002.再会②
いざ命の恩人を目の前にしてみると、アリスはどうしてよいのか分からなくなった。駆け寄って頭を下げればよいのか、いやでももし自分のことを覚えていなかったらどうしようとか、ここは丁寧に挨拶するのがいいだろうか、そういえば初対面の人にはどう挨拶するんだっけ、えっと、本日はお日柄もよく――いや違うそうじゃない。
どこかに行ってしまった言葉を探すように、アリスは頭の中で思考を走らせていた。
固まったまま動かなくなったアリスを前に、狼頭の獣人――狼頭種は、しゃがみ込んで「どした? 嬢ちゃん」と声を掛ける。
思考の世界で迷子になっていたアリスは、突然視界を埋めた狼頭に「きゃっ」と短い悲鳴を上げて驚く。その反動で、後ろに倒れて尻もちをついた。
「ゲールったら、怖がらせてやんの~」
狼頭種の後ろから、腕に羽根が生えた亜人――翼腕種の女の子が鋭い爪の生えた手で口元を抑えながらニシシと笑っている。
「なっ、別に怖がらせちゃいねぇよ!」
後ろを振り返り、狼頭種が叫ぶ。その口元からは鋭い牙が顔を覗かせていた。
アリスは十五年生きてきて、初めて獣人や亜人を見た。
獣人や亜人は、人間のような国を持たない。部族単位で固まって生活をする。そして基本的に、彼らは人間と関わろうとはしない。理由は二つある。
一つは文化の違いだ。多くの獣人や亜人は、狩りと採集を主として生活をしている。これは、自然のあるがままを享受する、自然に対する信仰心によるものだ。農耕で発展した人間の価値観とそぐわない点が多いのだ。だからほとんどの獣人や亜人は人間に対して、蔑視的な感情を抱いていた。
そしてこれに拍車をかけるのが二つ目の理由である奴隷問題だ。アリスが生まれる前には奴隷売買は既に禁止されているはずだが、今でも社会の見えない暗がりで、彼らは攫われ、売られている。もちろん、社会問題にはなっているが、ローラック王国でさえ奴隷売買を行う団体のしっぽを掴めていないのが、悲しい現状である。
そういうわけで、普通に生きていれば亜人や獣人にお目にかかることはほとんどない。
アリスの眼前にいる狼頭種は、アリスを怖がらせてしまったと思っているのか、どう対処していいか分からずずっとおろおろしている。その様子を見て、後ろの翼腕種は相変わらずケタケタと楽しそうに笑っていた。
アリスが尻もちをついたのは事実だが、それはシャルルに話しかける言葉を探していた時に急に眼前に狼頭が出てきたからで、別に怖がったわけではないのだ。
「こっ、怖がったわけじゃないの。ただちょっとびっくりしちゃっただけで」
アリスは狼頭種を安心させようと、少し跳ねるように元気に立ち上がった。「おお、そうか」とどこか安堵した言葉を溢す狼頭種を横目に見ながら、スカートについた埃を掃って再度シャルルに視線を向ける。相変わらずフードを目深に被っていて、その表情は見えない。
そんなアリスの視線を、狼頭種も一緒に追う。それを認めたのか、シャルルがアリスたちのいる方に向かって歩き出した。
「なんだ、嬢ちゃん。うちの大将に用事か?」
シャルルを目で追いながら、狼頭種がアリスに尋ねる。
アリスはドキッとした。
用事はある。けれど、何も言葉を用意していないのだ。ただ感謝を伝えるだけじゃ足りない気がして、でも、ただ感謝を伝えるだけ以上の言葉一つさえ思いつかなかった。
少しずつ、シャルルが歩み寄ってくる。その後ろからは竜のような獣人――蜥蜴種だったろうか――が、静かについてきている。
シャルルは狼頭種の少し後ろで立ち止まった。アリスは狼頭種の肩越しに、彼に視線を注ぐ。
「ゲール、そろそろ迷宮に行こう」
口を開いたシャルルの声は、男性にしては少し高くて、ローデリカの話の通り、どこか柔らかい印象をアリスに与えた。相変わらず、顔は確認できない。
「おう、そうだな」
ゲールと呼ばれた狼頭種が返事をすると、シャルルは再び歩き出した。アリスには目もくれず、襤褸切れのような外套をはためかせ、アリスの横を通り過ぎて行った。
彼を先頭にするようにゲールと、それからゲールを笑っていた翼腕種、そして蜥蜴種が後に続く。
ゲールは少し振り向くと、「今日は悪かったな」とアリスに言いながら小さく手を上げた。そうしてまた前を向き、四人揃って冒険者組合を出ようとする。
ああ、ダメだ、行ってしまう。せっかく会えたのに、感謝の言葉を伝える絶好の機会なのに。何か、何か言葉を絞り出さないと。何か、何か――。
「あっ、あのっ!」
咄嗟に飛び出した声は単に引き留めるだけの言葉だった。一行が足を止める。シャルル以外がわずかにアリスの方に首を回した。
続く言葉を思考の中から探している余裕はなかった。
「私のこと、覚えて……ますか?」
シャルルの方を真っ直ぐ見ながらそう言った。それと同時に、私は何を言っているんだろうと、アリスは思った。素直に感謝の気持ちを伝えるだけでよかったじゃないかと。ただ、真っ先に飛び出したのはそんな確認の言葉で、感謝を伝えるうえでの前提条件のような気もした。
だって、恩義を一方的に感じているだけで、彼が自分のことを覚えていなくて、感謝の言葉さえ受け取ってもらえなかったら、この気持ちが迷子になってしまうから。
やや間があって、シャルルが振り向いた。やはりフードの中に隠れた顔は見えない。
アリスは彼の口から吐き出される言葉がどんなものか分からなくて、怖くなって目をぎゅっと瞑った。
「……えっと、どこかで会ったかな?」
ああ、ほら、そんなことだ。
「あの、前に――四か月ぐらい前に迷宮で助けてもらっ、て……」
「ごめん、人間の顔を覚えるのが苦手なんだ。人を助けるのもよくあることだし、感謝されるほどじゃないよ。むしろ、感謝されたくないんだ」
それじゃあね、と言い残してシャルルは冒険者組合を出ていった。亜人や獣人たちも彼に続いて行った。
結局、アリスの気持ちは伝える前に撥ね退けられた。アリスは立ち尽くしたまま、誰もいない入り口をただただ見つめていた。
§
「シャルルが人と話したの、初めて見た」
シャルルと腕を組むようにして歩く翼腕種が、冒険者組合の入口の方を向きながらそんなことを溢した。
「――見目麗しい受付の者たちとすら話さない貴殿が、なぜあの娘と話す気になったのか。吾輩も少々気になります」
蜥蜴種も翼腕種と同様に、シャルルの行動に興味を持っているらしかった。問われたシャルルは落ち着いた声音でこう答える。
「あえて言うなら、分かりやすい拒絶だよ。感謝されて、恩返し云々で近づかれるのはごめんだ。それに、嘘を言ったわけじゃないからね。実際に僕は人間の顔の見分けがつかない」
「でもよ、大将。あの嬢ちゃん、大将に惚の字だぜ」
「勘弁してくれ。僕は人間が苦手なんだから」
言いながら、シャルルは首を小さく横に振って拒否の意を示した。
そうして一つ、ため息をついた。




