰り広げられていたなんて、とかなりのショックを受けたことを今でも覚えている。
(ここどこそこどこわたしはだあれ)
「それでね、ここに手を当てると、病気が治るんだよ」
この焼き肉店はいつからマッサージ店になったのだろう。今すれ違ったサラリーマン、絶対そう思っただろうな。私が男だったらもっとヤバいことになってただろうけど、幸か不幸か私は女なのでそこらへんは大丈夫。
茂子はもう十分以上は私の背中に何か良く知らないパワーを送り続けている。いい加減疲れたと顔を上げようとすると「それじゃ効果無いよ!」となおも俯せでいることを強要される。
私と茂子は中学からの友人だ。高校も一緒だったので一番仲の良い友達だったし、卒業式の後も一緒にこっそり寄り道をして晩ご飯を食べて帰ったんだ。そんな茂子に久しぶりに会えると、大学を辞めて以来ほとんど誰とも会っていなかったのもあり気合いを入れて化粧を施し、美容院に行ってちゃんとトリートメントをしてもらって、お気に入りだった服屋にもおよそ一年振りくらいに入って服を新調した。
ミントグリーンのシフォンスカートはこんなことの為に履いてきたのだろうか。
茂子はどんな表情をしているのだろう。私はかれこれずっと俯せなのでちっとも分からない。ただ手を背中にかざしているだけで病気が治るということを聞かされたのは今から二十分程前で、茂子が「大事な話がある」と言った際に私は「まさか宗教とかじゃないよね?」と笑いながら話していたのだが、まさか本当に宗教だったのとは微塵にも思わなかった。思っていなかったからこそ言えたのだけれど。
そんな私にもお構いなしに「これは手かざしって言ってね、ゆうちゃんの身体にある悪い気を放出出来るんだよ。これで白血病も治った人もいるんだって。あ、勘違いしないでね、勧誘してるわけじゃないから。ちょっとマッサージ受けるみたいに、ね? いいよね、わたしゆうちゃんに試してあげたいの。練習だと思ってお願い」と、断れる余地が無いことを盾に推し進めてきたので、私は人の良い顔と理解のありそうな声色で「いいよ」と答えてしまった。そうして、今にいたる。
よく分からない呪文を唱えたあと、茂子はいかに自分の入っている宗教団体が素晴らしいかを私の適当な相槌を無しにしてもずっと語っていた。どうやら両親も筋金入りの信者であるらしく、小さい頃から洗礼を受けていたらしい。
「でも、今まで全然興味なくってぇ。高校生になってからかな? 彼氏がそこで出来たし、皆良い人で楽しいし、ほんと暖かい家族!って感じで~。だから、ゆうちゃんも遊びに来てよ」
「は、いや、だめでしょ? 私、興味な」
「大丈夫! 勧誘とかじゃないから! 遊びに来るだけでいいから! ね!」
背中越しに強い圧力を感じる。そんな、勧誘勧誘言わないでよ。目からじわりと涙が滲む。こちとら久しぶりに他人と話すんだぞ。友達と会うの久しぶりなんだぞ。あんたと会うの一年ぶりだよね、なんで、どうしていきなりこんな話になるの。
結局私は宗教団体へ一度遊びに行くという名目で勧誘されに行くことになった。茂子は今までに無いような喜びようを見せた。「この日ね! 楽しみにしてるから!」。その約束を取り付けると、茂子は荷物をまとめ始めた。
「え、もう行くの?」
「ああ、うん。もう夜も遅いしね。約束あるし……あ、明日って空いてる? 大学で講演した時に興味を持ってくれた人たちがいてね、ボランティア一緒にするんだ。一緒にどう? 楽しいよ?」
「あ、う、ううん。明日は、ちょっと……」
「あーそうなの。じゃあ16日にね、楽しみにしてるよ。××駅まで来てね。あ、そういえば13日誕生日なんだね、おめでとう。そうだ、皆でお祝いしない!? 皆優しくて楽しい人ばかりだよ、ケーキとか買ってさ、あ、そうだ私の彼氏に会わせてあげるよ! きっとみんな喜ぶと思うよ! どう? 当日、空いてるよね? 良い考えじゃない?」
その後のことは余り記憶に残っていない。私はかなりの量の酒をあおっていたし、酔っ払いじゃないけど、酷く気分が悪かった。
いきなり明るくなった茂子と別れたあと、なんとか長い帰路を渡り家へと辿り着く。家は散らかっていた。母はどこかへ遊びに行っているようだ。犬にご飯はやったようなので手洗いをして自室へと戻る。隣の弟の部屋からはジャラジャラと麻雀牌の混じり合う音と煙草の匂い、しゃがれた低い笑い声が一斉に耳に届いた。
友達かな。
壁にそっと耳を当てる。楽しそうな笑い声。それは私にとって不快でしかない。
あれ。
一つの疑問がぽかりと浮かぶ。水死体。ぐちゃぐちゃに溶けてパンパンに膨らんだそれ。見て見ぬふりをしてきたそれ。
あれ、あれ、あれれ~~~~~~~~??????????
