001.再会①
優しい人が好きだった。彼はその中でも、特別優しい心の持ち主だった。あるときは車に轢かれそうになった猫を助け、あるときは学校に行く途中でおばあさんに道を聞かれて、自分のことをそっちのけで一緒に目的地に歩いて行った。結局遅刻していたっけ。
他にも、同級生が落とした財布を一日中探したり、電車で妊婦に席を譲ったり、公園でけがをして泣いていた女の子に絆創膏を貼ってあげたり――。
大きいものから小さいものまで数えれば、彼の優しさの形は体の指の数じゃ全く持って足りないほどだった。
そんな彼を、私はずっと見ていた。ずっと見ていたからこそ、彼が抱えている運命に悲しくなった。
ある日、彼は死んだ。交通事故だった。ボールを追いかけて道路に飛び出した小さい男の子が車に轢かれそうになり、それを助けるために道路に飛び込んだ。男の子の背を押して、身を挺して命を救った。幸い、男の子はかすり傷で済んだけど、私がその状況を認めたその瞬間にはもう、彼の体は宙を舞っていて、鈍い音と一緒に路面に叩きつけられていた。本当に一瞬だった。
空から見ているだけで何もできない自分に腹が立った。ショックだった。その時になってようやく気がついたことがあった。
彼のことが好きだったんだ。愛していたんだ。
好きだから、生きてほしいと思った。たとえ住む世界が変わっても、彼には彼として生きてほしかったんだ。
だから、どうか彼の生がどこかで報われますようにと願いを込めて、別の世界に生まれ変わらせた。
でもそこは、日本みたいに平和じゃない。人間のほかにも、彼らを脅かす魔物や、それを従える魔王がいる、とても危険な世界だ。
彼は虫も殺せないほど優しかったから、きっと新しい世界では誰かを守るために、自分を守るために、生き物の命を奪わなければならない。それができるように、私は女神の寵愛を彼に与えた。与えてしまった。
愛は最も歪んだ呪いだとそのときに思い知った。私の彼に対する強い執着が、寵愛を歪めてしまった。
そのせいで、彼は――、人間のことが――。
§
アリスは一度、死にかけたことがある。
口煩く過保護に育てられることに嫌気がさして家を飛び出し、刺激を求めて冒険者になって最初に行った迷宮の、第二階層でのことだ。
街中の商店で売られていた安物の剣を一振り携えて、第一階層を突破 (とは言っても魔物の類に遭遇しなかったので、薄暗い通路をただ歩いただけなのだが) した後、アリスは「案外自分は優秀なのかも」なんてことを考えながら階段を下りて第二階層に向かった。
迷宮自体は最近出現したばかりの小さなものだったし、それこそ迷宮攻略の依頼が駆け出し冒険者でもあるアリス一人でも受けられたため、大した迷宮ではないとアリス自身思っていた。
迷宮は、魔王が魔法を使って人間の国々に出現させている。アリスの住むローラック王国においては退魔の結界が張ってある街中に出現することはないが、街の外ではその限りではない。出現した迷宮の数は多く、総数も場所も、全てが把握できているわけではないそうだ。
迷宮からは様々な魔物が出てくる。それを抑えるのがローラック王国の兵士や冒険者の仕事なわけだが、それでは根本的な解決にはならない。迷宮を攻略して、魔物の発生源そのものを潰す必要がある。
当然、迷宮の中では命のやり取りが行われる。魔物だって生物だし、魔王の息がかかっている手前、迷宮への侵入者には殺意を持って接する。そのやり口は罠であったり、自ら殺しにかかったりと様々だ。アリスはそれを軽視していたのだ。
案の定、迷宮攻略に対する知識も経験も意識も備わっていないアリスは、第二階層へ降りたところの罠にまんまと引っ掛かった。落とし穴だ。
お尻から落ちたアリスは、痛むお尻を摩りながら立ち上がる。見上げると、なぜか穴は塞がっていた。完全に閉じ込められていたのだ。
このときになってようやく、アリスは自分があまりにも愚かで軽率だったことを思い知ると同時に、得も言われぬ恐怖に駆られた。
落ちた衝撃で左手に持っていた手燭の炎は消えてしまっていた。明り一つない暗闇という状況が、より一層アリスに絶望を与えた。
その絶望が呼吸を浅くし、思考を鈍らせる。経験値の少ないアリスには、状況を打開する手立てなど一つも思いつかなかった。
おまけに、穴の中には何やら甘ったるい匂いを纏った空気がどこからか流れ込んできていて、その花のような香りを感じたときから、体が痺れ始めていた。このときのアリスにはその匂いの正体など分からなかったが、人食い花の放つ麻痺性の毒だと、後から組合の受付嬢 (名をローデリカと言うらしい) に教えてもらった。
思考さえも麻痺し、座り込んでいることもままならずどさりと音を立てて倒れる。全身の筋肉が緩み、顔は涙や鼻水、涎でぐちゃぐちゃになり、生温かい尿がじんわりと下腹部を濡らしていた。毒で呼吸さえもままならなくなり、本能的に死を感じた。恐怖とか、後悔とか、そんなものを考えることすらできなかった。
だが、気がつけば組合の医務室で、知らない天井を見上げていた。
