Ⅱ.森の民
次第にぼんやりと歪んでいた視界が鮮明になってくる。
まず視界に入ってきたのは純白。見たことの無い、真っ白な高い天井。そして、左右に目を走らせると同じく純白に統一された壁。大きな窓から射す日差しが眩しい。背中に感じるやわらかい感触で、アオイは自分がベッドか何かに横になっていることに気がついた。
「……ここは?」
誰にでもなくそう呟く。
「私の家ですよ。体調の方はどうです?」
さっきと同じ声。咄嗟に声がしたほうに視線を移す。そこでやんわりと微笑む男を目にした瞬間、アオイは愕然とした。
無造作に束ねられた髪は土色で、優しくアオイを見据える瞳は真紅。
アオイの住んでいた村では皆が琥珀色の髪と青い瞳を持っていたため、それが常識だと思っていた。
だから、明らかに違う目の前の男を同じ人間だと思うことはアオイには少し難しかった。思わず体を強張らせる。
「お名前を、教えていただけませんか?」
相変わらず穏やかな口調で話しかけてくる彼だが、アオイは警戒心を捨て切れない。
「アオイ」
俯いたままそう口にする。アオイはふと似たような会話を思い出した。
あのときの、リュウとの会話だ。それと同時に脳裏に焼きついているたくさんの残酷な画が頭の中に流れ込む。
――これは全部、事実なんだ。
そう思うと感傷の情が溢れて堪らない。ひとり悲嘆に暮れていたアオイに彼は「ではアオイさん、少しお話しましょう」といつの間に持ってきたのか、温かいミルクを差し出す。
もくもくと湯気の立つミルクを軽く息で冷ますとゆっくりと口に含む。
温かいミルクは冷え切ったアオイの体にはとても有り難いものだった。
「あったかい……」
自然に笑みがこぼれる。ここに来て初めて笑ったアオイを見て安心したのか、よりいっそう笑顔になる彼。
「私はエルガーといいます。傷はまだ痛みますか?」
エルガーの言葉で、アオイは自分の体を見て初めて腕や足……体中に包帯が巻かれて、手当てが丁寧に施されているのに気がついた。
「あの、これは彼方が?」
アオイはなんとなく臆した様子で訊ねる。
「ええ。少しばかり、薬の勉強をしていまして」
自慢するでもなくそう言った彼をアオイはつくづく気遣いの出来る人だと思った。またその一方、見知らぬ人にここまでしてもらっていることに少しばかり心苦しさを感じていた。
「アオイさんはこれからどうするのです?」
彼の問いにアオイは心底困ってしまった。
アオイには帰る家など無い。
自分を迎えてくれる家族も居ない。
知り合いだってもう一人もいない。
アオイの故郷はもう無くなってしまったのだから……。
アオイは自分の村から出たことがなかった。だから、あの村はアオイの全てと言っても他言では無いだろう。
――わたしたちはここから出ることは許されないの。
――“神の掟”だから。
これが今は亡き母の、村のみんなの口癖だった。
“神の掟”
アオイにはなぜそんなものがあるのかすら理解できなかったが、絶対に破ってはいけないものだということだけは十分に理解していた。
『禁忌を破ったものは死をもって償う』
それが村のみんなの自由を縛り付けていた決まり。でも神の掟は絶対に無くてはいけないのだ。
世界が二度と壊れることの無いように。
「アオイさん?」
エルガーの声でアオイは我に返った。
「え?あ、すみません」
アオイは小さく頭を下げると言葉を続ける。
「あの、わたしには帰る家がありません。家族だって知り合いだってもう居ません。だから、これから……」
アオイが言葉に詰まったときだった。
「ここに居なさい」
エルガーが真剣な顔つきで放った言葉は行く当ての無いアオイには唯一の救いの手だった。
エルガーの親切は素直に嬉しかったのだが、アオイはまだ彼を信用できずに居た。明白な理由など無いものの、アオイの中の本能がそう言っているような気がしたのだ。
でも今ここで断りでもしたら、アオイは全く知らない場所で、たった一人で生きていける自信など無かった。
だから、答える。
「はい」と……
太陽に雲がかかり、窓から射す光がまっすぐな強さを少しばかり失ったような気がした。
エルガーはすっかり空になった湯のみを受け取ると、そっと部屋を後にした。
「森の民がまだ生きていたとは。これほど嬉しい誤算はありません」
そう言って怪しい笑みを浮かべていたことなど、アオイは知る由もなかった。