おかしいな。
あれだけ従事してきたのに、嫌われないようにするの。
「私って友達いたことあったっけ」
◇
もういっそ死んでしまおうか。
頭は痛いしニキビ出来るし生理前で情緒不安定だし頭痛いし。
こんなちっぽけな部屋で私は胎児のようにうずくまり、どうしようも無い現実に拒絶反応を起こしている。嫌だ嫌だ、もう嫌だ。
ああああああああもう頭が痛い。痛い。痛い。不愉快だ。なんでこんなに頭が痛いの? 子供なんて要らないんだから子宮も卵巣も女性ホルモンも全て全て全て切除してこの痛みを無くしたい。
なんで私はそもそも生きているのだろう。なぜ死なないの。生きてる価値ないよ。大学留年のちに中退で友達ゼロな上にもう十年男と話してないし親はクソだしそもそも私はブスだしデブだし性格悪いしニートだし。ゴミだ。燃えないゴミだ。私はゴミだ。誰かここにゴミがあるので明日の不燃ゴミ置き場に置いておいて下さい。早く私を捨ててこの世から消し去って下さい。お願いだからもう生きたくないので消すか燃やすか捨てるか殺すか潰すか何でもいいので。
頭が痛い。
頭が痛い。
頭が痛いって言ってるじゃん!
誰も答えない。
私はそれに腹を立て、内蔵がぐつぐつ音を立てる。
脚を大きくばたつかせ、安いベッドはぎしぎし鳴った。死にたい。こうしている間にもどこかのホテルで同じように男女がベッドをぎしぎし軋ませていると思うと、全ての指の爪を剥がしてやりたくなるくらい不愉快になる。
私を産んだあの男も女もそうやっていたんだ。畜生、死ねよ。カエルの子はカエルだって言った奴誰だよ。死ねよ違うじゃん。私はカエルでも人間でも無く一体なんなんだ。ウチュウジンか。いやいやただの障害者だよ。メンヘラ。ただのぼっちの人生詰んでるメンヘラ。夢は小説家だけど小説なんて一本も書いたことないうんざりするような奴。生きる価値さえ見いだせないような社会的弱者。
あああああああああもう嫌だああああああああああああああああああああ
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい
死ね死ね死ね死ね死ね死ね全員死ね幸せな奴全員死ね死ね死ね死ね死ね
頭が痛い誰か治してお願いだから嘘じゃない本当に頭が痛いの仮病じゃないから!
ねえ!
『何やってるの?』
おい!
『そんな馬鹿みたいなことやってないでやるべきことやったら?』
おいって!
『全部お前の勘違いなんじゃないのか?』
そこにいる奴!
『お母さんたちを不幸にさせないで』
聞こえてんだろ!
『俺はお前に感謝されるべき存在だ』
聞こえてないふりしてんじゃねーよ!
『あなたは普通の子なんだから、もっとしっかりして』
しっかりしなきゃいけない子が普通なわけないだろ!
『たけちゃんは良い子なのに、なんであんたはそんなに反抗ばかりするの?』
死ねよ!
『この家は幸せだ。不幸だと思っているのはお前だけだ』
クソが!
『私はこいつが一番嫌いだけどね』
お前ら全員殺してやる!
『なんでここにいるの?』
死ね死ね死ね死ね死ね!
『邪魔なんだけど』
死ね死ね死ね死ね死ね!
『どうしてそんな酷いことばかり言うの?』
死ね死ね死ね死ね死ね!
『死にたいだなんて言っちゃダメよ』
死ね死ね死ね死ね死ね!
『なにこれ』
笑うな!
笑うな!
笑うな!
こっち見んな!
死ね!
こっち見んな!
なんで皆私を見るんだよ!
あっち向けよ!
もう見ないでよ!
