『自分の領地に必死だと、ざまぁなんてしてる暇ないっちゅうの!』
『自分の領地に必死だと、ざまぁなんてしてる暇ないっちゅうの!』
「――というわけだ、サフィニア。政略結婚とはいえ、俺たちは互いに歩み寄れなかった。円満に婚約を白紙に戻そう」
秋の柔らかな光が差し込む、公爵邸の豪奢なサロン。
婚約者であるユリシーズ侯爵令息は、いかにも「理知的で寛大な男」といった優雅な仕草で、テーブルの上に一枚の羊皮紙――婚約破棄合意書を滑らせてきた。
その傍らには、いかにも可憐で儚げな子爵令嬢・リリアが、ユリシーズの腕に細い指を絡ませながら寄り添っている。
「サフィニア様、申し訳ありません……。でも、私たち、どうしても想いを抑えきれなくて……っ」
リリアは潤んだ瞳で胸元を押さえ、悲劇のヒロインのように身を震わせた。
ユリシーズはそんな彼女の肩を抱き寄せ、勝ち誇ったような、それでいて侮蔑を込めた視線をサフィニアに向けてくる。
「怒り狂うのも無理はない。罵りたければ罵るがいい。お前の冷酷で事務的な態度に、俺はずっと耐えられなかったんだ。慰謝料代わりに、お前が持参するはずだった東の荒れ地はくれてやる。……さあ、泣いて取り乱すなら今のうちだぞ」
サフィニアは、手に持っていた羽根ペンをくるりと回し、机の上の書類に目を落とした。
怒り狂って泣き叫ぶ?
紅茶をユリシーズの顔面にぶちまけて、「この不貞者ども、神の裁きを受けよ!」と叫ぶ?
王宮の夜会なら、ここで社交界を巻き込んだ壮絶な復讐劇の幕開けだ。王家に直訴し、相手の生家を取り潰し、浮気相手を修道院へ送り込む――いわゆる『ざまぁ』のターンである。
だが、サフィニアの口から出たのは、全く違う言葉だった。
「……ねえ、ユリシーズ様」
「なんだ? どんな恨み言でも聞いてやるよ」
「東の荒れ地、本当に私がもらっていいのね?」
「は?」
「あそこの土壌改良用の魔導肥料、王都の商隊が今日正午から数量限定で半額セールをやるのよ。今、十一時四十五分」
「サフィニア、貴様、話を聞いているのか!? 俺は浮気をして、婚約を破棄すると言っているんだぞ!」
ユリシーズが眉をつり上げて声を荒らげた。
サフィニアはすっくと立ち上がり、壁の古時計を鋭く見据えた。
「聞いてるわよ! 浮気したんでしょ! 荒れ地くれるんでしょ! 婚約破棄するんでしょ! オッケー、全部署名してあげるから印章貸して!」
「え、あ、う、うん……これ……」
あっけにとられたユリシーズから印章をひったくると、サフィニアは流れるような筆致でサインをし、封蝋にドンッ!と印を叩きつけた。所要時間、わずか三十秒。
「はい、成立! じゃ、商隊のギルドに行ってくるから!」
「ちょ、待て! お前、悔しくないのか!? 俺を呪ったり、リリアを社交界から追放しようと画策したり、復讐しようとは思わないのかよ!?」
ドレスの裾をたくし上げ、足さばきも軽やかにサロンの扉へ向かいながら、サフィニアは勢いよく振り返った。
「あのねぇ! 荒れ地の開拓と領民の冬支度で死にそうなときに、あんたらみたいな不潔な有閑貴族の後始末や復讐プラン練ってる暇なんて、一分一秒たりともあるわけないっちゅうの!!」
バタンッ!
重厚な扉を勢いよく閉め、サフィニアは早馬に飛び乗った。
秋晴れの王都を、馬車を追い抜くほどの猛スピードで疾走する。風が髪を乱す……なんて気にする暇もない。早く行かないと、半額の魔導肥料が売り切れるのだ。
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それからのサフィニアの生活は、まさに怒涛の開拓サバイバルだった。
「ざまぁ? 復讐? そんなの暇を持て余した宮廷貴族の道楽よ!」
夜十時、東の寒村の粗末な執務室。
机の上に山積みになった羊皮紙と測量図の狭間で、サフィニアは肩に湿布代わりの薬草を貼りながら、ソロバンを弾いていた。
婚約破棄されたのはいい。広大な土地も手に入れた。
だが、放置され荒れ果てた痩せ地を、冬が来る前に立て直すというのは、並大抵の苦労ではないのだ。
「治水工事の予算、魔導石の調達、越冬用の穀物確保……うっ、胃が痛い……! 領主代行の登記、税率の再計算、騎士団の詰め所の修繕……行政手続きだけで脳のキャパシティが爆発するわ!」
そこへ、幼馴染の近衛騎士・レオンが、夜食の温かいポトフを片手に現れた。
「サフィニア、差し入れだ。……例のユリシーズとリリアの噂、王都から届いたぞ。浮気劇が社交界で嘲笑の的になって、ユリシーズは夜会で肩身が狭いらしい。今なら王家に訴えて、あいつの爵位継承権を剥奪させる追い打ちもかけられるが?」
レオンが真剣な顔で剣の柄に手をかけたが、サフィニアはそれを手のひらで制した。
「レオン、ポトフありがとう。でも悪いけど、それどころじゃないの」
「えっ? なんでだ、あんなに屈辱的な扱いを受けたんだぞ」
