Ⅰ.拾い物
ようやく朝日が顔を出した頃、まるで人気を感じさせない静まり返った野原を一人の男が歩いていた。年は三十くらいだろうか。土色の髪を無造作に束ねている彼の真紅の瞳は、どこか色褪せて見える。
両手で抱えている幾つかの水桶からすると、彼は川へ向かっているのだろう。
広大な野原には建物はおろか、人すら彼以外には見当たらない。そんなところだ。もちろん水道設備など備わっているはずが無い。無論、水は川に頼るしかないのだ。
彼が足を運ぶ先にはこの大陸を二つに分ける大河が悠々と流れている。
その川の岸辺に差し掛かった頃、彼の眼は角ばった岩に引っかかる白い物体を捕らえた。少し距離があるため、それが何なのかは分からなかったが、邪な考えが彼の頭をよぎる。
水ごけがくっついて滑りやすくなっている岩の上を慣れた足取りで進む。
「っ、なんてことだ」
彼はその白い物体の正体を知るなり顔を曇らせた。
そこにあったのは……いや、正確には“居たのは”だ。
――白い衣に身を包んだ少女
何時間も流されたのだろう。彼女の手はひんやりと冷たく、意識は無い。
雪のように白い肌は岩に擦れて小さな切り傷がたくさんできているうえに、泥で汚れてしまっている。
彼はそんな少女を急いで抱きかかえると家路を急いだ。
「死なないでくださいよ」
腕の中でぐったりとする彼女に何度も何度もそう言い聞かせる。
家に着くとすぐに少女の看病に取り掛かる。体中に付着した泥を洗い流し、濡れてしまった衣の代わりに彼女には大きすぎる自分の衣を着せ、そっとベッドに運んだ。
茶色だと思っていた少女の髪は泥がついていた所為でそう見えたらしく、洗い流すと綺麗な琥珀色の髪が姿を現した。
彼はその髪を指で梳くとにやりと妖しい笑みを浮かべた。
「これはいい物を拾ったかもしれません」
そう呟くと丁寧に彼女の傷口に薬を塗り始める。
彼は薬剤師だった。過去に無い新たな薬の開発を志す、薬剤師。
***
「おかあさん、これは何のお肉?」
アオイは目の前に置かれた大きなステーキに目を輝かせた。
「今日は猪肉よ。お隣の小母様から頂いたの」
そう言って上機嫌な母が夕飯の支度を終えた頃――豪快に扉が開けられ、ふわっと石けんのいい香りが少し肌寒い風と共に流れ込んできた。
「ほう。今日の夕飯は豪華じゃないか」
銭湯から帰ってきた父が素早くテーブルに駆け寄る。家族みんなでいつもより少し豪華な食卓を囲んだ。
「猪肉なんて何かめでたいことでもあったのか?」
一番大きな肉を満足そうに頬張りながら父は訊ねる。そんな父に苦笑しながらも母は「ええ」と頷く。
「なんだ? ジェシカちゃんが嫁入りでもしたのか?」
お酒を片手に冗談を言う父にアオイは思わず吹き出してしまった。
父の言っている「ジェシカちゃん」とはアオイにとってお姉ちゃんのような存在だ。小さい頃から隣に住んでいたわけだが、アオイは彼女を女の子らしいなど今まで思ったことが無かった。いつも豪快に笑って、虫取りが大好きで、必ずどこかに絆創膏を貼っている、あのジェシカが結婚などアオイには想像も出来なかったのだ。
だから、母が微笑みながら「ええ。しかもお相手は村長の孫の……なんて名前だったかしら?」なんて言ったときは父と二人で物凄く驚いてしまった。
「ごちそうさま」
心もお腹も十分に満たされて満足したアオイは居間に横になると、夢の世界へと吸い込まれるようにして眠りについた。
それからどれくらい経ったのだろう。
――残酷な音があの惨劇の始まりを告げた。
刀の交わる鈍い音、
村のみんなの悲鳴、
幼い赤子の鳴き声……
二度と、聞きたくない音だった。でもそれは、もう耳から離れてはくれないようだ。両親の死を告げる音……
(ああ、このままだと父さんが、母さんが、殺されてしまう……)
「お母さん!お父さん!!」
必死にそう叫んだときだった。
一瞬にしてアオイの視界が明るくなる。目に刺さるような光の刺激に思わず小さく呻く。
「目が覚めたようですね」
不意にそんな声が聞こえた。とても、優しい声。