やめてよ! やめてよ! やめて、やめて、やめろ、しね、やめて、やめ、やめてやめてやめてやめてやめてみないでやめておこらないでやめてやめてはずかしいやめてやめてわらうなやめてやめてやめてがっこういやいきたくないどうしてやめていやいやいやいやいやいやいやいやいっいあいあやいいやいやいいあいあいあいいあやいやいやいやあああああああああああああああおなかいたいあたまもいたいのけびょうじゃないのにひどいひどいひどいよひどいなんでだれもしんじてくれないのどうしてせんせいどうしてわらうのほけんしついきたいのにほけんしつにすんでるっていわないでどうしてわらうのみんながわらうのわたしいなくなりたくてしかたないのにどうしてみんなはわらっているのわからないよひどいよみんなわたしのこといじめてたのしいのねえおかあさんおとうさんここはじごくみたいなばしょなんだよどうしてわかってくれないのどうしてしらないふりをするのどうしてわたしのはなしをちゃんときいてりかいしてくれないのわたしほんとうにあなたたちのこどもなのどうしてそんなひどいことができるのおまえらもいっしょだみんなしねじこくのじゅうにんだわたしをいじめるひていするおかしいやつらだすべておまえらのせいだそうだ私がこんなに可笑しくなったのは全部お前らのせいだ
頭が痛い。除夜の鐘が鳴り響くようにゴンゴンと頭の中が突かれている。疲れてんだ、何もかも。過去が私を、現実が私を、時間が私を、犯している。消えない傷跡は未だ生々しい。薄汚い肉が見える。ズタズタに切り裂かれた心臓の周りにはガラスが散らばっている。私のガラス。私を取り巻くのはガラスだけ。私の世界は孤立している。世界からただ一つ孤立した存在。ガラスで覆われ、そこにはゴミが散らばっている。世界からゴミが贈られる。投げ捨てられる。犯される。利用させる。私はみなさんのサンドバッグです。どうぞご自由にお使い下さい。ボコボコになった私は笑ってる。どうもありがとうございました、またのご利用を。そう言えって言ったのは誰だ? 誰が私を幸せにする。私は幸せ? 幸せなの? 幸せって誰が決めるの? 私を幸せだと言ったのは私以外のみんな。世界が私を幸せだと言っている。ああそっか私はばかでしあわせなこなんだ。だからわらってる。頭がいたい。いつでもわらっている。あたまが痛い。胸がぽっかりとあいたみたいに笑ってる。頭が痛い。ばかだデブだくずだ。あたまがいたい。なんで笑わないの?
ばかでくずででぶでぶたでとろくていきるかちのないわたしをそだててくださりありがとうございます。どうぞばかとよんでくださいどなりちらしてくださいひていしてくださいあざわらってくださいかんじょうのはきだめにしてくださいあなたさまはわたくしめをそだててくださっているおかたなのでわたしなぞじんかくもけんりもなにももちあわせておりませんので
苦しい、苦しい、苦しい。いたいよ、だれか、だれかたすけて
ぽ ちゃん
・
・
・
「ゆうちゃん」
誰かの優しい声で私は目覚める。ゆっくりと、柔らかなベールに包まれたみたいな眠気を帯びながら。
「おかえり、ゆうちゃん」
誰かは私を見ている。その両の目にはしっかり私が映っていて、唇からは私を心配するニュアンスを含んだ声がする。ここは優しい場所。私を受け入れて、励ましてくれる。酷い言葉も、否定の言葉も、あざ笑う声もない。
ああ、私はなんて幸せなんだ。脳みそが叫ぶ。幸せ、幸せ、と。
「私、とぉっても、しあわせなんだから」
幸せなお姫様は王子様の腕の中で眠る。目を瞑っても、優しい温もりは絶えない。
「ねえゆうちゃん」
私たちは目を見合わせる。
「君はどうしてそんなに悲しそうなの」
ここは幸せな場所。こんなにも私は満たされている。
なんでだろう。私にも、分からないよ。
私は誰かの言葉には答えなかった。誰かは答えを強要しないし、答えなかったとしても怒ったりはしないから。
その逞しい腕に抱かれながら彼の心臓の音に耳を傾ける。暖かい、私を包む場所は、ここしかない。
そうして私は夢を見る。あの悪夢、私は悪夢しか見ないから夢なんてだいきらい。眠りたくないと足掻くのに、うとうとする。まどろんでしまう。辛くて苦しくてどうしようもない為す術すら失われている悪夢に誘われる。
ああ、死んでしまうよ。
辛いのに、心地良い、これは、死ぬ感覚ととても似ている。
いやだ、わたしは、まだここにいたい。
眠りたくない。いや、いや。眠り姫は、嫌いなの。
でも、私は眠らなきゃならない。
「おやすみ、ゆうちゃん。また今度」
睡魔は必ず、やってくる。
誰かさんは名無しへと帰っていく。