傍らには受付嬢であるローデリカが心配そうに座っていて、目覚めたアリスを見て涙を流していた。
アリスが若干痺れの残る体を起こすと、ローデリカは側頭部で一つに束ねられた髪を揺らしながら、何度も申し訳なさそうに頭を下げた。
というのも、どうやらローデリカも受付嬢として仕事を始めたばかりの新人だったようで、アリスが引き受けた依頼は、本来であれば駆け出し冒険者が受注できるものではなかったらしい。アリスの出発を見送ってからそれを知ったローデリカは、組合内で一番目立っていた亜人、獣人を連れた冒険者に声を掛け、後を追ってもらったのだという。そうして彼らが急いで後を追い、アリスを助けたのだそうだ。
その冒険者の名はシャルル・ボーン。銀階級の八芒星。アリスは自分よりどれだけ階級が上なのか、指折り数えてみた。
このときのアリスが木階級の五芒星。つまり一番下だ。星芒の数が五から八まであり、階級が木、鉄、銅、鋼、銀、金、白金と上がっていくわけなので、シャルルの階級はアリスの手の指では足りないほどだ。金階級でも一握りとのことなので、その一歩手前であると考えれば、かなりの実力者になる。
そんな凄い人に助けてもらったのだ。
アリスは「ちゃんとお礼がしたい」とローデリカに打診した。しかしローデリカは、険しい表情を浮かべ、「これは私が少し話した感想と、先輩から聞いた話なんだけど」と切り出してこう続けた。
「シャルルさん、人が苦手なんだって。お仲間さんと話してる感じ、すごく物腰柔らかい人ではあるんだけど、ずっとフードを被ってて表情分からないし、目も合わないし、話しかけるときに近づいたら少し距離を取られちゃったんだ。それに、結局私と話したのはお仲間の狼頭種さんだったし、お礼も要らないって言ってたから、直接伝えるのは難しいと思うよ。
今回はたまたま、指名があって中央冒険者組合の依頼を受注しに来てただけみたいだし、どの町の組合に顔を出すかは分からない、拠点を決めない冒険者なんだって」
獣人や亜人とパーティーを組んでいるのもそういう理由だと、ローデリカは話を締めた。
その話を聞いてから四か月が経つが、彼女の言う通りシャルルには会えていない。アリス自身も、色々な街を転々として冒険者組合に顔を出してみるものの、獣人や亜人を連れた冒険者は一人もいなかった。情報はあるものの、情報に従って次の街につく頃には彼らは次の街に発っている。そんな四か月が続いた。
日銭を稼ぐため、アリスは行く先々で依頼を受けた。とはいっても、迷宮攻略の依頼だけは、怖くて受けられなかった。最初の冒険が、完全にトラウマになっていたのだ。
落とし物を探したり、人を探したり、そういう依頼も冒険者組合に入ってくるので、そういった平和的なものばかり選んでいた。ただ、数をこなしたおかげか、階級の星芒は一つ増えた。木階級の六芒星。それが現在のアリスの階級だった。
受付の話によると、四か月で木階級の六芒星はかなり昇格が遅いらしい。当然、迷宮攻略を避けているのが原因だった。
探し人も見つからなければトラウマのせいで成長も遅い。迷宮攻略に行けないパーティーメンバーは需要がないみたいで、アリスをパーティーに迎え入れてくれる人もいなかった。それもそうだ。命がけの冒険に、世間知らずな小娘を連れていくほどやさしい世界じゃない。
挙句の果てに、長めに滞在した街では「人探しのアリス」だなんてあだ名がつけられる始末だ。
アリスは、自分自身には冒険者の才能がないのだと悟った。最初に冒険者登録した中央の冒険者組合に帰って、木製の階級証を返してしまおうと思った。家に帰るのは嫌なので、そのまま組合の受付嬢になろうかと考えた。幸い、ローデリカはアリスを心配してくれているようで、何度か手紙を送ってくれていた。彼女と一緒なら、きっと楽しく働けるだろう。
それに、受付嬢をやっていればシャルルにも会えるだろうし、そこで感謝を伝えられれば別にいいと思った。
そんな未来を描きながら、アリスは首から掛けた階級証を外して、中央の冒険者組合の入り口をくぐる。気分は沈んでいて、足元ばかりを見ていた。
不意に、組合内が騒がしいのに気づく。何か起きているのだろうかと思って顔を持ち上げる。そのときになって初めて、自分が足元ばかり見ていたせいで人にぶつかりかけていたのに気づいた。
「あっ、ごめんなさ――」
そこまで口にして、眼前の光景に違和感を覚える。
毛だ。焦げ茶色の毛の壁がアリスの前に立っている。
「おう、悪いな嬢ちゃん。俺もちっとよそ見してた」
毛の壁が喋る。声に合わせて毛がわずかに震えている。毛の壁は見上げるほどに高く、アリスの身長の一・五倍はあった。そして一番上には狼の頭が鎮座している。
間違いない。獣人だ。
その狼頭を見た瞬間、アリスは周囲を見渡した。組合内には狼頭の獣人のほかに、腕に羽根が生えた亜人が一人、竜のような獣人が一人、そしてその傍に、フードで顔を隠した、人間が一人。
条件だけ見れば、アリスの中では確定だった。ようやく見つけたのだ。
彼が、彼こそがアリスを助けた冒険者、シャルル・ボーンだとアリスは確信した。




