プロローグ
ほんのり赤みを帯びた月が妖しげに光を放ち始めたころ。
真夜中とは思えない騒々しさにアオイは目を覚ました。
まだ歪みの残る視界の中、アオイの瞳が一番に捉えたのは慄然たる顔つきで自分を抱きしめる母の姿――じんわりと伝わってくる温かなやさしい体温と微かな震え……。
普段とは明らかに様子が異なる母の姿を目にし、急に不安に駆られて目を閉じるも耳に入ってくるのは惨い音ばかり。
刀の交わる鈍い音、
村のみんなの悲鳴、
幼い赤子の鳴き声……
「お、か……さん?」
今にも消えてしまいそうな細い声で、小さな身体を力なく震わせる。
アオイもようやく悟ったのだ。
自分の置かれている危険な状況を。
自分たちの村が襲撃を受けているという事実を……。
アオイが母の腕の中で茫然としている間にも着々と残酷な音は勢いを失っていく。それに比例して村から世紀が消えていったのは明確なことだった。
「これで全部か?」
「いや、まだ一軒残ってるぜ」
「行くか」
「おう!」
そんな声が聞こえた直後だった。父が刀を構えている正面の扉が大きな音を立てて強引に蹴り飛ばされる。
全身に返り血を浴びた二人の剣士は口元をにやりと吊り上げると、まるで獣のような眼で刀を振るった。
一瞬、月明かりを浴びた二つの刀がぎらりと光り、見慣れた父の衣が瞬く間に赤く染められていく。
「ア、オイ……」
ぐったりと地べたに倒れこんだ父はかすれた声で娘の名を口にする。これが父の最期だった。
それと同時に腕の中でうずくまるたった一人の我が子を護るように固くまわした手を、母は自ら解いた。
母の匂いがふわりと鼻を突く。なんの武器も持たずに剣士に飛び掛った彼女もまた、刀の餌食へと化した。
母の温もりを掻き消すように吹く、冷や冷やとした風がアオイから体温を奪っていく。
両親を殺めた刀がアオイに向けられる。あまりの恐怖ゆえに身動きが取れない。アオイは死を覚悟した。きつく唇をかみ締め、俯く……が、一向に刀は振り下ろされない。
うっすらと目を開き、恐る恐る様子を伺う。
その目に映ったのは憎き二人の獣。しかし彼らの目にはもはや生気なと欠片もなく、自らの血で更に赤く染まっていくのだった。
天窓から儚げに月明かりが射す。暗闇の中、ぼんやりと浮かび上がる人影。彼は血の滴る剣を静かに鞘に納めた。
「お前、名は何という?」
落ち着いた、少し低めの声でそう訊ねた彼はアオイの目の前に腰を下ろす。
「あ、あおい……」
目の前で両親を殺された恐怖からか、まともな声すら出すことができない。そんなアオイを宥めるように、彼は哀れな少女の頭に手を置き、呟く。
「アオイ……か。良い名を授かったな。お前を必死に助けようとした両親への恩を忘れるな。一人でも、強く生きていけ」
「で、でも、あたし……」
両親……その言葉を耳にした瞬間、綺麗な青い瞳から大粒の涙がこぼれた。
「俺は龍。何かあったら俺が助けてやるよ」
龍はアオイの頭をくしゃくしゃっと撫でる。それが今は亡き父と重なって、余計に涙が込み上げてきた。
「もうじき夜が明ける。そしたらお前の命まで危うい。だから、今のうちに逃げろ。絶対、死ぬんじゃねぇぞ」
彼はやわらかく微笑むと「早く行け」と、それだけ言い残し荒れ果てた戦地を後にした。
アオイも彼に言われたとおり、生まれて初めて故郷から足を踏み出す。全身にまだ母の温もりが残っていて、脳裏には残酷な画が焼きついていて……ただ、ただひたすら走ることしか出来なかった。