「明日ね、ドワーフ族の親方と新しい水車小屋の建設交渉なの。図面を完璧に頭に叩き込まなきゃいけないの。あと、この執務室の暖炉が変な煙を吐いてて、煙突掃除しないと明日私の顔がススだらけの黒豚になるの!」
「す、スス……?」
「そうよ! 他人の破滅を願う呪いの儀式に使う魔力があったら、明日の交渉で『ぜひ我が領地に力を貸してください!』って笑顔の練習に使うわよ! 自分の領地を黒字化することに必死なの!」
サフィニアはスプーンを握り、具だくさんのポトフをガツガツと口に運んだ。
温かい滋味が、疲弊した五臓六腑にしみわたる。
「だいたいさぁ、復讐って『相手に執着してる』ってことでしょ? なんで私が、裏切った男のためにこれ以上、自分の貴重な脳のメモリを割かなきゃいけないのよ。一滴の魔力だって勿体ないわ!」
「……お前、本当にたくましいな」
「たくましくないわよ! 領民を食わせるために必死なだけよ! ほら、ドワーフの親方役やって! 模擬交渉するから、早く!」
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一年後。
痩せていた東の地は、見違えるような穀倉地帯へと変貌を遂げていた。
新設された魔導水車が心地よい音を立てて回り、街道には商隊が行き交い、実りの秋を祝う領民たちの笑い声が響いている。
自ら作業着を着て、実った麦の穂を検分していたサフィニアの前に、みすぼらしい馬車が一台止まった。
降りてきたのは、くたびれた平服を着て、目の下に濃い隈を作った男――元婚約者のユリシーズだった。
「……サフィニア?」
「あ、元婚約者」
「元婚約者って……。久しぶりだな」
「何か用? 私、あと半刻でドワーフたちとの収穫祭の打ち合わせがあるんだけど」
ユリシーズはおずおずと、泥除けのマントを握りしめながら口を開いた。
「風の噂で聞いたよ。この不毛の地を、一大穀倉地に育て上げたって……」
「まあね。寝る間も惜しんで働いたから」
「……実は、リリアと破局したんだ」
(はい出たー! テンプレ展開出ましたー!)
サフィニアは麦の穂を持ったまま、心の中で盛大に拍手を送った。
「彼女、着飾りや夜会の浪費が酷くてね。俺の財産を使い果たした挙句、別の金持ちの貴族の元へ逃げてしまった。社交界では笑い者になり、父上からも廃嫡を言い渡され……俺は、すべてを失った」
ユリシーズはすがるような目を向け、泥にまみれたサフィニアの手を握ろうと身を乗り出してきた。
「サフィニア……俺、やっと気づいたんだ。本当に俺を支え、導いてくれていたのは君だった。あの頃の穏やかな日々がどれほど尊かったか……! 俺たち、もう一度やり直せないだろうか? 君さえよければ、俺は君の補佐として、この領地で――」
ここで「ざまぁみろ!」と高笑いし、泥水をぶっかけて冷酷に追い払うのが物語の定石だ。
相手の惨めな末路を嘲笑い、溜飲を下げる。それが最大の復讐――のはずだった。
けれど、サフィニアの口から漏れたのは、心底うんざりしたため息だった。
「……ユリシーズ様」
「ああ!」
「あのね、悪いけど……本当に、心の底からどうでもいいの」
「え?」
サフィニアは腰の革ポーチから、分厚い手帳を取り出してユリシーズの目の前に突きつけた。
「今日の午後、王都の大商会との穀物輸出の調印式。夜は領民たちとの収穫祭の乾杯。明日は新しい灌漑水路の起工式で、来週は特産品のブランデーの試飲会。……見ての通り、私のスケジュール、向こう三年先までびっしり埋まってるのよ」
「そ、そんな公務、俺との愛の復活に比べたら……」
「比べものにならないくらい大事よ!!」
サフィニアはきっぱりと言い放った。その瞳には、かつての失望も恨みもなく、自らの手で未来を切り開く者だけの、眩いばかりの光が宿っていた。
「あんたが浮気相手と破滅しようが、爵位を剥奪されようが、野垂れ死のうが、私の領地の収穫高には一粒分も関係ないの。あんたに『ざまぁ』って言って美酒に酔う暇があったら、私は麦の品種改良を極めたいのよ!」
「ひ、品種改良……?」
「そう! 品種改良! あと、今夜の収穫祭は仔牛の丸焼きが出るの! あんたの懺悔に付き合ってる暇があったら、焼きたての肉を一番乗りで確保して明日の視察の英気を養いたいの! わかる!?」
ユリシーズは完全に言葉を失い、ぽかんと口を開けたまま立ち尽くした。
サフィニアは手帳をパチンと閉じると、踵を返した。
「自分の人生を面白くするのに必死だとね、他人に復讐してる暇なんて本当にないのよ。……じゃ、どうぞお元気で。二度と私の領地に足を踏み入れないでね!」
黄金色に波打つ麦畑の中を、サフィニアは裾を翻して足早に駆けていく。
背後からは、「サフィニア様ー! 宴の樽が開きましたぞー!」と領民たちの陽気な呼声が響いていた。
「今行くわよー! 一番樽は私のものよー!」
振り返る気なんて、これっぽっちも起きなかった。
澄み渡る秋空の下、サフィニアの足取りは、どこまでも軽やかだった。




